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「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」


 高校二年生の秋、文化祭準備の真っ最中。
 文芸部の部長をつとめていた私は、あれやこれやとうきうきしながら楽しく――ではなく、
 わりとかなり苛々しながら、教室準備と部誌の印刷作業を進めていた。

「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」――そんな思いに駆られて、心を削りながら準備を進めていた。

 文化祭当日に配布するために、以下のような宣伝ペーパーを書いて、じっさい文化祭の二日間で数百枚配りに配りまくった。
 書いたこちらとしては、とにかく文字を扱う文芸部らしく文字がぎっしりしていてくれればよいとか考えていた。だがのちに思ったように、宣伝効果は、きちんとたしかめないほうがよいかもなあといまだにそう思う「大作」である。そう、皮肉にしても笑っちゃう、……「大作」。

 いまであればこそわかる、当然のことがある。
 組織というのは、永遠ではない。もちろん私たちの文芸部も、けっきょくのところ永遠ではなかった。

 その文化祭の一年半後に私は卒業し、その次にはひと学年下の後輩たちが、そしてその次の年にはふた学年下の後輩たちが、卒業していった。毎年毎年、文化祭に遊びに行ってはいた。年を追うごとに、自分はもうこの組織の人間ではなく、OGという名前のお客さまなのだという実感が、思いを強めていった。
 そういえば自分だって高校一年生のときの大学生の先輩なんていうのは、お客さまでしかなかった。OBOGが来たときの、尊敬というよりは敬遠といったほうが申しわけないけども近いその気持ち。そのことを覚えてはいるから、こちらが卒業後の文芸部を訪ね、「卒業生です」と言って、たとえかたちだけであっても自分たちを歓迎してくれる母校の文芸部には、あたたかい感謝の気持ちは、ある。ただしその気持ちは、お互い縁がありながらも、やはりよそものどうしの交差の愛想のあたたかさなのだろうとは、思う。

 さみしかった。
 文芸部が永遠ではなかったことが、さみしかった。卒業後、それこそ二十歳を過ぎるあたりまで、私はずっと「自分たちの文芸部」の亡霊に、とらわれていたように思う、……お恥ずかしながら。

 これも、もちろん、いまならわかるのだ。
 組織というのはむしろ、永遠でないからこそ、尊く、価値があるものなのだと。
 とくに学校の部活なんていうのは、新陳代謝が激しい。一年ごとにメンバーが入れ替わり、下の立場だった者が中間へ、そして上の立場になる。短いサイクルでの入れ替わりを繰り返す。
 どんなに嫌でも終わりがくる。永遠の日常ではない。終わりのある日常。
 組織というのは組織である以上そういう性質なのだ。……だからこそ、そこでうまれうる友情や個別的な人間関係は、そのあとずっと続く場合もあるし、それもとても尊く価値のある――組織の性質、だと思うが。
 当時は日常が永遠に続くかのような気がしてた。終わるだなんて、よくわからなかった。信じられなかった。私がそれをはじめてちゃんと知ったのは、卒業式後の三月に、学籍は高校にあるけど私服で来いと言われて、私服で学校に行って、……制服の後輩たちとすれ違ったときである。

 だから、「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」――そんなわけはない、そんなわけはない、そんなわけはなかったのだ。
 私がかりに部長でなくても、だれかがやっただろう。私が部員でなくても、だれかがそこにいただろう。
 さまざまな要因の結果として、私は高一の秋から高三まで、二年以上部長をつとめたけれども、
 ……それはただ私がたまたまそこにいたから、にすぎない。

 けれども、すくなくとも高二の秋のそのときは、……その気持ちはほんとうで、私は泣きたいほどその気持ちをかかえていた。重く。

 文芸部には毎年、校舎の隅っこのほうの教室がいっこブースとして与えられた。
 私たちはそこで部誌を配布する。毎年、というよりは――私が高一のとき、部誌というものがなかった文芸部に部誌をつくろうということで、学校としての部誌を創刊したのだった。

 文化祭準備の日、私は当時はロングで校則でおさげにしていた髪を揺らしながら、
 おそらくは切羽詰まった様子でわざとほどいて、わざとらしく結びなおしながら「みんな」に言った。

「印刷、まだ終わらないって。ああ、私クラスのほう顔出さなきゃだから、だれか先生から印刷ぶん受け取れる?
 印刷機がイラ漫と被っていて順番が遅れた。私は去年も経験あるからわかるけど、やっぱ50部じゃ足りないみたいだわ、経験上100部は刷けるから。追加で当日も50は配布したいから、いまさっきついでに印刷機予約しといたから。
 先生も生徒会担当で、なかなかつかまらないし、だれか」

「みんな」は生返事だ。
 なんだか妙に男女比的に男子の多い文芸部。
 文芸をやりたいというよりは、文芸部の荷物置き場でモンハンをしたい男子のたまり場にもなっていた。

「ねえ、だれか! 私いまクラスも行かなきゃいけないんだってば、うちのクラスは選抜だから部活やってるひとあんまいないの、私だって文芸部の部長だからって特別にシフト組んでもらってて――」

「まー、まー、いいじゃん掛川さん。適当に俺とか受け取っとくよー」

「いや○○くんそれありがたいけど○○くんそもそも文芸部じゃないよね!? いつも遊びに来てくれるのは賑やかで嬉しいけど、いまはほんと部誌のあすからの配布のかかった文化祭の準備で、部員ってわけじゃないんだから――」

「だいじょぶですよ、部長ー。俺らだれかはここにいるようにしますから。荷物放置できないし」

「いやそれほんとにね!? モンハンやってるのはまあいいけど、先生に見っかんないでよね、顧問の○○先生ならまだいいけど風紀の××先生とか見回ってるんだから――」

「とりあえずクラスがあるなら行ったほうがいいんじゃない?」

「あー、……あー、そうねクラスのほう行ってきます。とにかく部誌は優先的に受け取ってね、早めにね、よろしくね! もうほんと印刷機もいろんな部活やらクラスやら使うっていうんでいっぱいなんだから、もう一台くらい増やせばいいのにまったく……」

 私はヘアゴムを口にくわえて髪をまたしても結びなおすと、ばたばたとクラスのほうに向かうのだった。

 以下は、当時のmixi日記。

「喫茶店。」

喫茶店中心の穏やかな生活が好きな私ですが、この時期ばかりはそうも言ってられません。
なんといっても明後日は文化祭です。純文化部の文芸部は、いろいろ準備があります。……最後のほうは写真撮影とかしていましたが\^o^/
ともかく喫茶店に行く余裕がないです。
しかし頑張ります。

さて、明日製本できるか……\^o^/

ネガティブなことを口にすると、ほんとうにものごとがネガティブな方向にいく気がします。
たとえ疲れていても、「楽しい」「頑張ろう」とポジティブなことを口に出す。愚痴を言わない。(自分が潰れない程度に、ですが)
そうありたいものです。

今回の文化祭準備では、責任というものを実感として学びました。
代表者というものは泥かぶり役で、お世話役で、使い走り。(当たり前といえば当たり前ですが)
代表者にくる責任や雑務やその気持ちが、よくわかりました。

明日も頑張ってきます。

 文化祭当日のことは、むしろ準備よりも記憶がぼんやりしている。
 部活ではなくクラスのほうの出し物の受付をやってるとき、金銭管理の問題でつねにふたり以上ひとがいないとだめなのに、
 文芸部のほうが気になりすぎて、「シフト、早上がりしていい?」と勝手を言ってクラスメイトの男の子を困らせてしまったことを、なんだか妙に、覚えている。

 そう、この「気になりすぎて」もほんとうは嘘だった。当時は、自覚がなかったけれど。
 べつに心配とか不安とかではなかったのだ。感情が、そういう皮をかぶっていただけで。

 私は文芸部にいたかったのだ。ひとときでも、長く。

 高二の秋。来年は受験だから文化祭は出しものはできないよと言われまくった秋のこと。
 文芸部がもしかしたら永遠ではないのかもしれないなんて、そんな真理に、気づきかけてしまっていたときのこと。

 とりかえしのつかない青春を、自分が送っているという焦燥感。

 そんな、ほんとうはとてもとても、……くだらない気持ちで、
 私は、「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」と、
 めいっぱいに仕事をして、部長として、そう、部長としてと言えるように、……校内を騒がしくばたばたと走り回っていたのだ。

「私がいなけりゃ、文芸部は成り立たない」
 ああ、そうだね、ある意味ではほんとうにその通りだった。

 だって、私にとって、
 文芸部というのは、……居場所だったのだから。
 私のいない文芸部――それは、「私にとっての文芸部」では、なかったのだ。
 ただ、それだけのこと。

 ……それだけのことだったのだ。
 私の、あの、からまわりして走り回って、暗くなってもまだ騒がしい校舎のなかを、作業中のジャージ姿の人たちや床に散らばる段ボールやらペンキやらの上をよけて歩いて、
 なぜか当時はわけもわからず涙がちょっとだけ出てきたあの――文化祭は。

 ……まあ、それだけ、なんですけど。


 ちょっとした、後日談がありまして、……これはこの想い出話にとってはほんとうにちょっとしたことかもしれないんですけど、
 私はいま、そのときおなじ508の文芸部ブースの教室の空間にいた後輩男子だったひとと、……恋愛的な意味でのおつきあいを、もうわりと長いことしていまして。

 べつにもうわれわれにとって先輩後輩というのははじまりの状態でしかなく、まあかくまで長くそしてお互いかなりまじめにというか真剣におつきあいしていると、もはや、文芸部のなんたらなんたらではない、あくまでも恋人どうしの関係なんですけど、

 なにがゆいたいかって、永遠ではなかった文芸部のなかにも、
 あのときの文芸部という組織がかたちとしてはすでになくなったあとでも、
 そこから、ずっと続くものはあった――ただそのことが、とても、とても、……あのとき流した自分勝手なつめたい涙の温度をも、あたためてくれる気が、しているのです、……いまも。

 文化祭の、想い出。
 まあ、私にとっては、……まっさきにこのようなものでした。

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