今、この、私
今朝、目覚めて、昨日のことを思う。
何も、覚えていない。
と、いうのは大袈裟だけれども。対して変わりはないと思うのは、覚えていても、覚えていなくても、私のすることに変わりがないからかもしれない。
いつからこんなことを感じていたかなんて、それこそ本当に覚えていないのだけれど、私のこの忘れっぽさが、諦めにも似た受容に変換されたとき、きっと、私の脳の記憶を司る部分は「まあいいか」とつぶやいたに違いない。
私にとっても、それで何が困っているわけでもなければ、周りに迷惑をかけているわけでもない。きっと私は何も変わらず、いつも通りの日々を過ごし、つとめあげ、そうして終わりを迎えているのだろう。
なんて、そんな、大袈裟なものではない。
昨日何を食べたか、とか、こんな話しをした、とか、どこに行って何を見た、とか、こんな交流をした、とか、そんなこと覚えていなくても、生きていけるものなのだ。
記憶の連続性は私を私として認識させるものではあるけれど、だからといって、私がいなくなるわけでもない。今の私からしたら、十分後だろうと十分前だろうと、私の認識のない私であって、言ってしまえば他人のようなものだ。昨日の私も、明日の私も、今の私からしたら他人なのだろう。
誰かとあいさつをして、その人が私を認識する。会話をして、つながりを感じ「またね」と、次に本当に会えるかどうかもわからないまま、別れを告げる。
次会う私は、今の私ではないというのに。いや、それは、逆も然りだろう。
私にとって記憶とは、そんな曖昧なかけらのひとつひとつであって、けっして覚えていられるものではない。
同じ場面に遭遇して、同じように感じ、同じように思い、同じような言葉を発して、同じように行動する。
いつだって、この瞬間、目の前に現れるものがすべてであって、新鮮な出会いなのだ。
朝、目覚めて、昨日のことを振り返ってみる。
何も、覚えていない。
そんな大袈裟なものではないにしろ、私はいつだって、そんな新鮮な気持ちで生きている。まっしろな朝、まっしろな世界、まっしろな私、まっしろなーー
そんな私にこうしていつも話しかけてくれる、あなた。そんな私を面倒とも思わず、疎ましく思わず、かかわってくれる、あなた。
たとえ私が覚えていなくても、きっとあなたが覚えていてくれるだろう。
たとえ私が同じことを話しても、きっとあなたは笑って聞いてくれるだろう。
そんなあなたに甘えてしまっているのかもしれない、けれど。
そうしていつか、いつしか本当に記憶が曖昧になって、すべてを忘れてしまったとしても。
きっと、同じように、つながってくれることを、今のあなたになら信じられる。
少なくとも、今、この、私は、そう思っている。
そう思って、私は、今を、生き続けている。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。