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おかしいのは――

 部屋の扉をノックすると、どうぞ、と小さく聞こえる。私は聞こえないように深呼吸をすると、扉を開いた。
 姉は椅子に座って本を持ったまま、ぼぅっとしていた。あきらかに本に目を向けておらず、ページを開いているのも、おそらく適当であろう。いつからこうして佇んでいるのか、を想像するよりも、ごはんできるよ、と伝えるほうが先決だった。
 姉は静かにこちらに目を向けると こくん 何も言わずにうなずいた。

 リビングに戻った私はすぐにご飯の支度をせずに、ソファに横になる。
 いっそ、そのまま眠りたくもなったが、さすがにそこまでかからないだろう。ふぅ ひと息だけついて、体を起こす。台所へと向かい、お皿だけを用意しておく。あとは、またフライパンのものを温めるだけだ。
 いつから いつまで
 なんて、言葉が頭をよぎる。そんなことを想像するよりも、何も考えないほうが気持ちが楽だった。
 
 食器のぶつかる音とかすかな咀嚼音だけが響いている。静かすぎて返ってかまびすしいとも感じる。この、無音が。この、静寂が。心に、脳裏に、いつまでも響いている。それに加えて鼓動までもが我こそと主張するように奏でだし、収拾がつかない。そんなふうに、感じられる。そんなことない、と思いながら気を紛らわせようと食事以外に目を向ける。呼吸音さえもうっとうしいと感じて、あきらめながら食事に戻る。そのさい、姉の姿が一瞬見えたが、まるで塗りつぶされたように、顔が目に入らなかった。
 食器を洗っていると、おもむろに姉が立ち上がる。私は手を動かしながらも ちらちら その様子を眺める。台所までくると、
「何か手伝えることある?」
 今、この場では特になかったけれど、思考を巡らせて、お風呂掃除をお願いしたいな、と伝えてみる。
「うん、わかった」
 姉はすなおにそう言うと、おそらく浴室に向かっていった。姿が見えなくなってから、小さくため息をつく。水に流れていく汚れと一緒に、この気持ちも流れてほしかった。
 
 きっと、産まれたときから、何かあったのだと思う。
 母には、姉はまったく理解できなかった。
 父はもともと放任しているし、姉も、私も、それどころか母にさえ関心がないように思う。
 母は、ひとり、悩んでいた。
 それとなく私が姉の気持ちに寄り添えるのは、きっと私も、産まれたときからどこかがおかしいのだろう。何が、どれが、と言われると、そんなことはわからない。わからないし、そんなことはどうでもよいようにも思う。理由なんて、いらない。なくて構わない。あろうと、なかろうと、変わりはないから。
 それでも、姉も、私も見放して、お金だけを渡してルームシェアをさせているのは納得がいかなかった。
 ひとりの時間が増えたからか、姉はますますどこかへ行ってしまったかのように、何もできない時間が増えた。言葉と行動はちぐはぐで、動作に時間もかかる。何物にも左右されない、何者にも束縛されない、疎外もされない、阻害もされない。ひとり、なのだから。
 それで、母は、いいのだろうか。
 自分が悩むよりも、突き放してしまったほうが、楽だったのだろうか。
 それとも何か、他に、私にもわからない理由があったのだろうか。……そんなこと、関係ない。あろうと、なかろうと、こうして突き放したことに、変わりはないのだから。

 普段はあまり、遠出はしないようにしている。
 それでも今日は、高校から付き合いのある沙希との飲み会で、姉には事前に伝えていた。
「気をつけて、いってらっしゃい」
 グラスを重ねたときに、姉の振る手を思い出した。
 少しばかり沈んだ心地がまだまだそれほど飲み慣れていないお酒に浸透し、ゆれている。周りのがやがやが耳元でささやかれているような、そんな感じがする。
 遠い 近い 何もかも すべて
 そうして、いつしか――
「あかね はさ、気にしすぎなんだよ」
 すぅーっと、すべてが消えていって、そこには、沙希がいた。
 ちゃんとした、はっきりとした言葉が、鼓膜をゆらしている。
 おかわり、と店員に声をかける沙希は、私よりも速いペースで飲んでいる。それでも頬さえ赤らめずに じっと 私を見つめる。
「まーた、お姉さんのこと考えてたんでしょ? そんなに心配なら連れてきなよ、いっそ。それとも、私がそっちに行こうか?」
 ゆがんでいた思考が急速に現実に戻されて、それでも追いつく前に体が驚きに震えている。その瞳も、声色も、真剣な様相で偽りなく、かといって感情に任せてもいない。紛れもなくそう思っているから口にした言葉であって、だからこそ、なんて返答したらよいのか、迷った。
 慌てることもなくおかわりのビールを飲んでいる。私は言葉に詰まったまま、グラスを握ったまま。
 やっぱり、
 ふいに、沙希が口を開いた。
 もう何杯目かもわからないグラスを空にすると、店員に新しいお酒を注文している。
 レモンサワーが来たところで、
「甘いね、本当。自分にも、お姉さんにも。まあ、仕方ないことかもしれない、けれどさ……なんていうか、うん やっぱり――すなおだよね、あかね はさ」
 すおな――その言葉を聞いて、とっさに反応さえできずに ぽかん 停止してしまう。そんな私の様子を見て ぐい グラスを傾けると、
「いろいろ、お姉さんのこと言っているけれど、さ 本当は、安心しているんじゃない?」
 注文いいですかー? 沙希の声が響く。
 脳裏に響く、言葉、何も、出てこない。
 私も静かにグラスを傾ける。その様子を見て、
「困惑しているのがまるわかりだよ」
 そう言いながら、微笑んでいた。からかうような口ぶりで、責めている感じはしない。だって、と言いかけて、やめた。うつむきそうになる顔を ぐっと 持ち上げて、沙希の瞳を見る。ようやく少しずつお酒は回っているであろうほんのり上気した頬に、それでいてまっすぐ私を見据えるその眼が、やっぱり――心地よかった。
 安心している、そう言われて困惑している自分がいる。この居心地を安心と呼ぶものなら、姉にそんな気持ちを感じているわけではなかったし、沙希ほど心を傾けて会話ができているとも思えなかった。
 それでも、沙希には、何が見えているのだろう。
「んー? あかねがお姉さんのこと話しているとき、言葉ではあれだけれど、表情が、ゆるむんだよね。なんとなくだけれど、お互いにしか理解できない、そんなものがある、感じかな」
 そうなの?
 自然にこぼれ出た言葉は どう、届いたのだろう。
 姉の姿が頭の中に浮かびあがり、その表情をのぞいてみる――
 すっかり、眠そうな様子に、そろそろ帰りましょうか、と伝える。
 タクシー内で私の膝を枕に眠る沙希の頭をさすりながら、静かに流れていく景色を眺めた。

 目覚めると、窓から薄い光がさしこんでいた。体をゆっくりと起こすと、息を吐いて、少しばかりぼぅとする。
 リビングに行くと、すでに姉がいた。何をしているわけでもなく、ただ、座っている。私が部屋に入ってきたことに気がつくと、ゆっくりと視線を向けて、微笑んだ。
 姉の顔を、ちゃんと見ているのは、どれくらいぶりだろう。いや、ずっと、見ていた。見ていた、はずだった。けれど、きっと、意識が、目をそらせていたのだろう。
 無言でコーヒーを淹れて、テーブルまで運ぶ。
「ありがとう」
 ありがとう 何度か、小さく、そう、つぶやいていた。
 そう言いながら、コーヒーに手をつけることもなく、身じろぎさえせずにいる。 
 何を、考えているのだろう。
 今――いや、これまでも、いったい、何を、考えて、いるのだろう。
 私にも、それはわからなかった。母は、早々にあきらめていた。
 それでも、なんで、見放すことはできないのだろう。なんで、気持ちに寄り添えるような、心地になるのだろう。
 姉のことなんて、まったく、理解できないのに。いや……
 そもそも、他の誰かのことなんて、理解できているだろうか? 私には、私のことさえ、わからないのに。
 そういえば、そうだ。
 理解なんて、そもそも、できていない。
 だから、私には、わからない。
 どうして、突き放してしまうのか。敵対視するのか。拒絶するのか。嘲笑するのか。私には、わからない。
 姉は、ようやくコーヒーを手に取ると、ゆっくり、味わうように、口につける。おいしい、私の耳に、かすかに触れる声色が、あまりに自然で、心地いい。
 ふいに、沙希の言葉が蘇った。
 もしかしたら、この感覚を、無意識に、表現していたのだろうか。それを、沙希は、読み解いていたのだろうか。
 自然な、無垢な、心地。
 姉の瞳を見る。ぼやけていた姉の顔が見える。それはけっして、私が思っていたような、うつろな暗黒を映しているわけではなかった。かといって、きらびやかに、光輝いているわけではない。ただ、すなおに――本人の感じるがままに、私から見れば無を映し出していた。
 もしかしたらこれが、自然なことなのではないかしら。
 この世界の多くがおかしくて、姉のほうが自然なものなのではないか。
 みんながおかしいから、こんなにもつらいのではないか。みんながおかしいから、生きにくいのではないか。みんながおかしいから、おかしく思われているのではないか。みんながおかしいから、邪険にされているだけではないか。
 ……だなんて、そんなふうには言えない。
 けれど、だからこそ、姉の、善悪もないような、純粋さが際立つ。
 それが、いいか、悪いか、まではわからない。そんなこととはお構いなしに――美しい、と思う。
 そう思うのはきっと、私も異常な人間だから、なのだろう、か。
 いつから いつまで
 そんなふうに思ってもいたけれど、はじめから ずっと そうだったのかも、しれない。
 私たちがおかしいのかしら みんながおかしいのかしら
 姉がおかしいのかしら 私を含めたみんながおかしいのかしら
 わからない それでも、この人の世を生きるには……
「どうして、泣いてるの?」
 気がつけば、いつの間にかに私の顔を覗きこんでいた。とっさに頬に触れてみるが、涙がこぼれているわけではない。それでも不思議そうに首をかしげている姉は、どうして? とまた聞いてくる。
 何にもないよ、泣いてなんていないよ、そんなふうにこたえようとして、言葉が詰まる。姉の目があまりにも真剣に、泣いている、と伝えているように思えたから。
 私に、何が、伝えられるだろう。真剣な想いに、どう、こたえられるだろう。
 こんな世界に、この、人の生きる世の中に――
 悩んだ末に、先ほど姉からいただいた言葉をそのまま贈った。それはすなおに感じた、私の言葉だった。
 泣いている、のこたえとしてはあまりに外れていたものの、姉は納得したように笑みを浮かべた。
 安心したのか、それ以上何を言うこともなく、突然席を離れると、部屋に戻っていった。
 取り残された私は ふぅ 息を吸い、息を吐くと、コーヒーの後片付けを始める。いいも、悪いも、まだ、何もわからない。何も、変わらない。
 それでも、この感覚はきっと、私だけのもの。姉にも、沙希にも、他のみんなにも、ない。私だけの。
 静かな朝に際立つコーヒーの残り香が、姉の余韻を感じさせる。それは、いつまで、残るのだろう。
 誰かに、何かに、問いかけてみる。
 こたえは ない
 何も、聞こえなかった。
 


いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。