ドライブ・マイ・カーは最高最高だと思うよ
#映画感想文
『ドライブ・マイ・カー』
※ネタバレ含みます
映画の世界観にどっぷりと浸かった後って余韻が抜けずに帰る時の足取りがどこか浮つきますよね
その世界観から抜けきれていなくて、いつもより深くタバコを吸っていつもより遠くに煙を吐いてしまいます
こんばんは
映画『ドライブ・マイ・カー』をミニシアターで観賞してきました
本当は去年の9月あたりから公開されていた作品ですが、引っ越しやら何やらでバタバタしていた時期で観に行けておらず
アカデミー賞候補になったということでアンコール上映されていたのでようやく観れました
原作が村上春樹著の短編集『女のいない男たち』に収録されている3つの短編が組み合わさったものとなっていて
村上春樹が大好きな僕はもちろん原作は既に読了済みで、大きな期待とわずかな不安(ノルウェイの森みたいな失敗)を胸に満を持して観たんですけど
結論から言うと、とっても良かったです
3時間かー長いなーなんて最初は思ってたんですけど、3時間の長さを感じさせないほど観入ってしまい、そりゃ3時間必要だよねっていう内容の充実度でした
期待以上というか、こんなにも原作を殺さず、かと言って生かし過ぎず織り込んで新たなひとつの素晴らしい作品を生み出せるものなのかと
ここからはネタバレを少々含みながら、感想と考察を綴ろうと思います
※注
僕は大学で映画評論を履修したこともなければ映画や舞台について専門的なことは何も知らないため、これから書く内容は偉そうですが個人的感想及び主観的考察に過ぎません
あらすじはこちら
コミュニケーションの本質と難しさを美しく文学的に映像化している
コミュニケーションの本質はやはり、お互いの意思疎通を図り良好な関係を築くことでしょう
ツールとして簡単なところでいうと対話、です
今ではラインやビデオ通話、自動翻訳など便利な機能が溢れまくっていてコミュニケーションを取るというそのもの自体はかなり容易ですが、その奥にある本音や心の中を覗く事はとても難しいことです
作中こんなセリフが出てきます
「相手のことを本当に知ることはできないから、自分と向き合わなければならない」
まあどこかしらで聞いたことのあるような言葉ですが
この作品はそんな言葉をシールにして僕たちの肌の表面に貼るだけでなく、深いところまで掘って掘って掘り続けて、心の底に深く言葉の種を植え付けてくれます
その言葉に対して「うん、そうだよね」という簡単な答えで済ますのではなく
「では相手のことを深く知る意味はあるのだろうか。果たしてそれは私にとって良いことなのか、また、知らなくてはならないことなのだろうか。自分と向き合うとはどういうことだ。自分に嘘をつく事はそんなにダメなことなのか」
というふうに『個人的解釈』をするためのヒント、先ほどの例でいうなら種を3時間かけてそっと与えてくれるんですよ
*あくまで個人的感想です
作中では異国の人との言語の違いや、障害がある人との手話でのある意味一種の対話、また、死んでしまった妻との録音されたカセットテープを経由した交流が出てきます
ツールとしては便利となったコミュニケーションですが少なからずそこには垣根、が存在するわけでその存在を明確にしつつコミュニケーションを経て得られるもの、そして決して得られないものを考えさせられます
また、主人公である家福は妻との「対話」を自ら放棄しますし、岡田将生が演じる高槻は言語の壁を越えれず(また越えようともせず?)セックスによって交流を深めようとします
円満だと思っていた夫婦間のコミュニケーションも、実はそうではなかった
そうであることに薄々勘付いてはいたが、深掘りをしなかったため、家福は大きな後悔と損失をしたわけです
「できない」ではなく「しない」という選択をしたが故にコミュニケーション不全のまま重要なことを損なってしまいます
そしてそのコミュニケーション不全であるのも結局は自分の弱さ、不完全さ、臆病さから出る
自分に対する都合の良い嘘、そしてそこから生まれた虚になった本来とは違う自分によって形成されます
家福は妻の浮気を知りながら、今の関係が崩れるのを恐れ目の前に起きた本当のことから目を背けたことによって本来の自分と妻を失うわけですが
たしかに自分も都合の悪い事実から目を背けて知らないふりして無理してしまうことあるな〜と思いました
「どちらも本当のことだと受け入れることはできないでしょうか?」
「僕は正しく傷付くべきだった」
他人とどれだけコミュニケーションを交わしてもその根底にあるものは分からない
だからこそ自分と向き合う
それがどれだけ苦しいことであっても本当のことと向き合うこと、過去を受け入れること、そして時には吐露すること
その難しさとそこから得られる未来の自分への救いを文学的なセリフと映像によって表現されています
家福とみさき(運転手の女の子)が距離を縮め合う過程や自分が目を伏せてきた過去を吐露し合うこと、同時に本来の自分と向き合う大切さに気付いたシーンなどは文学的なセリフと絶妙なカメラワークから見える仕草・行動によって、徐々に、しかし確実に心の変化が感じ取れます
あと振り返ってみると、この映画って回想シーンや時系列の巻き戻しがほっとんど無いんですよね
過去に何があったかとか、全てセリフによって語られるんですよ
なのでセリフの言葉選びとか言い方、間の取り方、表情の変化から推測するしかないんですよね
そこがまた作品の奥深さを助長しているんじゃないかなと素人ながら思いました
車の中で高槻(岡田将生)が長く喋るんですけど、とっても良いシーンです
以下、そのセリフです
『ワーニャ伯父さん』や『ヤツメウナギの物語』が示唆するもの
作中では主人公が舞台俳優・演出家ということで演劇のシーンがかなり出てきます
『ワーニャ伯父さん』と『ゴドーを待ちながら』という作品らしいです
というか『ワーニャ伯父さん』でほぼ半分埋まってるんじゃないかってぐらいです
僕はその作品はどちらも知らなかったので観終わってから調べたんですが、なるほどそういうことか!と理解が深まりました
『ゴドーを待ちながら』はコミュニケーション不全な人達が多く出てくる内容でした
高槻は自分で自分をコントロール出来ない(作中では社会人として失格と言われていてグサッときました)ため、暴力や良くない行動を起こします
それもコミュニケーション不全が産んだ結果に繋がります
『ワーニャ伯父さん』のあらすじについては端折りますが、その話に出てくるワーニャは今作での家福を、ソーニャはみさき(運転手)と重なります
どちらも「本当のこと」から目を背けてしまったばかりに、重要な何かを自ら殺して(損なって)しまいます
『ワーニャ伯父さん』の実際のセリフは随所に出てくるんですが、ラストシーンではそのセリフと映画の内容がぴったり重なるようになっているんですよ
作中ではソーニャのセリフは手話になっていますが、手話だからこその優しく語りかけるような長回しの演出はとっても素敵でした
辛いことや苦しいことがあるけど、それでも生きていこうよ
最後に手話を通してソーニャに投げかけられたこの言葉の重みが心の奥深くまで届いて沁みました
映画と舞台演劇、両方を同時に走らせてラストに複合するつくりは、たしかに3時間という長い時間をかけて生み出せるものだなと思います
『ヤツメウナギの物語』は妻である音がセックス中、セックス後に突然語る物語なのですがこれは原作の短編集の中にある『シェエラザード』から引用された要素です
これはこれで面白い話なのですが、女の子が空き巣の男の目をペンで刺した=家福が緑内障になった
「わたしが殺した」というセリフは家福、音、高槻、みさき全員に通ずるものがあります
村上春樹作品ではメタファー(暗喩)が数多く重要な要素として、もはやキーワードとして登場しますが、そういった原作の味を映画にもさまざまな形で散りばめられていました
ラストについて
ちなみに全体としては原作のドライブ・マイ・カーとは違うラストとなっています
結論から言うと、不自然で不完全なラストです
俗に言う「考えさせられる」ってやつですが、僕が他のそれとは少し違うなと思った点としては
登場人物自体が不完全で不自然であるため、ラストの不自然さにも納得がいく
っていうことです
ラストは個人の解釈にお任せします系の映画って、その後に誰かと話したい、あれはこういう意味だったんじゃないか?こういうことを伝えたいのではないか?あの後こうなるんじゃないか?っていう、『映画を通して表現することの放棄』の中にも含みがあるわけです
今作もそうっちゃそうなんですが
最初から最後までゆっくり物語が進み、ゆっくりとラストを迎えるためどこかスムーズというか
もちろん登場人物の心情の変化や環境の変化はありますが、その結果幸せになれたのか、どういう決断をしたのか、その先に何を見据えるのか、ということは正直さっぱりです
でもそれが良いというか
そして僕の場合ですが、もうそんなことを予想するのも野暮なんじゃないかと
そんなことする暇があったらまず『自分のこと』について僕も考えてみよう
という心理に至った訳です
それだけ映画の世界観に没入できた結果かもしれません
ストーリー展開が基本的に家福の視点で描かれているのも映画を長く感じさせない絶妙な演出のひとつです
映画で出てくる広島の風景はとても素敵で、大事な要素を占める『車の中』のシーンでも街灯が差す光がとってもイケてました
タバコを吸うシーンが特に
もちろんキャストも最高でした
あまり長くなっても読むのが面倒だと思いますのでこの辺にしておきますが
僕自身、正直いま環境的にも心理的にも不安定な状態ですので
というかまさに、自分にも周りにも嘘をついて虚偽の自分を演じてきた結果が回りにまわって今になっているんですが・・・
『ドライブ・マイ・カー』を観賞することで自分を見つめ直し、本当のことを受け入れること
それはとても辛いことでもあるのですが
その大切なことをするためにこれまで硬直させていた殻の膜を優しく剥がし、そっと背中押してくれた作品になりました
映画の力って凄いなというのはもちろん、この作品に今の状態で出会えて良かったと心の底から思う次第です
正直言うと、かなり好き嫌い・合う合わないが出る映画です
「え?何が言いたいの?無駄に長いしつまんねえよ!」と思う人がいるかもしれませんが、まあ映画ってそういうものですよね
万人ウケする映画ほど後味が無い映画は無い
これは誰かの言葉です
自分を見つめ直すなんて綺麗事のように聞こえますが、たまには綺麗事を真面目にしてみるのも悪くないのではないでしょうか
これからアンコール上映が各地で始まるみたいですので、よろしければ観賞してみてはいかがでしょうか
まだまだ語りたい部分はたっくさんあるので、観たよという人とはゆっくりジントニックでも飲みながら語り合えたらなと思います
おしまい
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