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バットマン初心者が「JOKER」を観た感想とアーサーに思うこと。

「JOKER」観てきました。
僕は表題の通り、バッドマンシリーズも幼少期にアニメを見た記憶がある程度の知識しかないバットマン初心者です。
ジョーカーについても、「バッドマンの敵で凄く人気がある。ハーレイ・クインが可愛い」程度の知識でした。

鑑賞のきっかけは、周りで観た人が多く「感想を聞きたいからぜひ観てきてほしい!」と知人に言われたことがきっかけでした。話題作だし、観てみようかなと。

結果から話すと、上記のようなバッドマン初心者でも、本作はとても楽しめました。
もちろんシリーズを観ていたり知っていた方が楽しめるポイントは多いと思います。
しかし、本作単体でも「ジョーカー」というキャラクターの成り立ちというか、バックグラウンド(考察によって考え方は異なりますが、この場ではこう書かせていただきます)という独立したストーリーとして読み取る事が出来るのでこれから観るにあたってそこを心配している方は是非気にせず鑑賞してほしいです。

このあとは感想と考察まではいきませんが、ジョーカーとアーサーに対して感じたことを書いていきます。ネタバレ(感想)に移行しますので、ネタバレが嫌な方はバックよろしくお願いします。
淡々と書いている節がありますが、批判ではなくそれ込みで僕にとっては「もう一度観たい」作品でした。

寧ろ「JOKER」の次に見るべき(アマプラで見れると尚いい/レンタル可)バットマンシリーズを教えていただきたい…!

 

 

 

 

 

 

 

◆「JOKER」は、アーサーの妄想(ジョーク)なのか、現実なのか。

鑑賞後、考察をいくつか読んでみました。
最後のカウンセリングシーン以前の“本編”は全てカウンセリングを受けている彼の妄想だという解釈が多いようですね。
なるほどと思いました。ジョーカーをよく知る人が見るとそういう解釈なんだなぁと。しかしジョーカー初体験の純粋に観た感想を言うと、僕は違う解釈をしたいなと思いました。

彼は最後のカウンセリングの間、それまでの記憶を反復と一部都合の良いように改ざんしていたんだと思います。

それは彼の自己愛からくるもので。(母親の過去のカルテに妄想性の他自己愛性人格障害)があるのは、彼もまたそうであるということなんじゃないかと。
妄想性があるのは、本編でも同じアパートメントに棲む母子家庭の母親の存在を通して描かれていますよね。

「自分は悪くない」と自己肯定とより自分の凄さを吊り上げる為に、装填よりも撃った弾数が多かったりしたんじゃないかなと。

「自分は悪くない」の肯定の為に、事務所を辞める際に銃を渡してきた同僚の所為にした。同僚は彼なりにアーサーを本当に心配していたんだと思う。
アパートメントで同僚を射殺した後、小人症の同僚には「君だけが優しかった」と言う割には、その前のまだ事務所に勤めて居る場面では、彼が揶揄われていてもアーサーは助けず、一緒になって笑っている。
アーサーは何時だって自分が一番可愛かった。もしかしたら母親のことも愛している一方で、自己を形成するための存在として必要だっただけなのかもしれない。

そこにどうしようもなく人間っぽさを感じて、そういう解釈をしたいなと思った。

最後のカウンセリングで「ジョークを思いついたんだ」と言ったことの対象は本編ではなく、過去に自分に起きた悲劇を喜劇とすること(これも悲劇によって自分の価値を下げたくなかったことに起因すると考えます)と、これから起こす事件(カウンセラー殺し含む)ことだと思います。
そして「理解できないと思うよ」と言ったのは、彼の考え方は凄惨な体験の数々と自己愛に満ちた自己肯定を多大に孕むような精神環境からかけ離れているであろう、健やかな人々には理解できない。という、「自分とお前たちは違う」という意味でのセリフなんではないかと。

記憶の改ざん、と考えると上記の装填の弾数以外でも不自然な時計の時刻についても彼の理想が反映されていると言えるのではないかと思います。

 

 

◆アーサーは努力をしなかった

アーサーは一見とても可哀想な境遇に描かれていた。
たしかに一つ一つを見て取れば凄く可哀想だし、鑑賞しながら「もう止めてあげて…!」と言いたくなるような展開が彼を襲いまくった。

一方で感じたのは、彼は何か努力をしていただろうか、ということ。

道化の仕事をこなしつつ、母親の介護をする優しい息子。
その行為自体はとても素晴らしいと思う。

仕事に関してはどうか。
彼は事務所をクビになる際ボスに辞めたくないとは言うものの、壊された看板を自ら弁償しようとも、破片をかき集めて楽器屋に頭を下げることもしていない。なんなら自分で代わりの看板を持って行ってもよかったはずだ。
しかし彼はそれをしなかった。そしてそれに上記の「自分は悪くない」が加わって、拳銃を差し出した同僚のせいかのように振舞って事務所を後にする。小児病棟での仕事に拳銃なんて持ち込めないことは簡単に考えられたはずで、それを怠った結果だというのに。

夢に対してもそう。
作中に彼が延々ネタを考えているような描写はない。日記のように書き溜められたネタはあまり多くはないように感じる。それでコメディアンになれるとは思えない。

悪いのは大抵「誰かのせい」で、漠然と成功することを確信しているようだった。失敗すること、挫折することから目を背けているとも言える。

彼の境遇はとても可哀想だけれど、努力をしない点に関しては自業自得だと感じた。

 

 

◆なぜアーサーはコメディアンになりたかったのか

これに関しては正直僕の理想と希望に満ちた解釈です。

アーサーは自分を肯定するのに必要な、母親という存在に認められたい気持ちがコメディアンになる根底にあるんじゃないかと。
コメディアンは自己肯定と周囲からの賞賛、自分を特別なものにする為のもので、心の底からなりたいものではなかった。
もしくは笑われる側から笑わせる側への羨望や、「笑われているのではない。笑わせているんだ」と思い込みたかった。

そこにマレーが加わる。
マレーに何故憧れたのかは謎だけれど、単純に母親がマレーを好きだったからかもしれない。

寧ろマレーのショーに出ることではなく、その先にある賞賛に憧れて居るようにも見えた。

後に彼を呪う母親からのあだ名「ハッピー」にもコメディアンを志す由来を感じずにはいられない。

彼にとってのコメディアンは賞賛の象徴で、それを手に出来る特別な自分に憧れていたんだと思う。
それもある意味とても純粋な気持ちで。
そう考えると、アーサーはピュアな男だ。

 

 

◆泣いていたジョーカー

逮捕直後のパトカーで事故に合い、彼は一時的に解き放たれる。賞賛を浴びせる群衆の真ん中で、周囲に促されてパトカーのボンネットに立ち上がりゆっくりと踊って見せる。その時の彼のメイクは溶けて、まるで泣いているように見えた。

群衆による富裕層への報復のシンボルになり、不満が募る群衆を沸き立たせゴッサムシティを混乱に陥れてもアーサーの心は満たされなかったのかもしれない。
もしくはその群衆ですら、「自分はお前とは違う」と思う対象だったのかもしれない。混乱に陥る街の様子は彼の目に美しく映るけれど、彼の理想にはまだ足りないのだろうか。

善意で読み取れば「アーサーに残っていた良心が」とか「これでもう後戻りは出来ないから」とか考えはつくけれど、あのメイクの崩れを“涙”とするならばその解釈ではないなと思う。もっと自尊心と孤独を募らせた先の涙というか…

なんだろう…喝采を浴びながらそれでも尚、絶望していて欲しいなぁなんて。
群衆の喝采は必ずしもアーサーへの理解、ではないし。
群衆の上げる賞賛の声は、本当のところで彼を理解している人がいないことを表していると思う。アーサーは群衆の為に殺戮を行ったわけではないから。
あくまでアーサーは世間が自分に「気付きはじめた」と言っているから、アーサーという個や意図は同じように貧しく生きる群衆の為のそれとは全く別の存在だと、アーサー自身は主張しているんだよね。

個人的にはこの泣いているように見える演出は色々考える事が出来てとても好きでした。

 

 

■この話を「心に闇を抱えている人は見ない方がいい」と言える人は健やかな人生を送ってきた人だと思う。

他の方の感想を読んでいると、

「もっと若い頃に観ていたら影響されて引っ張られてたかもしれない」

「心に闇を抱えてる人は観ないほうが良い」

「普通の人がアーサーの立場になったら死を選ぶ」

「つまらない。アーサーが理解できない。」

このような、もしくはこれに近い感想を散見した。

そういう風に感想を述べられる人は、今まで健やかな人生を送れたということだろうなぁ。それを誇っていてほしい。

 

僕はそうは思えなかった。
勿論殺戮のシーンにスカッとしたり「ざまあみろ!」なんて思ってはないけれど、悲しいかな、アーサーが歩む道のりはとても自然に感じた。

病んでいる(作中では落ち込んでいる)表現は時折とてもリアルで。
特にボスに怒られている場面では、次第に不穏な音が大きくなり、それに遮られるようにボスの声が遠くになって耳に入らなくなる。
脳がネガティブな状況を遮断しようとする様子がよくわかった。ストレスからの回避機能が働いている。
アーサーの薬に頼りがちなところ、カウンセリングに通うところは少なからず心の状態を改善したいと思っている。しかしカウンセリングサービスが終了してしまったり、思う様な効果が出ていないことで彼は医師を信頼していない。そういう社会含めて、前向きに治療したいと考える自分を阻害していると感じさせる。
だから自分で薬を買い求める。医師が必ずしも正しいとは思わないけれど、自己判断を過信しては病状は良くならないと個人的に思う。

銃を誤発射してしまった時の彼はとても慌てていて、まだ良心というか「良くあろう」という感覚は残っていたように感じる。
これは母親の面倒をみる=良いことをするの感覚と近いかもしれない。

その点で言えばアーサーも健やかだった。

銃という物理的な力を得て、健やかさは狂気に変わった。アーサーにとっての銃は、群衆にとっては「証券マンを殺害したピエロの仮面」なんだけどね。

仮面で暴れる群衆は今の世の中もよく表していると思う。

ピエロの仮面という人の褌で相撲を取るというか。
顔を見せずに正義という暴力を振りかざすだけ。

顔を見せずに犯行を行うことを馬鹿にされてアーサーが怒ったのは、自分もそういうやつを馬鹿にしている節があったからではないか。そう考えると群衆に対しても同様に馬鹿にしていそうだ。

 

冒頭で書いた、「彼は最後のカウンセリングの間、それまでの記憶を反復と一部都合の良いように改ざんしていたんだと思います。」の改ざんがどこを指すのか。
僕は証券マン殺害の弾数の多さ(より相手を痛めつけたい)、時間(理想)。もしかしたら殺害後の公衆トイレのシーンも本当は身を隠してうずくまっていたかもしれない。
彼の思う自己像として「肯定できる」部分には、多くの嘘を孕んでいるんじゃないかなと。

彼の嘘や自己肯定の為の虚栄心、感じていた焦燥感、不満感、は、どれが一つは感化されて引っ張られる人はとても素直な人だ。
そんなに素直ならきっと他の道を歩むことが出来ると思う。
健やかな人は健やかにいればいい。何歳で観てもきっと引っ張られることはない。衝撃を受けることと影響を受けることは必ずしもセットではないから。

 

 

影響を受けることより、衝撃を受けることより、妙に納得して腹落ちしたように感じてしまった自分に静かなショックを受けた作品でした。
ファンからすると、僕のような凡人が腹落ちするほど簡単なキャラクターではないのだろうけれど。

僕の人生もまた、喜劇でありますように。

 

 

乱文失礼いたしました。

 

 

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