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私と姉の特殊な関係

自分の過ちを素直に認め「ごめんなさい」と言えるということが、
どんなに大切なことであるかは、すでに多くの人がよく知っています。
しかし私はそれ以上に、相手を許すことも、儚く大切な感情であると思います。


突然ではありますが、タイトルの通り、今から私と姉の
特殊な関係について、話してみようと思います。

私は、重度の先天性の心疾患者です。
とはいえ、様々な方のご尽力により、幼稚園から大学卒業まで
健常者とともに普通科に通い、現在は一般企業で毎日元気に働いています。

私は母の故郷の、大学病院で生まれました。
その後は、都内の病院で、幼稚園に入園するまでの間
数えきれないほどの、入退院を繰り返す日々を過ごしました。
前もってお伝えしておきたいのですが、私は不幸自慢をするつもりは一切ございません。
そもそも私は幸せ者であり、全く不幸ではありませんから、
不幸自慢をしようにも、できないのです。

産後、母は休職し、私に付ききりになり、
父は家族を養うため、そして入院費と治療費のために働き、
その間、2歳差の姉は両祖父母の家を行き来していました。

姉は文句をほとんど漏らさなかったといいます。
たったの2〜3歳ですから、甘えたい盛りの子供だったろうと思いますが、
母に会いたいと泣いたことは、数える程度だったと聞かされています。
偶の面会でも、病棟内で子供が入れるスペースは限られ、
母との対面も、ガラス越しで行われ、直接触れ合うことが
許されなかったこともあったそうです。
それでも姉は、泣いて母を困らせることは、ありませんでした。
母は、その健気な姿に、何度も涙したと今でも度々語っています。

ある程度元気になり、家に戻った私を、姉は喜んで歓迎しました。
姉らしく、私に世話を焼き、大変に可愛がりました。
私にその頃の記憶はありませんが、多くのビデオや写真が、
姉のそんな姿を映しています。
小学校に入り、私が持病のことで悪ガキにいじめられたとき、
ヒーローのように現れて救ってくれたのも、姉でした。
2学年上の教室に私を招き入れ、居場所を作ってくれました。
私は、そんな姉が大好きでたまりませんでした。


それから時を経て、中学時代に差し掛かった頃、
姉は、家に寄り付かなくなりました。
所謂反抗期でした。
それも、想像よりもずっと長い長い反抗期でした。

両親は、反抗期と徹底的に向き合うというスタンスをとり、
それを崩さないということを教育方針の一つとしていました。
例えば、映画やドラマでは、子供が親に反抗的な態度をとり、
親が悲しみつつ、反抗期だからと怒ることなく諦める…
という描写がよく描かれます。
実際の家庭がどのような向き合い方をしているのかは存じませんが、
私の両親は、反抗期を言い訳にすることを許さずに
どこまでも追いかけまわし、親として徹底的に向き合うことを続けました。

姉が偶に帰宅すると、長い長い説教の時間が始まります。
恥ずかしながら、掴み合いの喧嘩に発展することも、日常茶飯事でした。
私はそれを、別室からそっと見ていましたが、
どちらの味方をすることもありませんでした。
ただ、怖かったのです。
優しかった両親が泣きながら怒鳴り、
ヒーローだった姉も、泣きながら愛する親に向かって怒鳴り散らしている。
そんな様が、私には地獄の光景として映りました。

喧嘩別れをするように、再び姉は家を空け、
その間両親は、不安と苛立ちを私にぶつけ始め、
門限などの行動制限が、私に対して特に強くかかるようになりました。
そのことから私は、姉を心から嫌いましたし、
外出先から帰って来なければいいと考えるようにもなりました。
このまま両親が姉の存在を忘れ、3人家族になれたなら、
どんなに楽かと想像しては、それを願ってしまったのです。

つづく







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