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自分の愛し方を教えてよ、フロムさん。【PhilosophiArt】

「愛について語る」というものは胡散臭い、と少し思う自分がいた。
愛、というのは誰もが他者と関わる上で考えることだろうと思っている。
人間関係を築いていく上で得た学びや反省はいくらでもあるし、ちゃんと人との付き合いに活かされている。

身近な人が、「いやぁ、愛ってさぁ…」と語り始めたらどう思うだろう。
あんた、急にどしたん。シラフならなおさら、である。

自分の身の回りは大学生が多いし、彼氏彼女がどうだの、出会いがどうとかといった“恋バナ”で盛り上がるだろう世代だ。
仲のいい友人の恋愛観なんて、面白い話のネタに決まっている。

でも私にとって、この話題には問題が潜んでいる。
「自分にも質問が跳ね返ってくる」のである。
人の話が聞きたいだけなのに、自分まで“恋バナ”ぜざるをえない状況になってしまうのだ。
はぁ、こりゃ困った。

そりゃ、恋愛をしたことはあるし、話すネタがないわけじゃないのだけれど、なぜか言葉に詰まってしまう。
恋愛での楽しい思い出は、いつも自分の最後の力を振り絞った瞬間ばかりなのだ。
その瞬間が過ぎれば、燃え尽き苦しむ時間が訪れる。恋愛ってなんだよ、何を浮かれているんだ。幸せの後にはいつもこの地獄が待ってると分かってるじゃないか…
私の恋愛は楽しい時間よりも、そういった悶々とした時間のほうが長かったかもしれない。

苦しむくらいなら、辞めてしまいなさいな。
心の中のもう一人の自分に説得されて、私は恋愛を遠ざけた。

誰かを好きになって自分を犠牲にする経験を幾度となく繰り返した。
その結果くずれていく自分をいつも恨んだ。
だから、恋愛を遠ざける代わりに「自分を大切に、愛そう」と決めた。

本来の性格なのか、大学で哲学を学んでいるからなのか分からないけれど、
「愛するって、何なんだ?」という問いがふっと現れた。
そんなこと考えずに、自分を大切にすればいいのに。あたしゃ面倒な人間だ。

書店の中をあてもなく彷徨っていると(書店は出かけるたびに立ち寄ってしまう)、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を見つけた。

エーリッヒ・フロム(1900-1980)は、ドイツで精神分析学を学び、それらの知識を社会情勢と結びつけたことで知られる。
『愛するということ』は、哲学的、というよりも心理学的要素の方が多い書籍かもしれないが、それを哲学的視点を持って読みたいと思った。

主観的な感想はあまり書きたくはないし、それを書くことはとても哲学的とは言えない。
ヴィトゲンシュタインが「“私の言語の限界”が私の世界の限界を意味する」(『論理哲学論考』5.6)と言ったように、フロムによって導かれた場所によっては、自分の経験でしか表現できないことがあるかもしれない。

『愛するということ』は私の世界を広げてくれるのだろうか。
ささやかな希望を託して、表紙をめくった。

“愛される”ではなく、「愛する」を考える。

フロムは「愛は技術である」という前提で論を進めていく。
そして、この本は「愛すること Loving」について語っている。
「愛されること Loved」ではないのだ。

いわゆる“恋バナ”では「愛されているか、否か」について語られることがあっても、「愛しているか、否か」については語らない。
愛していることが前提になっているから、なのだろうけれど。

愛することは簡単で、誰を愛するか、誰に愛されたいかを重要視する風潮は、自由恋愛が世間に浸透したことによるものだとフロムは考える。

現代社会に存在する購買欲と、好都合な交換は、「愛されること」について人々が頭を悩ませるように、視線を誘導してきたのだ。

いずれにせよ、ふつう恋愛対象は、自分と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。だから私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点から見て魅力的でなければならないし、同時にその相手が、私の長所や可能性を、表にあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めたうえで、私を欲しがってくれなければならない。このようにふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶 訳、2020年、紀伊國屋書店)
第一章 愛は技術か p13-14 より

購買欲が満たされ、互いに夢中になってもそれは孤独を埋めているに過ぎないとフロムは指摘する。
いまの私は、過去の恋愛が創り出した孤独を、自分を愛することで埋めようとしている。
それは購買欲とは結びつかない、「新しい生き方」の選択肢にすぎない。

自分を愛することに、運命とか興奮があるわけではない。
自分を愛する最適解を見つけることは、生きる術をひとつ手に入れたようなものだと思う。
だから、「愛は技術である」と考えるのはしっくりくる。

フロムは技術の習得に必要な段階として「理論に精通する」「習練に励む」そして、「技術を習得することに関心を持つ」3つの段階があると主張する。
きっと、運命や興奮に惑わされず、淡々と段階を踏んでいく姿勢が大切なのだろう。

現代人は心の奥底から愛を求めているくせに、愛よりも重要なことは他にたくさんあると考えているのだ。成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされてしまうために、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのだ。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶 訳、2020年、紀伊國屋書店)
第一章 愛は技術か p17 より

生活の中で優先順位を変えてみると、生き方は急激に変わることがある。エネルギーの配分を考え直し、調整してみるのだ。
愛するということを学ぶと、人生は思いもしない方向へ向かっていくのかもしれない。

人生のハイライトは、いくつもの想定外でできていると思う。
恋愛という想定外の出会いが、人生の舵取りを担う時間があったように。

よし、愛することを学んでみよう。
この本を読み進めることを決めた。

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