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自然は芸術よりも美しい。【PhilosophiArt】

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回は、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが書いた『判断力批判』を読みながら、哲学とアートのつながりを探していきます。
この本を深く理解するために、全12回に分けて読んでいきます。
1冊を12本の記事に分けて読むため、読み終わるまでが長いですが、みなさんと学びを共有できればいいなと思います。

第8回の今回は「美しいものへの関心」について考えていきます。

これまでの記事は下のマガジンからお読みいただけます。


これまで『判断力批判』の中には、美的判断の一つとして「趣味判断」という言葉が何度か出てきました。
この言葉については、第5回の最後や第7回で詳しく説明しています。
そちらも読んでみてください。

その中で、第2回では「美は無関心的である」というカントの主張がありました。
美的判断は主観的だから、客観的なものと結びついている「関心」は切り離されると考えたのです。

ですが、今回見ていくのは「美しいものへの関心」です。
美的判断と関心がどのように関連するのか、見ていきたいと思います。

関心は事後的に結びつくことがある

カントは趣味判断と関心の関係性についてこのように言っています。

これまでの説明によって、あるものを美しいと言明する趣味判断は、いかなる関心もその規定根拠としてもっていてはならないことが、十分に明らかにされた。ただしそれによって、趣味判断が純粋な美的判断として与えられた後で、それがいかなる関心と結びつくこともできないとは言えないのである。

カント『判断力批判』(上)(中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2023年)
268 趣味判断と、その対象の現実存在 より

趣味判断を下すまでは、関心と結びつく(関心が、判断を規定する根拠になる)ことは決してありません。
ただ、判断を下してから関心と結びつくことはありうるとカントは考えたのです。

そして、趣味判断は他人と共有できることが第3回でわかりました。
主観的な判断を他人と共有できるのは、趣味判断には「主観的な普遍性」があることが理由にあります。

主観的な普遍性を持つことができるのは、社会の中にいる人間だけだとカントは考えました。
カントは、社会にいる人間が持っている「社交性」について次のように言っています。

荒れ果てた無人島に置き去りにされた人間は、自分だけのために自分の小屋や自分を飾ったりすることはないだろうし、自分を飾り立てるために花を探したり、花を育てたりすることはしないだろう。ただたんに人間であるだけでなく、その人のやり方にしたがって洗練された人間でありたいと願うことは(これが文明の始まりである)、社会のうちにある人間だけが思いつくことである。

カント『判断力批判』(上)(中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2023年)
270 趣味の伝達と文明の発達 より

社会のうちにある人間は無人島にいる人と違って、「洗練された人間」でありたいと願い、「洗練された人間」は、お互いに快の感情を共有することを望んでいます。
社交性は、文明の中で他者と交わることによって発達していくと、カントは考えました。

“自然美”と“芸術美”の違いとは

カントは、人間が好む美しいものには「自然美」と「芸術美」の2種類があると考えました。

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