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饒舌な廃墟はありえない

思いのほか台風が逸れてくれなくて、しかしながら、そんな風雨でもないと思い、クルマから降りて、戦前から残っている軍需施設の廃墟を遠目から見学していた。

と油断をしていたら、傘の骨が二つ取れてしまった。余談だけれども、傘は割合と高額なものを買うようにしている。なぜなら、傘を大事に扱うようになるだろうから。そして、絵柄等に個性があるから、自分のものだということがよくわかるだろうと思うから。そのわりには傘の柄の部分はすり減っていたりしたので、私は基本的にはモノを道具として使い倒すことしかできないのだなと思う。

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大した風雨でも無いのに、降りてみたら、骨が二つ取れてしまうこと。なんとも諦めの付かないことではあるし、その後、コンビニに入ったら、なんでこの人の髪や服はこんなに濡れているんだろうという疑問が顔に出ているような表情で、店員さんに見られてしまった。Mっ気はないので、嬉しくはなかった。

余談が過ぎた。

廃墟はいわば軍事施設であった。パイロット養成所や軍の病院の跡などがそうで、茨城県の霞ヶ浦湖畔にある。同期の桜として散りゆくもののかなりの数が当地と何らかの縁が残っていたと思われる。台風がまだ完全に逸れていない日に行くなとも思うが、天気予報が外れたのだ。そうだ。予報のせい!

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しかしである。厚い雲に囲まれた中、幻想的に浮かび上がるように屹立する建物群を見ていたほうが、歴史を感じる。思えば、これらの建物は戦後社会をずっと見ていたのだ。歴史を内蔵しながら、令和になった今でも、黙してその存在だけで、なにほどかを感じさせてくれる強度が強くなっている気がして、結果としてはよかったと思う。傘の骨二本など、いわば、牛丼の特盛を注文したけれど、間違えて並盛が来てしまい、これまた気付かずに、食べてしまったような、些細なものに相違ない。

ところで、私はむろん、アメリカの傘のもとで平和を享受してきた日本社会しかしらない(私は左でも右でも中道でもありません)。高度経済成長期こそしらないけれど、一億総中流時代の雰囲気は知っているし、バブル経済も幼いながらひしひしと感じた。東京に住んでいたし、親のはぶりの良さでみせかけの景気の良さがわかった。そして、その後の失われた30年のことも。

この間、私の歴史は転変とする。思えば、長い長い〇〇年だった気もする。

しかしながら、廃墟と呼ばれる群はそうした転変とは関係なしに、ただひたすら戦前という時代の雰囲気を照射し続け、ただそれを饒舌さもなしに、表現しているだけなのだ。廃れたものに対する美というのはあるかもしれないし、私も廃れたものまではいかなくとも、古いものを愛好する資質がある。

ただ、美学を超越したなにほどかが、廃墟という存在にはある気がして、そういう意味では廃墟という呼称は適切ではないのかもしれない。たしかに、人間は住していないが、過去の人間の気配は濃密に残っている。これは廃墟ではなく、いきいきとした空間ではないか。血の通っている空間ではない。

廃墟贔屓になりすぎるのもなんなので、やめておこう。

今現在、私たちは社会に生きているわけだけれど、いきいきとした血の通ったものと認識して、そこに生きているのだろうか。いや、そういう具合に思っていらっしゃる人たちが多数なのだろうし、健全なことだとは思うのだけれど、たぶん、安住してしまうと馴致してしまい、いざ、社会が大きく変わるという段になると、戸惑いを大きくしてしまうのではないか、とも思う。

むろん、考えすぎかもしれないけれど。たとえば、今の感染症の騒ぎを見ていても、その混乱ぶりは久しく、少なくとも応仁の乱の最中の京都市街の100分の1くらいの程度には混乱しているような気がする。

とはいえ、人間は忘れやすい生き物(特に日本人はそれが顕著だと思う)。

廃墟を見て、時折、上に述べたような情にかられながらも、結局は日常に戻る。日常とは先人の気配を感じることなく、今の社会のことも考えることもせずに、淡々として生きる生き方である。私はそれでいいと思う。

社会とはなんちゃら、とか、存在とはなんぞや、といった哲学的思索はそう考えざるを得ない人たちがやればいい。なんちゃらやなんぞやばかりしているような人が集まった社会はそれこそ様々な見解が交叉して、混乱度合いも応仁の乱の最中の京都市街の10分の1くらいには高まると思っている。

しかし、一方で、たまには、なんぞやとかなんちゃらというものも考えると、沈黙して語らない廃墟へのリスペクトになるだろうし、そうしたちょっとした思索が日常を豊かにすると思う。現に港沿いの寿司はうまかったし。

加えてまた、傘の骨二本も浮かばれるというもの(まだ言ってる)。

ところで、日常というのは常なる社会ゆえに、基本的な安全欲求を満たした社会では退屈さが問題となることがある。「今日はせっかくの休みなのに、台風でどこにも行けないし、退屈だなあ」なんて思ったことありません?

退屈についても先人はきちんと書き残してくれているけれども、ひとまず、とても読みやすくとっとと読み終えてしまう小谷野敦の「退屈論」という本をご紹介しよう。諸例を交えた退屈の事例と構造の分析は見事であるが、それを平易な文章に書くことができることが、彼のすごさだと思う。

はまれば、退屈しのぎにはなるだろう。

うっかり、表紙カバーを破いてしまったけれど、こちらも退屈論の名作でもある。結論部に関してはどうかなと思う箇所もあるけれど、それは諸氏のご判断にゆだねることとしよう。


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