矢吹真菜

臨床工学技士と保育士のダブルライセンス院生の裏話。 フリーライター、講演家etc.やっ…

矢吹真菜

臨床工学技士と保育士のダブルライセンス院生の裏話。 フリーライター、講演家etc.やってます。 講演依頼はTwitterDM、messengerから。 キャリアのこと、進学のこと、病気のこと……。色々発信します。

最近の記事

船に乗ったら世界が変わった話【5】

小笠原の感動的な登舷礼を終えて、私たちは正真正銘の8日間の幽閉生活に入った。この間、電波も通じぬ、太平洋のど真ん中でただ日々を過ごした。だが、退屈した記憶はないのである。ほんのり大変なことがいくらかは起こったのだが。 まず、ウチの班でもきっての船酔いっ子の腎臓がとうとうぴくりとも言わなくなってしまった。高度な脱水でおしっこが出なくなってしまったのである。2回船内で点滴をし、なんとか食い繋いでいたが、「これホンマに次の寄港地まで辿り着けるんだろうか……。病院から透析ようのダイ

    • マイアウトリガーが欲しい【2】

      シーズン空いて、猛暑がおさまった頃、「そうだ、奴を買わねば」と思い出した。 数歩歩けば次にすることを忘れ、トイレ掃除が入っているからと別の階のトイレに入れば入った階を忘れ「はて降りるんだっけ登るんだっけ」と右往左往し、正直鳥類史上最も頭が悪いらしいダチョウ以下と言った記憶力であるが、しっかり思い出すことができたようである。 さて。アウトリガーの購入にあたって自らまた探し出した企業に問い合わせを行ったところ、一社が応じてくれた。 まぁここでパラスキー連盟の知り合いの力を借りれ

      • 船に乗ったら世界が変わった話【4】

        さて、非常に強い揺れから生還し、小笠原に着いた。 ところで、出港や入港時には「登舷礼」というものをするのだけれど、まだ最初の出港式で登舷礼をしたばかりの私たちの顔は少し緊張していて、立ち姿も初々しかった。後、航海が進んで終盤になったころにその写真を見た時は、「こんな時代もあったねと〜」と往年のヒットソングが頭をよぎった。 昔、海賊船などが横行していて、航海が今よりも危険だった頃、敵でないことを示しながら寄港地に入っていた時からの儀式である。そう思うと、自然と背筋が伸びる。

        • 船に乗ったら世界が変わった話【3】

          待ちに待った出港の日である。天気は曇天もいいところ、正直な話、海はすでに結構荒れてそうだった。 そんな中、我々は乗船以来3日振りに陸に足をつけた。どこまでも続く広大な陸地はなんだか変な感じだった。木の甲板やリノリウムに慣れすぎたせいかもしれない。朝から飲んだアネロン(酔い止め)のせいかもしれない。 そして、いよいよ船の上に幽閉されるのだと、みんなこの一時的な下船のことを「仮釈放」と呼んでいた。実際その通りだった。船では規律正しい生活をしなければならないので、あながちこれは

        船に乗ったら世界が変わった話【5】

          船に乗ったら世界が変わった話【2】

          いよいよ事前研修編である。 事前研修の日はオンライン研修で知り合った班のメンバーを召集し、最後の陸でのメシと言ってサイゼリヤを食べた。ちなみにその後帰宅するまでサイゼリヤなるものは食べられていないので、実際問題これが航海前の最後のサイゼリヤであった。 そしていよいよ皆で船の待つ港へ向かった。船は思ったよりも大きく、白い船体が青い海に映えてとても綺麗に思った。世はまさにコロナ禍だったこともあり、乗船は順番に抗原検査を済ませてからであったので思ったよりも時間を要した。 全ての

          船に乗ったら世界が変わった話【2】

          船に乗ったら世界が変わった話【1】

          「船に乗って、1ヶ月旅してきます」 膠原病外来で言った時の主治医の先生の顔はなかなか見物であった。 そりゃそうである。 特に大学入ってからは「何してるの君」という行動が絶えず、すっかりクレイジーという名前を欲しいままにしていた私だったが、そのクレイジー行動の集大成として、大学の船に乗ることにしたのである。 ちなみに、当たり前であるが膠原病患者が船に乗った事例はどこを探しても見当たらなかった。クルージングでさえも。やはり定期的な服薬を必要とする場合、誰もそんな海の上に行く気な

          船に乗ったら世界が変わった話【1】

          マイアウトリガーがほしい【1】

          さて、10年ぶりに雪上に帰ってきた。受傷してからというもの置き去りになっていた風を切る感覚を得て、「やっぱりもう一度滑りたいなぁ」と思うようになってきた。 その感覚は日増しに強くなってきて、そうなると「ギアを揃え直すか」という金銭的にシビアな問題が浮上することとなった。 そしてこっそり前に履いていた板を調べると、ビンディングがジュニア用。まぁでもバインの調整はできるはずで、ブーツさえ入れば問題ない。大人用が入らなければビンディングを交換すればいい。(ビンディング交換は、レ

          マイアウトリガーがほしい【1】

          あの素晴らしい雪をもう一度【2】

          さて、修論審査も大詰め、学部生の卒論を見てやるという仕事もあるが、その合間を縫って向かった苗場。 とうとう待ちに待った10年ぶりのゲレンデにご帰還である。 前日はティーチングアシスタントをした後、トンボ帰りで苗場へ向かった。そして翌日に今回のお供となる、上の写真のアウトリガーにご対面と相なった。 今回の最大の問題として挙げられたのが、滑れる滑れない以前に、ターンなどの細かい動作でバランスが取れるのか、膝にガクッと来ないのかという点であった。その問題を解決するにはやはりア

          あの素晴らしい雪をもう一度【2】

          【あの素晴らしい雪をもう一度】1

          膠原病患者も適度な運動が必要であることは意外と知られていない。 私もそろそろ四捨五入で患者歴10年、運動週間もすっかり無くなってしまったので、さすがに不味いか、ステロイドの副作用である骨粗鬆症もある時一気にガタッと来ても困るし、と言うことで、最近になって継続的にできるスポーツを探すようになった。 まぁこう見えても元々はまぁまぁスポーツをしていたのである。スキーと水泳はまぁまぁ得意だった。 今だって四泳法すべて100メートル泳ぎなさいよと言われたら泳ぐことはできる。 スキーだ

          【あの素晴らしい雪をもう一度】1

          発音を直す

          小学校に上がるタイミングを前に、といっても2年ほど先なのだが、「今です」ということになり、口唇口蓋裂人生の中でも大一番の、発音の訓練が始まった。 私自身、口唇口蓋裂児としての手術歴は同じ病気の人たちと比べると限りなく少ない。口唇口蓋裂児としてのゴールを切る間際には手術ができなくなっていたのもあるが、なによりも最初の手術から骨移植まで一貫した先生に手術をしてもらえ、その先生が上手かったことの方が大きいと思う。(大学病院にかかっていると主治医を選ぶのは難しいので運も大きかった)

          発音を直す

          難しい園児だった

          私が生まれたのは、1998年年末真っ只中という時期だった。ギリギリレコ大がやらない日、といえばみなさんご理解いただけると思う。 この世に生まれ出でた私は、ふんぎゃあ、という産声と共に、既にお腹の中で神様から授かった口唇口蓋裂が初めて発覚したところだった。 しかしながらうちの母親は「自分でなくて父親に似ている」ことの方がよほど衝撃だったというからこの世はわからないものである。 さらに言うならこの赤子時代、正月三が日に小児外科の先生を叩き起こして腸回転異常の手術、片目はみえず

          難しい園児だった

          epilogue

          みなさんはじめましてこんにちは。 ここはコロナ禍も長く、どことなく電車の人には疲労感も見え隠れする、シティー・トーキョー。 そして私は、2つの難病を併せもちながら絶賛大学院生をやりつつ、シティー・トーキョーの暮らしをしのいでいる、そしてなんなら今英文proceedingsを死ぬ気で書いてる、もー日本にこんな人いないんじゃないのという人です。 私が難病を得たのは中学三年生の時です。つまりもう、8年間以上を共に過ごしたことになりますか。長いものです。 その病名をフルであげますと