船に乗ったら世界が変わった話【5】

小笠原の感動的な登舷礼を終えて、私たちは正真正銘の8日間の幽閉生活に入った。この間、電波も通じぬ、太平洋のど真ん中でただ日々を過ごした。だが、退屈した記憶はないのである。ほんのり大変なことがいくらかは起こったのだが。

まず、ウチの班でもきっての船酔いっ子の腎臓がとうとうぴくりとも言わなくなってしまった。高度な脱水でおしっこが出なくなってしまったのである。2回船内で点滴をし、なんとか食い繋いでいたが、「これホンマに次の寄港地まで辿り着けるんだろうか……。病院から透析ようのダイアライザーの一つや二つ掻っ攫っておいたらよかっただろうか……」と臨床工学技士でもある私はいらぬ心配を2度3度した。

さらに同時並行で小笠原ですでにあんまり調子の良くなかった班員もすっかり元気をなくしてしまった。これも脱水なのは分かっていたが、経口で飲めるならそれがいちばんいいからと、OS-1やポカリを飲んでもらっていた。

こうなるとどうなるかと言うと、船内でことあるごとに行う点呼では欠員のほうが多くなりかける。酷い時には「総員6名、現在員2名、欠員4!」という日もあった。ちなみに掃除なども班ごとで割り当てになっているので、班長としては残りのメンバーの負荷も気になるところではあった。しかも、爆発したからとて船から降りるわけにはいかないのであるから。メンタルケアはこの8日間の幽閉生活を乗り越える上でキーとなることは間違いなかった。

そうしたささやかなかどうかはわからないがかすかな心配を抱えながらも船は進んだ。船から見る島のないどこまでも続く海は綺麗だったし、時々トリやイルカが顔を見せていた。
私の方はと言えば、すっかり朝晩のご飯の後にアネロンを飲めば胃袋は静まり返るというルーティンを得て、そのようにしていれば概ね問題はなかった。
揺れる船の上での船上レクリエーション行事を楽しみ、船内の人との交流も順調に深まっていた。

今も頻繁に船で知り合った人には会うのだけれど、いつからあの80人を超える人たちが私の中で「家族」になったのかはわからない。だが、唯一考えられる期間としてはこの8日間だ。同じ時間を共有して、私たちは少しずつ家族になっていった。

そして、次の寄港地が見えてきた時には「陸だ!陸だぁ!」と絶叫した。そして、微かに太鼓の音まで聞こえてくるではないか?

続く。

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