船に乗ったら世界が変わった話【1】

「船に乗って、1ヶ月旅してきます」
膠原病外来で言った時の主治医の先生の顔はなかなか見物であった。
そりゃそうである。
特に大学入ってからは「何してるの君」という行動が絶えず、すっかりクレイジーという名前を欲しいままにしていた私だったが、そのクレイジー行動の集大成として、大学の船に乗ることにしたのである。

ちなみに、当たり前であるが膠原病患者が船に乗った事例はどこを探しても見当たらなかった。クルージングでさえも。やはり定期的な服薬を必要とする場合、誰もそんな海の上に行く気なんかしないのであろう。
まぁ当たり前である。船の上では応急処置しかできない。あと我々は薬を飲まなければならないので、どんなに食欲がなくても薬のために食事をするのが常である。船酔いして食事が取れなくなったら普通に終わる。
うちも病気が安定していなかったころは普通の旅行すらしたいと思わなかったのである。
私の場合、この3年間は再燃のさの字もでないほど良好な体調を保っていた。それもあって、実に多くの研究業績を手にすることもできたのだった。この体調ならば……船にも乗れるのではないか?と思ったのである。
友達に「一緒に乗ろうぜ!」と誘われ、二つ返事で快諾した。

さて、まずはそうと決まれば応募する。乗る船は漁船に毛が生えたような、調査船というのだからあのタイタニックの最初の方に出てきた船と思ってくれれば良い。
なお一応選考に当たって「試験」がある。小論文と面接があり、一丁前に普通の「受験」っぽい感じである。ちなみに私はいつも面接試験が嫌である。それは高校、大学入試のいずれも盛んに持病による通院で重なった早退、遅刻、欠席を根掘り葉掘り聞かれることに起因している。
ところがこの回はそんなこともなく終わった。そして、拍子抜けするほどあっさりと、世にも稀なる難病患者の乗船が決まってしまったのである。なお、友達は落ちた。ちなみに彼女は小田急線の快速急行で酔うらしいので、船は確実にアウトであっただろうと推測する。

決まったのは12月。そこからは急ピッチで様々なことが進む。まずは「事前顔合わせ」的な全体会議への出席である。オンラインで修論間際の私にとっては大いに助かる。ここで後に生涯の友となる学生たち、大切な恩師となる(恩師というよりは父母の方が近いかもしれない)一緒に乗船してくれる先生方と出会った。
この事前顔合わせで特筆すべきことは起こらなかった。水が大事だということくらいである。

次はなんだというと各クラブごとに打ち合わせをする。船内にも部活があるのである。ちなみに私はダンス部と写真部と音楽部だった。

その後やんややんやと色々な手続きやら役割決めをし、なんだかいつのまにか難病のくせに班長なんか仰せつかってしまった。
班長であるからには、船についてよく知っておき、班から不満が出てもまとめられるだけの根拠を持っていなければならない。班長になると決まってからの一ヶ月は船のことについて死ぬ気で勉強した。修論があるが一応概ね書き上がっていたのでまあ良い。ちなみにこの時様々な資料や法令集などを漁ったが、最終的に一番役立ったのは漫画「海猿」及び「あおざくら」である。
乗船後この知識は大いに役立っただけでなく、航海士の資格を得るため一緒に乗船していた練習生からも驚かれ、震え声で漫画の題目を言わねばならず、軽く死んでしまった。

そしていよいよ清水港に停まっている、その「船」に乗る。次回、事前研修編である。

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