難しい園児だった

私が生まれたのは、1998年年末真っ只中という時期だった。ギリギリレコ大がやらない日、といえばみなさんご理解いただけると思う。

この世に生まれ出でた私は、ふんぎゃあ、という産声と共に、既にお腹の中で神様から授かった口唇口蓋裂が初めて発覚したところだった。
しかしながらうちの母親は「自分でなくて父親に似ている」ことの方がよほど衝撃だったというからこの世はわからないものである。

さらに言うならこの赤子時代、正月三が日に小児外科の先生を叩き起こして腸回転異常の手術、片目はみえずと、既に難のデパート、まぁそこらへんの駅ビルくらいにはなっていたわけだが、記憶がないのでいささかも知る由がなかった。ちなみに一歳くらいまで、腸回転異常の手術の癒着を防ぐために、常圧浣腸をする今でいう医療的ケア児であった。

しかし、あまりにもこの赤子おすわりをしない、立たぬ歩かぬというので、新生児科の先生が心配してリハビリ(今でいう療育)に通わせ始めたくらいから私の記憶はスタートする。この療育園はすこぶる楽しく、ボールプールがお気に入りであった。ちなみに歩くのは2歳半であったし、この頃は病院とこの園の往復であったはずである。

しかし2歳半になってよちよち、と言うかまぁかなりこけつまろびつってところだったとは思うが、歩き出して「さぁ普通の幼稚園か保育園に入れよう」となった。なお、当初はうちの母親が専業主婦だったので(当時は専業主婦で保育園に入れるのは至難の業だった。今は工夫すればいけることもあるようである)幼稚園が第一選択になった。

ところが、ないんである。
入る園が。

今でいうトイトレができてたのかどうか知らんが(保育園でおもらしとやらをした記憶は数えるほどしかないが)よちよち歩き、病院通いも多かったために社会性も今ひとつというこの子供を受け入れてくれる幼稚園、保育園はなかなかないのである。

そう、人生初っ端からつまずきモードである。まさか入園でこけるとは。なお、この女後述するが、小学校で華麗なる大逆転を遂げて公立中にそのまま進学後、高校大学大学院とついぞ進路にうかばれないことになる。まさに、人生の序盤でフラグが立っていたのである。
母親は探した。なにしろこの子はさもなければ、小学校に上がるまで同世代の子どもとろくろく遊べないということになる。丁度障害児保育の加配が始まったばかりのその年、今ほど障害児の保育環境が整っているとはお世辞にも言えない時期であったから、とにかく自転車に小さい私を乗せてそれこそ探し回ったと聞く。

その甲斐あって、かなり懐の広い保育園が見つかり、なんとか入園できることになる。
この保育園はかなり広い園庭を持っていて、遊具が沢山あり、当時にしてはかなり画期的な保育園だったと思う。そのために保育料は少し高かったと聞くが、障害児枠で入園し、普通級(今はこの呼び方はしない)への就学が危ぶまれたこの子を普通級どころか大学院に行かせた元祖の教育はここにあると言ってもいい。
最初は同世代の友達といっても、外来の待合にいる子供や、療育園にいる子どもしか知らず、全く健康でイキイキした同世代の友達に脅威を感じていた私も、次第に元気よく過ごせるようになった。
心配していたいじめなどもなく、結構楽しく毎日を暮らしていた。

しかしここで、集団生活が軌道に乗った頃、口唇口蓋裂のため悪かった発音をなんとか綺麗にしてもらおうということになったのである。

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