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先生だけど"勉強"嫌い!

 私は"勉強"が嫌い。英語の先生を20年していても、断言出来る。
「勉強キライ!」

 でもそれを言い続けてたら、考えることを忘れてた。
"勉強"ってなんやったっけ?

言葉って意外と大事

 20年の間にたくさんの子どもたちと出会って、観察して、我が子を育てて…その間に単純にみんなが唱える「勉強」って言葉ってなんやろ、って思い始めた。そういう言葉ってないですか。「思いやり」とか「仲間」とか「絆」とか、あちこちで聞きすぎて意味がわからなくなってないですか。そりゃ言葉の意味は説明出来るよ。(いやそれも自信ないかも)でも「勉強」も含めて、こういう言葉って実は思いっきりそれぞれの主観で意味が変わってくるんだと気付いた。

 英語の先生をしていると日本語から英語に直訳することの危うさを感じる。直訳しようとして辞書を開くと、そこにいた自分がどんどん薄まっていく。「あの人、変わってんな」ってそれを英語にしようとしたら、「変わってる」なんて辞書ではunusual, uncommon, weird, strange…ポイっとその中の言葉を雑にあてがってしまったら、自分の思いとは全く違う英語の出来上がり。言葉を雑に選んだら、「変わってるから"好き"」とか「変わってて"気味悪い"」とか本当は伝えたい感覚があるはずなのに、その人に対する話者の感覚も雑に伝わる。なんなら誤解を生む。和英辞書で調べてきた言葉を使う日本人学習者と話をしていると、しばしば聞き手である私自身が勘違いをしてしまうことがある。「この子、そんな風に思ってるんだ…」って全く違う印象を持ってしまったりする。よくよく話していたら内容違った、みたいな。これ、本当によくあること。直訳の怖さ。

 そんなこんなで日本で雑に扱われ続けている「勉強」って言葉も、実はその人それぞれの感じ方とか意味があるんだと思う。
 私や私が出会う"勉強嫌い"の子どもたちが使う「勉強」って言葉は、周りの人が満足する形でじっと姿勢良く座って同じ文字を何度も書いたり叱られない様に工夫して文章を書いたり、ワークを正しく解いたり。そういう意味だと思う。少なくとも私は。その中で体がムズムズしたら怒られて自己嫌悪。ワーク間違うと自己嫌悪。作文に思った通りに書いたら注意されて書き直させられて自己嫌悪…同じ文字を何度も書いてるとゲシュタルト崩壊。自己嫌悪って多分世の中の最悪の悪だと思うから、それを量産していくこの「勉強」なる「作業」がとことん辛い。それが私の見解。

勉強嫌いが先生になったわけ

 じゃ、なんで先生になったんですか。勉強嫌いなら勉強から遠ざかればいいのに... ですよね。私が先生になった理由は単純に子どもと話すのが好きだから。最初に先生になったのは18歳の時。子どもと大人の間で悶々と過ごしている私にとって、子どもたちはキラッキラ輝いていた。言いたいことを言い、したいことをする。あれから30年経ったけど、それでも言える。世の中に子どもたち程クリエイティブな人たちはいません。だから大人でも子どもの心を維持してる人が好き。どこかに自由な感覚を持った人。「人の喜ぶ表現を使う」とか「"思いやり"って言葉を意味そっちのけでやたら使う」とかは大人の所業。それを学ぶ前の子どもたちは、言葉をむしろ適切に使っている。誰に気を遣うわけでもなくそこにある道具で自分の思いを出来るだけ的確に伝えようとする。そんな「素の言葉」に触れているのが好きなのかも知れないな。

 もう一つはそれをずっと子どもたちに覚えていて欲しいから。忖度を覚える場所があるんなら、「子どもらしさ」を大切にしようって場所があってもいいよね、みたいな感じで。私は家でもなく学校でもない第三の場所でいようと決めた。完全に自分らしくなっちゃうと生きづらい世の中ではあるけど、完全に人や人間関係優先させたら自分が苦しむ。だから、どっちかに偏らせたいんじゃなくて、一つの価値観だけを見ないで自分で選ぶためのバランスを取る「もう片方の重り」みたいな意味合いでここにいる。だから私は「勉強を教える」先生ではなくて、一緒にお散歩する人。道草食いながら、子どもたちが自分の中や会話の中に新しい発見をするのを見守る人。それが今の私が考える「ネオ"勉強"」

「作業=勉強」「忖度=勉強」に慣れすぎた社会でひっそりとこの「道草=勉強」「発見=勉強」を提唱する先生に勝手になったんです。んで、「あ、この"勉強"なら好きだわ」と一番思ってるのは私自身なんです。

波に乗れ

 そんなことばかりしてちゃ、成果としての学びは生まれない、この子の未来真剣に考えるからこそ"勉強"なんだ、と言われてしまいそう。だって世の中には「成績が目に見えてこそ勉強」って思ってる人もたくさんいるから。

 こういうと誤解が生じるかも知れないし、あんまりこれを公言して「成果だけを狙いたい人」に教えたくないから小さな声で言うけれど。
道草食ってきた子、発見してきた子は、実際目に見えて伸びている例が多い。だって仕組みは簡単。「知るのって楽しい」って思ってるから。「もっと知りたい」って思うから。知るためにはどうしたらいいかな…って考えて行き着くのが、いわゆるその子に合った勉強だから。「知りたい」「詳しくなりたい」が理由だから、その子はちゃんと自分に合った方法を探す。見つける。もっと言葉を知りたい、って思うから単語を覚える。

 子どもに"勉強"が人気ないのは、目的と手段がひっくり返ってるからなんだ。「知りたい」が目的でその手段が「勉強」そしてその「勉強」の方法は人の数。
 いつの間にか「勉強してたら成果が出た人の例」を見過ぎた人たちが「勉強ってのは、こうしてこうして、この本を使ってこんな風に時間をかけて...」を提唱し出した。ある人は自分のビジネスに結びつけるため。ある人は自己顕示欲を満たすために。そしてそれに乗っちゃった大人たちが先回りして「手段」を「目的」にしてしまった。子どもたちは「知りたい」と思う前に「これさえしておけば」と方法を提示され、言う通りにしないと「落ちこぼれる」と脅される。学びの楽しさなんてあったもんじゃない。目的なんて見えてきやしない。

 「スイッチが入る」とか言うけど、私は「波に乗る」イメージがある。自分自身、昨日までは全く見向きもしなかった学習法を試してみようと思う瞬間がある。その時に「えいっ!」と乗る。それが自分にピッタリの方法だったりする。この「えいっ!」が、普段受け身で言われた通りにすることに慣れてしまっていたら、難しい。長縄跳びに入る時みたいに。受け身の学習で課題をこなすことで精一杯な毎日を過ごしていると、その波に飛び乗る勇気も気力も出てこない。勉強している様に見えて全く伸びない人は、その傾向にあるのかも知れない。一旦「しなきゃいけないこと」を半分置いて、自分なりの方法を探す必要がある気がする。でも多くの中高生は常に学校や塾の課題に追われていて、その時間や心の余裕がないもんなぁ。いつも私はそこでお手上げになる。子どもたちにとって目の前の社会は「学校」や「塾」。でもそこが合ってなかったら…自分の力で探すことは不可能だ。でも馴染まないとその場ではやっていけない。選択肢がない中で、やってもやっても上がらない自分への自己嫌悪と共に勉強嫌悪になってしまう。どんな場所も、その方法が合う子にとっては良いけれど、私たち大人は「その方法が合わない子もいる」ってことを知っておく必要はある。だったら一緒に考えてあげられるし、子どもがそれを探すのを見守ることだって出来るんだから。

 "勉強嫌い"だった私は、子どもの頃からそばにあった「英語」をもっと知りたいと思って、大人になってから自分なりの方法で英語を習得した。歯を食いしばって頑張ったけど、誰かに言われたからじゃなくて自分で選んだから、苦労も楽しかった。方法を探すのも楽しかった。幸い道草をいっぱい出来る環境があったから。私は今人生の半分を過ぎても尚、学びの楽しさを実感している。そして勉強嫌いの子どもたちのために、ここにいる。

 教室の小学生が「俺、勉強嫌い!」って言いながら、話し合いの時に歩きながら一生懸命考えて自分の言葉で話すのを見てニヤッとする。「全然嫌いじゃないじゃん」。それぞれの学びを大切に大切に愛でていたい。

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