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「待つ」ことは嫌だけど「待ってほしい」

 この年になったからか、もう子どもの頃から慣れっこだからか、私はせっかちな割に今の時代では「待つ」ことができる方だと思う。というよりもむしろ、その間が好きだったりする。人と会話していて「えっとね...」と相手が思いを巡らせる時間も味わい深いし、先生が黒板にカタカタと文字を書く時間もボーッと出来て良い。

電子黒板か殴り書きか

 数年前、高校生の我が子の参観に行って驚いた。電子黒板にはあらかじめ文字が映し出されていて、子どもたちのプリントにも同じ様に印刷されている。先生がボタン一つ押せばさらに黒板には文字が増えていき、それを子どもたちがプリントに写す。感激した。これは便利だ。先生がどのクラスでも同じ黒板を使って同じ授業が出来る。私も黒板を使って授業をする身なので、こんなことが出来たら素敵だな...なんて考えながら見ていた。

 でもそれから何年経っても私のスタイルは変わらず、ホワイトボードに殴り書き。クラス毎に私の字やイラストに対する反応は違って「先生、その『し』が " U "みたいです」とか「先生、その顔あり得ません」とか。私の足りない部分をいろいろ突っ込んでくれる。魚を描いていたら「ちょっとそれは酷すぎますよ〜」と、魚好きの子が前に出てきて訂正してくれたりする。そして私はそれを心底楽しんでいる。

 同じ単元を進むクラスがいくつかあってレッスンプランを毎回考えているにもかかわらず、見事に各クラスの切り込み方が違う。それは私が「体感」を大事にしているから。前のクラスでみんながググッときた内容が次のクラスで全く効力を持たない、そんな経験を山程してみて、今はフリースタイルを楽しむことにしたのだ。たった今のこの時間を共にしているこのメンバーの中で、今日一緒に学びたいことをどういう切り口で学んだら楽しめるか。
そんなことを考えていたら、準備してきたものも意味をなさないことがある。
 私の目的はこの単元を終わらせることではなく、今日も子どもたちが前のめりになったか。どのくらい笑ったか、ということなのでそもそもの目的が違うのかも知れないけれど。

「待てない」のか「待たせない」のか

 レッスン動画を作って無料配信している。学校に行かない選択をしたけれど学びの場を探しきれていない子、また学校だけでは十分理解しきれなかったけれど塾に行かない子などがいつでもどこでも無料で見られたら良いな、という発想で。私の教室でのレッスンはトレーニング中心で説明中心ではないので、動画では敢えて説明中心にしている。学びは説明を受けてのトレーニングが大切。でもその説明で理解が出来なかったら意味がない。私は動画にその「説明」の部分を担ってもらっている。

 動画を作りながら私のブレイン(若者)に「これどうかな」と尋ねると、極力カットする様に指導された。「この板書してる部分全部カットね。これしてる間に動画切られちゃうよ。」
 なるほど。学校の電子黒板のことが頭の中で結びついた。今の子どもたちは「待たない」んだ。いや待て。子どもが変わったんじゃないかも。子どもを「待たせない」環境を作っている方にも原因があるんじゃないか。そんなことを考えてみた。

 そしてもう少し思いを巡らせてみると、クラスの中で一定時間を過ぎるとイライラする子が出てくるなぁ、と。「えっとね...」と発言に時間をかける子どもに対して「早く言えよ」「時間がもったいない」と言う。あれ?これ、どこかで見たことがあるぞ。
 大人が子どもに対してやってる、あれだよ。「早く言いなさい」「いつまで待たせる気?」子どもがボーッとしたり考えたりする時間を先に奪ったのは大人なんじゃないか。そして「子どもたちは『待たないもの』」と決めつけてどんどん効率化を図っているのも大人。そう思うと、とても残念な気持ちになった。

Welcome to 悪循環

 効率化、成果主義、サッサと動いて生産性を上げていこう、なんて。本当に工場みたいだな。そんなことを思う。何をそんなに生き急ぐのか。何をどうしてそんなに産み出したいのか。
 
 結局「待てない」子どもを嘆く「待たない」大人の相互の悪循環。大人が自分を買い被りすぎなんじゃないかな。大人だって子どもを待たせること、あるでしょう。「ちょっと待って」「後からするから」そんな時子どもたちは結構言われた通り待っていませんか。子どもって本来時間がたっぷりある人たちなので待つのは大丈夫なんです。空想したりボーッとしたり、地面をじっと眺めたり。仮にその「待っている」間にどこかに走り去ったり飛び回っていたりしたとしても、彼らは「待っている」時間を潰しているんです。
 むしろ待っていないのは大人の方。子どもたちは大人の都合で急がされたり、待たされたりしながらも、ちゃんと待っている。でも大人の様子を見ながら「慌てること」「次々に進むこと」を学んでしまう。結果周りを急かし、人生の時間を味わうことなく効率重視で生き急いでしまう。周りに辛く当たり自分自身を振り返る時間を持たずに、また「急ぐ」大人になっていく。

敢えて待たせる。敢えて待つ。

 私はレッスン中に今日もホワイトボードに殴り書きをします。そこから何が生まれてくるか。そのホワイトボードを味わうこと。文字に注目し、イラストのおかしさを笑い、私に突っ込む。私が望む、双方向のコミュニケーション。
 そして敢えて生徒が答えにくい問いを投げ掛けます。例えば "What color do you like?" 何色が好きか尋ねると子どもたちは簡単に答えます。"I like red." このフレーズは習ったばかりですからね。そこで私は "Why?" と聞きます。
 「時間がかかっても良いよ。日本語でも良いよ。」そう声をかける。
自分と向き合う時間をたっぷりここで味わって、人のアイデアに耳を傾け、人の考えている時間を味わっても損はないよ。どんな理由が出てくるか、ワクワクしながら待とうじゃない。
 自分もすぐにはパッと出てこない、だから周りに待ってもらわなけりゃいけない。「はやくー」なんて人を急かしていることは回り回って自分を苦しめることになるって気付く。
 でもここでは「待つ」ことも「待ってもらう」ことも安心して出来る。そこには「ワクワクしながら」待つ先生がいて、じっくり考えているあの子がいて「なんで赤が好きなんだろう」って考える自分がいて。

 そんな人生の味わい方、いいじゃない?

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