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嫌な悪口言わなくても良い方法

仲良くなるための悪口

 よく悪口を言う人がいる。「この人、本当に悪口好きだな。」と半ば呆れていても、知らずのうちにその人と話す時に自分の話も悪口に寄せていってしまっていることはないか。そう考えてみたら、意外とあるある。
「あの人、ケーキが好きだから買って行ってあげよう」 
みたいな優しい気持ちで。
「あの人、悪口大好きだから一緒に悪口言ったら喜ぶよな」
という気持ちが働いてしまう感じ。

 それが、自分にとって魅力ある人、または力を持っている人だと尚更私たちは悪口という手段でその人に近づこうとする。悪口のベースが無い人が悪口を言うようになる過程の一つはこれだと思う。

 で、もっと言うと逃れられない関係の人、例えば親や先生が人のことを悪く言ったり失敗を笑ったり、比べたりする場合はその価値観に子どもたちは全力で自分を合わせていく。それは子どもたちは自分の身近にいる大人である親や先生を頼っているからだ。自分にとって大切な人だと思うからこそ、その人たちが喜ぶことをしたいと思う。悪口は自分を守る方法でもあるのかも知れない。

悪口が苦手な性質

 私は集団生活が苦手だった。今思うとかなり無理をしてその輪の中にとどまろうとしていたし、その時に無理をしていた自分を思い出すとたまらなく気の毒な気分になる。悪口を言うたびに自分が擦り減っていくような気がしていたが、友達は喜んだ。一緒に笑うために誰かを悪く言い、話の中から外れないために悪いところばかりを探すことは、小さなストレスとして私の中に積もっていった。学校から帰っておやつを食べながらただテレビを見る時間は、体にまとわりついた自己嫌悪を脱ぎ捨てる時間だった。

 大人になって、私は一旦人間関係から離れた。単身で海外に渡り一人旅をしながら過ごした。帰って仕事をしては海外へ一人旅。そんな若い頃を過ごした。悪口を言う必要がない世界は、爽快だった。

 次に悪口に出合ったのは、親になってから。「保護者」という立場になってから。育児のストレスを感謝ではなく悪口に落とし込む、というおぞましいことを多くの親がやっていたので、私はそこに近づくのを止めた。ママ友は数える程。子どもが「どうして母さんにはママ友がいないの?」と心配そうに聞いてきたこともあった。子どものころの「みんなと仲良くしなさい」とか「どこかのグループに所属しなくちゃ、孤独な人だと思われちゃう」が蘇ってきて悲しくなるが、なぜそうなのか当時はハッキリわかっていなかった。

自分のままで

 ママ友が全ての人付き合い、みたいな子育て期にママ友がいないと必然的に各種イベントで一人になるのだが、そこはあまり気にならなかった。好きな仕事もあり、仕事や趣味では多くはないが笑い合える友達もいる。学校イベントなどでも待ち時間は一人で本を開いたりして待った。

 積極的に悪口メインのグループを避けるようにした。仮にその中にいて悪口が聞こえても「そうなんだ」とそっけない返事くらい。かつて子どもだった頃の必死で大嫌いな自分とはもう会いたくない。悪口を一緒に言う友達なら要らない。一人でいた方がずっと有意義に時間を過ごせそう。
 やがて「悪口を言わない」ことが私の魅力になったようだった。程なくママ友みたいな友達ができてきた。彼女たちは人の悪口を言わない。私と同じ想いをしてきた人たちだ。私たちは悪口や愚痴の代わりに自分の仕事や趣味、映画の話など共有しながら時間を過ごした。なるほど、こんなママ友もありか。そして、無理して自分を曲げて周りに合わせてきたことで出会えなかった人とは、こうして自分を素直に表現することで出会えるものなのだ、と今更ながらに気付いた。

 子どもが一人でいる、クラスで浮いている、と心配するおうちの方々がいて、私もそれで悩んだことがある。でもそれは、たまたまその周りの40人の中に自分が安心出来る場を見つけられなかっただけのこと。
「友達ができない体質なんじゃないか」とか過剰な心配をしてしまいがちだけど、ある意味自分を変えてまで無理して付き合う意味がない、と判断しているのだと思う。私の幼い頃よりもずっとスマートで、羨ましい程だ。
 でも一人ででも自分の好きなことに没頭していると、それに興味がある人が寄ってくる。無理してこちらからキャラクターを変えて出迎えに行かなくても、自分らしくいることでその自分を選んできてくれる人がいる。そういう出会いの良さを味わうことは、実は一番幸せなことなんじゃないかと思う。

悪口が嫌いなら

 悪口を言うことで人生を豊かに過ごしているならば、それはそれで「お幸せに」と思うが、大抵の人は「悪口なんて嫌いなのに」と思いながらお付き合いのために悪口を言う。私の悪口を言っていた人が、後に「私だって言いたくなかったのに、あの人が…」と謎の告白をしてきたこともあったが、いずれも私からしたら無縁な人。お付き合いは丁重にお断りだ。
 私は悪口を人に取り込む手段として使っていたことを苦い思い出だと思っている。けれど、それが習慣化・日常化し過ぎると自分が悪口を言っている自覚もなくなっていくのだろう。

 悪口を言う行為自体は見苦しく、自分もこの人にどこかで悪口を言われているんだろうな、と信頼自体を受けにくい。でもその客観的な目がだんだんなくなっていく。

 最後に、自覚のある希望のある方へメッセージを送る。
もし悪口が嫌いなのに言っているならば、すぐにやめましょう。
「そうだよね」という言葉を「そうなんだ」に変えて敢えて無関心を装い、スッと他の話題を出しましょう。あなたのお目当ての人は逃げていくかも知れないが、きっとその人はあなたにとって豊かな時を共有出来る人ではなかった、ということだから。追わずに見送ろう。遅かれ早かれ知ることになるのだから、早く知れて良かった。
 その代わり悪口を敢えて避けるあなたに興味をもった人が集まってきたら、大切にしましょう。きっと彼らとは豊かな会話が出来るはずだから。

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