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子供らしい子供時代が無かった人

子育てに正解は無い、と思っています。

人間は間違う生き物であり、親も人間である以上、間違います。

親は子供に、愛情を注ぎますが、間違って傷つけることも、沢山有るのです。

親が間違って、子供を傷つけても、親が心の中に、たった一つの事、を携えていれば、

子供は後に、生きづらさを背負って人生を歩く事にはなりません。

子供が負った心の傷は、深くなれば生きづらさになりますが、
親の心の中にたった一つの事さえ有れば、
心の傷は、深くなる事は無く、その子の個性を形づくる、紋様、になります。 
その子の人としての、味、になります。

たった一つの事、とは、
親が子を一人の人間として、尊重、する事です。

子供の生きづらさから辿れば、行き着く先は、幼少期の親子関係、更には、親が子を、一人の人として、尊重、したか、それとも、親の従属物として子供を、所有、したか、
という事に行き着きます。


親の心が未成熟である場合、親は見た目には立派な大人でも、心は幼児のままです。

勿論、尊重、という言葉を、その親は知っていますし、
言葉の意味を上手に説明する事だって出来ると思います。

しかし、どんなに上手に説明する事が出来たとしても、
それは、言葉の理解、に留まります。

その親には、尊重とはこういうものだ、という実体験がありません。

余程のレアケースを除いては、未成熟な親もまた、未成熟な親の下で育った過去があります。

言葉を知っていても、子供を、尊重、する事が出来ない親の下で育ち、

自分が親になって今度は、我が子を、尊重、する事無く、
自分の従属物として、所有、します。

そもそも、尊重するという心理的活動は、心が成熟して初めて成されます。

幼い心は、独りよがり、なのです。
自分が褒められたいし、
自分が注目を集めたいし、
自分が一番でありたいのです。

尊重する、という心理的活動には、対象、が在ります。

自分が自分を尊ぶ、自尊、ですら、対象は自分ですし、

自尊以外の、尊重の対象は、他者、です。

つまり、尊重する、という心の動きは、独りよがりな幼い心、には、荷が重い、一段階進んだ心理的活動と言えます。

ですから、見た目は大人でも、心が未成熟な親にとっては、
子供を尊重することは、荷が重いのです。

未成熟な親は、未だ親になる準備が整っていません。


そんな準備不足の親の下に生まれ育つ子供は、

褒められたい、注目されたい、自分が一番でありたい、といった幼児的願望を叶えられる事が無い幼少期を過ごす事になります。

何故なら、未成熟な親が幼児的願望に衝き動かされているから、です。

親子関係に於いて、親は絶大な力を持ち、幼い子供は徹底的に無力です。

本来、子供の幼児的願望を親が受け留める仕組みですが、

親の心が未成熟である時、親も子も同じ幼児的願望を持っていて、

パワーバランスは親に圧倒的に偏っているのですから、

親は自分の幼児的願望を子供に押し付け、
子供が親の幼い願望、感情、要求を受け留める側の立ち場に立たされます。

要するに、傍目には普通の親子に見えても、
この親子の役割りは、逆転しています。

この子は、自分の幼児的願望も、感情も、要求も、全部投げ捨て、

親のそれを、ひたすら受け留めます。

心理的に未成熟な親の下に生まれ育つ子には、

子供らしい子供時代、がありません。


子供時代をわかり易く大雑把に分けて、

小学生になる以前の幼少期と、それ以降の少年期に分けると、

幼少期は人生で唯一、独りよがりである事を許される季節です。

幼いが故の、
褒められたい、
注目されたい、
自分中心でありたい、といった、
甘えの願望を、肯定的に、無条件に受け容れられる事で、
その子は、自分はただ存在するだけで価値が有る、という安心感を獲得します。

その自分に対する安心感こそが、生きる基礎です。

少年期に入れば、これまで親子関係だけがその子の世界だったものが、

友達と関わり合う様になり、世界は劇的に拡大します。

仲良くなったり、ぶつかったり、争ったり、します。

そういった経験を重ねるうちに、
どうやら自分は、褒められる事もあれば、こっぴどく怒られる事も有るらしい、
注目されたいけれども、〇〇君の方が皆の注目を集めている、
自分が世の中の中心では、どうやら無いらしい、
と、気がついて行きます。

それは、人生に於ける最初の、
挫折であり、
学びであり、
発達課題であり、
幼児から少年への脱皮です。

当然ですが、挫折には痛みが伴います。

幼少期に肯定的に扱われ、無条件の受け容れを体験した、
つまり、子供らしい子供時代が有った人は、
既に、自分には価値が有る、という感覚が芽生えていますから、

挫折の痛みに耐える事が出来、その痛みを伴う経験が、更に心を成長させます。

一方、子供らしい子供時代が無かった人は、自分には価値が有る、という感覚とは正反対の、自分は無価値だ、という思い込みを、心の内壁に貼り付けています。

挫折の痛みに耐えられません。
挫折は、自分は無価値だ、という思い込みを強化こそすれ、学びや経験として成長に結びつく事がありません。

やがてその子は、挫折の痛みを回避する行動パターンが常態化します。

発達課題をクリア出来ないばかりか、課題自体を回避する様になります。

心は成長の歩みを停めてしまいます。


子供らしい子供時代、とは、

親が何らかの意図を持って、子供に接する環境では無く、

親が愛情を持って、子供に接する環境です。

そこには、条件、の付かない、
無条件の受け容れ、があります。

今、生きづらい、と感じるのであれば、

自分には、子供らしい子供時代、が有っただろうか、と、

振り返る事も、無駄では無い、

と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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