みじめな思いをさせる相手からは離れて良い
生きづらさを手放した人の多くは、
親子関係を始めとする、これまで自分を取り巻いていた人間関係が如何に自分を苦しめていたのか、という事が見えて来て、愕然とします。
友人や親戚もそうです。
時に、恋人や配偶者もそうです。
生きづらさの最中に在る時は、温かな関係に思えていたのに、生きづらさを手放した途端に、とても冷たい関係であった、という事が見える様になってしまいます。
生きづらさを抱えてしまう原因の殆どは、幼少期の親子関係に有ります。
親自身が大きくて重たい生きづらさを抱えている人であり、
親はその生きづらさから目を逸らす事に必死で、
子供を目を逸らす為の道具として利用してしまう事が原因です。
道具として利用する、のですから、子供を一人の人間として尊重する事が、その親には出来ません。
道具として所有します。
幼い子供は親無しでは生きて行けません。
徹底的に無力な存在です。
無力な幼い子供に唯一備わっている能力が、親を慕う力です。
幼い子供は、親を慕う事で生きる仕組みになっています。
だから、何があっても、どんな扱いを受けても、子は親を慕います。
しかし、生きづらさから目を逸らす事に必死な親には、我が子が自分を慕う姿が、絶対服従の姿勢に見えてしまいます。
慕う我が子を愛おしく感じ、親が無条件に受け容れる事で、健康的な親子関係は成立しますが、
親が抱える生きづらさが、親子関係を歪めます。
肯定的であるべきなのに、親は子を否定し、拒絶します。
無条件に受け容れる筈なのに、あろうことか親は、逆に親を無条件に受け容れる事を幼い子供に強要します。
子供の感情を無視して、親の感情を押しつけます。
子供は、自分の感情は放ったらかしにして、親の顔色を伺い、親の感情を拾い上げ、
拾い上げた親の感情を自分の感情と思い込みます。
たとえば、子供は本当は泣きたくて今にも涙が零れそうになっていても、
親の顔色を伺い、親が明るく笑う事を求めている、と察知するや、
お釣りが来る程のとびきりの笑顔をつくります。
親は、「泣くのは悪い事だから、いつも明るい子でいなさい。」などと事も無げに言ったりします。
そして、「お前の為を思って言ってあげている。」と恩まで売ります。
子供は、生まれた時からそうやって親の道具として便利に使われて生きていますから、それをおかしいとも思いません。
この、道具として便利に使われながら、それをおかしい、と思わない事が実に悲劇的なのです。
親は前述した様に、子供を便利に利用しながら、「お前の為を思って」と恩まで売ります。
つまり、子供をいい様に使いながら、欺いている、という事です。
子供は生まれた時から欺かれているのですから、嘘、に気がつきません。
欺かれるままに、都合良く使われながら、親に感謝します。
嘘を真と思い、欺瞞を愛と信じ、冷たさを温かさと取り違え、その子は逆さまの騙し絵の世界に生きます。
逆さまに見えてしまうのですから、幸せになりたいと思いながら、不幸を目指して歩きます。
優しい人と巡り合いたいのに、欺く人に囲まれます。
この子の人間関係のモデルケースは、親子関係です。
そのモデルケース通りの人間関係を構築するのですから、その子の周りは、親と同様の、その子を欺き都合良く利用する人ばかりが取り囲みます。
たまにでも顔を合わせる人の中に、その子が気がつくきっかけになる様な、健康的な心の持ち主が居てくれたら、その子の人間関係は違った形になるかも知れませんが、
幼少期に顔を合わせる人と言えば、親の交友関係や親類が主です。
親は欺く人に囲まれていますし、親もかつて親から道具として利用された子供だったのです。
だから親は生きづらさを抱えてしまいました。
つまり、幼少期のその子の周りに居た人は、多くが親とよく似た性質の人に偏ります。
親と付き合いのある人も、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、いとこまでもが、嘘と真を逆さまに見る世界の住人である事が常なのです。
だから気がつく事がとても難しいのです。
生きづらさを手放す時、自分と向き合い過去を辿ります。
過去を辿るのは、過去に囚われる事であり、何も産み出さないのではないか?
と言われる事が多々ありますが、過去に囚われず、今、を生きたくても、
生きづらさを抱えた人は、今を生きる事が難しい状態だから、生きづらいのです。
だから、過去を紐解く必要がどうしてもあります。
逆さまに見える騙し絵に取り込まれて生きている、という事が解らなければ、自分の人生を歩む事は難しいですし、人間関係のモデルケースを作り直す事も出来ません。
生きづらさを抱える人が、生きづらさを手放す方法と、
生きづらさとは縁が無い人がより良く生きる為の方法は、同じでは無いのです。
生きづらさを手放した人の多くは、自分を取り囲む人間関係の真実に驚きます。
親が子供を自分の為に利用した事は、無力な子供が親を慕う仕組みを逆手に取った卑劣な行為ですが、
卑劣な事をしていながら、お前の為を思っている、と子供に信じ込ませる事が最も罪深い様に思います。
信じ込んだその子は、いい様に使われながら受け容れられている、と感じる人になりますし、
利用されて惨めな思いをする在り方が自分の在り方だと認識してしまいます。
すると、その子は、後の人生に置いても、いい様に使われ、惨めな思いをする在り方に自らを近づける生き方をしてしまいます。
生きづらさを手放して、自分を取り囲む人間関係の真実が見えて来たなら、
静かに距離を取って、冷静に眺めて欲しく思います。
そして、惨めな思いをさせる人とは、必要以上に近づかないと決める事です。
真実が見える様になったなら、
惨めな思いにしがみつく必要はありません。
自分を大切にする事よりも大切な事など、ありはしないのです。
読んで頂いてありがとうございます。 感謝致します。
伴走者ノゾム
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