苦しみの理由、を知る
生きづらい人は、自分が嫌いです。
徹底的に嫌っていますが、本人にはその自覚が無い場合が多いのです。
たとえば、周囲から褒められる様なことが有ったら、
途端に、自分は優れている様な気がして、その瞬間は自分のことが好きな気がします。
逆に、周囲から批難されたら、自分が大変劣った存在に思えて、そんな自分なんか大嫌い、と感じます。
心の中に、確かな【自分】という意識が育っていないから、他者の自分に対する評価が、自分の価値、に直結しています。
つまり、【自分】が脆弱である為、自分の価値の有る無しを、他者の下す自分への評価に委ねるしか無い、ですし、
もっと言うなら、この人にとって大切なのは、良い結果を残して、他者に賞賛されること、であって、
自分の本質的な価値に興味を持てない、のです。
どうして興味が持てないのか、と言うと、自分には価値など無い、と頭から決めてかかっているからです。
価値が無い自分、という土台の上には、自分を高める方向性で、積み上げる事が、無駄に思えてしまいます。
積み上がる訳が無い、と頑なに信じ込んでいます。
だから、他者の評価が全てになります。
褒められればGoodで、批難されたらBadという、極めて不安定な自己評価になってしまいます。
私達が制御出来るのは自分の心だけであり、
身に降りかかる出来事や、他者の心を制御する事は出来ません。
その制御不能な他者の、自分に対する評価に全てを委ねる在り方は、不安定極まり無い状態と言えます。
この世に、価値の無い生命、など存在する訳が無い、と私は思っていますが、
その大前提を取り除いたとしても、自分の価値は、自分で決めて良い、のです。
他者に、自分の価値、を決める権限を譲るから、生きづらい人は、自分のことが嫌いになってしまうのです。
生きづらい人が、自分の価値、を他者に決めさせる様になったのは、
生まれた時から、自分の価値を決めつける他者が居たから、です。
それは、親、です。
直接的に、無価値だ、と決めつける言葉をぶつけて来ることも有ります。
馬鹿だ、不器用だ、優しくない、役に立たない、何も出来ない、等など、無価値だと決めつける言葉は星の数ほど有ります。
間接的に、無価値な存在であることを擦り込んで来ることも有ります。
無関心は、関心を持ってもらうに値しないという感覚を擦り込みます。
過保護は、守ってもらわなければ生きて行けないという感覚を、
過干渉は、自分は何も出来ないという感覚を擦り込みます。
親子関係の中で、様々な現れ方をしますが、
親が直接的にぶつける言葉も、
親の間接的な、無関心、過保護、過干渉なども、
子供から、感情を取り上げ、無価値感を擦り込み、
活き活きと生きる力を奪い、
自分を無価値だと思い込ませます。
その子は、自分のことが嫌いになります。
嫌いで、無価値で、信頼に値しない、自分、の感覚よりも、
他者が下す、自分に対する評価、が大切なのです。
だから、自分の本質的な価値を高めることには、関心が持てません。
眼の前の他者や、周囲を取り囲む他人の評価を求め、追いかける生き方になりがち、です。
その場、その時の他者の目線に執らわれ、どうしても場当たり的、刹那的、行き当たりばったりの生き方になってしまいます。
その様な生き方になってしまった人は、
生きづらいですし、とてつも無く苦しいのですが、
どうして苦しいのか、が分かりません。
生まれた時から、
酷い言葉をぶつけられ続けたこと、
無関心、過保護、過干渉に晒され続けたこと、
に気がつきません。
更には、
自分が自分を嫌っていること、
自分を信じられず、他者の評価に振り回されていること、
を知りません。
遮眼帯を付けた馬車馬の様に、狭い視野で、
闇雲にぶつかり、躓き、転びながら人生を歩んでいるから、
苦しいのだ、という事に気がついていません。
今、苦しんでいるのなら、
苦しみは何処から来ているのか、
立ち止まって考えることが必要なのかも知れません。
苦しみを手放すのも、手放さないのも自由ですが、
苦しみの理由を知ることは、
決して無駄では無い、と思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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