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他人にもたれかかる心理

健康的な心を持つ人は、心理的に他人にもたれかかる人、からは距離を取ります。

距離を置かれたら、もたれかかる人は、周りがけしからん、と感じます。
受け容れてくれない周りが悪い、と感じています。

皆を、冷たい、と感じます。
誰もわかってくれない、という思いに執らわれます。

他者にもたれかかる人で、心に確かな【自分】という意識、が育っている人は、いません。

心に【自分】が無いから、一人で立つことが出来ません。

一人で立つことが出来ないから、他者にもたれかかって立つしか無いのです。

自他の感情を分ける心理的境界線が明確な、健康的な心を持つ人、からしてみれば、もたれかかる他者を支えてあげる筋合いは無く、当然、もたれかかる人からは距離を置きます。

もたれかかる人は、殆どの場合、親から一人の人間として、人格を尊重された経験がありません。

親からあたたかく、思いやられた経験がありません。

そして、尊重されないこと、思いやってもらえないこと、が当たり前の環境に育ったため、

自分が尊重されない環境に育ち、あたたかな思いやりを知らずに、今日まで生きた、という実感がありません。

育った環境では、一人の人間として見做されず、親の所有物として扱われたのですから、

個として立つこと、は親への反逆だった、と言えます。

その環境で親子関係を維持するには、子供が個としての意識を捨て去ることが絶対条件です。

つまり、その親子関係は、子供が親に、心理的に呑み込まれ、犠牲になることで、成り立っていたのです。

親の犠牲になっている限り、子供の心の中の【自分】は満足に成長することは、ありません。

親は、子供を所有物と認識しているのですから、子供が個であることは、その親にとって、悪、なのです。

生まれた時から、親の所有物として生きた子供もまた、一人の人間として立つこと、に罪悪感を持ってしまいます。

子供の心に親は、土足でズカズカと踏み入ります。

本来、自由な領域である筈の心の中までが親の統治下になってしまいます。

子供が泣きたい気持ちであっても、ズカズカと踏み込んだ親が、笑顔を求めたら、子供は泣きたい気持ちをかなぐり捨てて、親が望む笑顔を作ります。

子供はそんな、自分と親の、感情の区別の無い環境、に育つうちに、

心の中の、確かな【自分】という意識、が脆弱で、
自分と他者の感情を分ける心理的境界線が曖昧な、
一人では立てない心、を持つに至ります。

一人では立てない心、になってしまうまでもとても苦しい生育環境ですが、

それだけには留まらず、一人では立てないのですから、人生そのものが、実に苦しいものになります。


何が苦しいのか、という事を端的に言い表わす事は難しいですが、

その中の代表例が、この他者にもたれかかる心理と言えます。

もたれかかる心理は、
自分は一人では生きられない、という自分自身に対する不信感を色濃く漂わせます。

人は自分という存在よりも、信用出来る対象を見つけることは困難です。

逆に言うなら、自分自身を、疑いを持って見ている人は、他者のことを信用出来る訳が無いのです。

ということは、もたれかかる人は、自分一人では立つことが出来ないと感じている為に、他者にもたれかかるのですが、

もたれかかりながら相手を信用していない、ということなのです。

つまり、他者にもたれかかる人は、信用したい、安心したい、と切望しながら、自分も、他者も、誰も信じる事が出来ない世界に居る、と言えます。


たとえば、生きづらさを抱えて、精神科や心療内科、カウンセラー、などを多数渡り歩く人の中にも、もたれかかる傾向の強い人が少なからず見受けられる様に、個人的には感じています。

最初は、ドクターやカウンセラーを理想化します。
その人に自覚は無いですが、自分自身を信用出来ていないので、それを補う為に他者を理想化します。

しかし一旦、「この人はわかってくれない」と感じると、治療方針やカウンセリングの内容、更には、ドクターやカウンセラーに対する不信感を露にします。

実際、診療やカウンセリングが適切でない場合も有るでしょうし、
ドクターやカウンセラーが経験不足、勉強不足の場合も有るでしょう、
相性だって有るでしょう。

自分に適した医療機関等を探す努力は大事だと思いますが、
自分と向き合うこと、はもっと大切な様に思います。

ドクターやカウンセラーを択ぶことが、不必要だと言っているのではありません。

必要な場合、択んでも、渡り歩いても、全く構わないと思います。

むしろ、適さないならば、其処からは去るべき、です。

ただ、その際には、気をつけなくてはならない事がある、と思うのです。

それは、択ぶ時、渡り歩く時に、自分の心の中に、

他者にもたれかかる気持ち、が無いか、
もっと言うなら自分の心の外に、魔法の杖、を探す気持ち、が潜んでいないか、
という事に、注意を払う必要がある、と思っています。

生きづらさを手放す事を考える時、始まりは自分と向き合うことであり、自分と向き合うことが全てである、とさえ思います。

医者やカウンセラーは、言い方は難しいのですが、

外部的な要件の一つです。

主体は自分なのです。

あくまでも、向き合うべきは、自分自身、
生きづらさを手放すのは、自分自身、なのです。

カウンセラーは、言ってみれば、

自分を映す鏡です。

良い鏡もあれば、悪い鏡も有るのは事実ですが、

良い鏡に行き着けば、生きづらさが消えて無くなる訳ではありません。

あくまでも、どこまでいっても、

生きづらさを手放すのは自分自身であり、
見つめるべきは、自分の心だと思っています。

鏡の造作の良し悪しを見るのでは無く、しっかりと見据えるべきは、鏡に映る自分自身の姿です。

生きづらさを手放す道のりに於いて、

心理的に他者にもたれかかる局面は有るでしょう。

しかし、もたれかかる心理に陥っていることに気がついたなら、

その心理状態は、安住する場所ではありません。

最終的に向き合うのは自分、

生きづらさを手放すのも自分、

そして、

望む人生を歩むのも自分、です。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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