「どうせ自分なんて」という感じ方は無価値感のつぶやき
「どうせ自分なんて」
という思考に執らわれた事はありませんか?
その想いに執らわれている限り、おそらく物事は好転しません。
とても簡単ですが、とても大事な、心の在り様を知る、自己診断の基準、だと思っています。
「どうせ自分なんて」と思ったその時、
その人はネガティブな世界に立っています。
ポジティブな世界に身を置いていたら、その感じ方をすることは無い、のです。
他人に表明することは少ないでしょうが、
これまでの人生で度々、心の中で「どうせ自分なんて」と感じている人、
その想いに、馴染みがある人、は生きづらさを抱えていると思って間違い無い、と考えます。
「自分を無価値だと感じていますか?」
と問われても、よく分からない場合も多いと思いますが、
「どうせ自分なんて」という感じ方に馴染みがあるかどうかは、すぐに掴める様です。
自分には価値が有る、と感じている人、
自分の存在に対する安心感が有る人は、
全くと言っていい程、「どうせ自分なんて」とは感じません。
何か失敗をして恥をかくような事があっても、
それは単なる出来事であって、自分の価値とは無関係です。
失敗をして、周りから笑われたら、恥ずかしいし、悔しいのは当然ですが、自分の価値が脅かされる事はありません。
「うわっ、やっちゃった」と思いますし、
「もう失敗しないようにしよう」とは思っても、
自分を無価値だと思い込んでいない限り、「どうせ自分なんて」という感じ方には辿り着きません。
「どうせ自分なんて」という感じ方に馴染みがある人は、
心の中に、自分は無価値である、という思い込みが張り付いていて、
自分の存在に対する安心感など有る筈も無いため、
失敗することが、そのまま自分の存在価値を脅かします。
失敗は、自分が無価値であることの証明になってしまうのです。
失敗出来ないから、結果に執着します。
失敗出来ないから、いつも緊張しています。
失敗出来ないから、結果至上主義になり、プロセスはどうでもよくなります。
プロセスがどうでもいいのですから、眼の前の、取り組んでいることに集中することは難しく、
プロセスに楽しみや喜びを見出すことが出来ません。
見つめているのは、結果という未来だけなので、今を生きることが出来ません。
本当は、私達が触れることが出来るのは、今、だけであり、
過ぎ去った過去や、未だ見ぬ未来は、私達の思考が創り出す想念です。
触れることが出来る、今、の連なりが人生です。
ですから、自分を無価値だと思い込んで生きることは、今、を捨てて、想念に生きること、とも言えます。
今、の連なりが人生ならば、今を捨てるということは、人生を捨てることになります。
だから、自分の人生でありながら、他人事の様に感じます。
人生にリアリティが感じられず、砂を噛む様に虚しいのです。
生きづらさを抱える人が、自分は行きづらい、と自覚することは、思うより簡単なことではありません。
生まれてからずっと、今、を捨てざるを得ない環境に育ちました。
今この時に湧き上がる自然な感情を捨て、親の顔色を伺い、空気を読んで、親の感情を常に優先する環境に育ちました。
つまり、ずっと、今、を捨てて生きて来たから、その状態が当たり前だから、自分の生きづらさが分かりません。
生きているだけで苦しい、
気分がいつも塞いでしまう、
そんな感覚があるならば、
「どうせ自分なんて」という、
無価値感のつぶやきを、
いつもいつも、受け止めてはいないか、
耳を澄ませて聞いてみて下さい。
生きづらさを手放す道のりは、
気がつくことから始まります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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