何かに失敗した時、或いは、自分の言動を他者から批難された時、更には批難では無く、単に反対意見をぶつけられただけでも、
ひどく落ち込んで引きずる人もいれば、ケロッとして、気にしない人もいます。
ひどく落ち込むことを回避するために、攻撃的になり、怒りをぶちまける人も、実は、ひどく落ち込む人です。
事ある毎に、落ち込んだり、攻撃的になったりするのは、楽な生き方では無い様に思います。
失敗や批難に執らわれ、振り回されている状態です。
その状態が楽な在り方では無い事は、大半の人はわかっている、と思います。
それでも、落ち込む人は落ち込んで、気にしない人は気にしません。
落ち込む人は、その失敗や、他者からの批難、反対を「自分を否定された」と受け取ってしまう様です。
実際は、或る物事に失敗しても、失敗した、という事実が有るだけで、その人の存在価値とは関係ありません。
他者からの批難も、他者がそう思った、というだけで、その人の存在価値とは無関係です。
他者から反対されたり、同意が得られなくても、意見や考えが違っただけで、その人の価値が脅かされることは本来、無いのです。
その人は、事の成否や、他者から反対されるか賛成されるか、という事が、
自分の価値とごっちゃになっています。
そこは、心の構えの問題であり、昨日今日、急にごっちゃになった訳ではありません。
おそらくその人は、生まれてからずっと、自分の価値に疑問を持ちながら生きて来たのだと思います。
そう感じるしか無い環境で育ったと思われます。
本来、家庭は子供が巣立つまでの安心、安全の巣です。
安心と安全に抱かれて、子供は心に価値有る自分を感じる様になります。
自分という存在に対する揺るぎ無い安心感を得ます。
しかし、その環境に安心と安全が無かったら、子供は自分という存在に価値を感じる事が出来なくなります。
心は無価値感に占められます。
安心感を持つ子供は、ありのままの自分を受け容れられる環境に育った子です。
無価値感に苛まれる子供は、ありのままの自分を否定され、
悲しくて涙が溢れそうな時も、親が明るい子供であることを望んでいると察したら、
とびきり明るく笑ってみせた子です。
安心感を持つ子供は愛を知っています。
惜しみなく注がれたから知っています。
無価値感を抱く子供が知っているのは、条件付きの愛です。
条件を満たしたら与えられ、満たさなければ責められる、そんな愛なのです。
条件とは、親の都合、親の好み、親の気分です。
愛とはありのままを受け容れることだ、と思うのです。
愛する対象に、こうであって欲しい、こうだったらいいのに、と思った時点で、愛からは離れてしまう様に思います。
つまり、条件が付いた時点で、その愛は偽物です。
偽物の愛しか知らず、ありのままの自分に価値は無く、条件を満たして初めて受け容れられる環境で生きるしか無かったのですから、
失敗すれば無価値感に苛まれて、落ち込み、
反対されれば存在を否定されたと、怒ります。
もとを辿れば、無理もない事です。
無理からぬ事ですが、楽か苦かと問われれば苦でしか無いでしょう。
「てへぺろ」なる言葉が流行った時期がありました。
ググってみると、
2009年頃にアニメ「けいおん!」の声優、日笠陽子さんが使ったことが始まりと言われている、
との事です。
いけない、やっちゃった、
といった意味で概ね合っていると思っています。
それを、思いっきり可愛く、そして短く表したものですね。
おそらく、ケロッとして気にしない人の心情は、
存在が、価値が、愛が…、などと重た気な文言を羅列する様なことも無く、
「てへぺろ」なのだと思います。
勿論、基本的にケロッとして、気にしない人であっても、望まない出来事は起きますし、災難も、苦労も、悲しいこと、辛いことだって有る訳です。
それでも、落ち込む度合いが少ないのは、出来事は出来事、自分の価値は自分の価値と、くっきりと区別がついているからだと思います。
だからといって、今日まで事ある毎に落ち込んだり、引きずったり、怒っていた人が、出来事と自分の価値を区別するぞ、と勇んでも、
述べた様に、感じ方には理由が有り、出来上がっている素地が有ります。
区別をつけようとして、分けられるものではありません。
先ずは、心を整理することだ、と思っています。
どうしてこんなに落ち込んでばかりなのだろうか、を入り口に、
こんな育ち方をしたら、そうもなる、と腑に落ち、
よく頑張ったな、自分はスゴいな、と思え、
かつて、価値が無いと決めつけられて、嫌いになった自分を好きになれた時、
気持ちは軽く、
それこそ、
失敗しても「てへぺろ」な自分に
なれると思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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