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【極私的読解】夏目漱石「夢十夜(第一夜)」をこう読む④

こんばんは、藤江なるしです。

夏目漱石「夢十夜(第一夜)」の極私的読解の4回目です。

順番は前後しますが、この極私的読解はモノローグ朗読を行うにあたって、予め読み解いた内容を文字化しています。

数年後、また同じ題材に取り組むことがあったとき、今回と捉え方が変わっているかもしれないので、2021年現在の解釈をタイムカプセルに詰め込むみたいな感覚です。10年後に開封したとき、どう思うか楽しみやね。

 

さて、前回は『「死ぬ」ことを選んだ女の覚悟』が垣間見えるポイントを見てきました。また、女の死はネガティブな理由によって追いやられたものではなく、『「死」の先にあるもの』をどうやら求めているんじゃないか、という解釈でした。

今回は「自分」の心境を追っていきましょう。


【青空文庫】※先に全文読みたい方はコチラ。

※題材はパブリックドメインを使用しております

そしていつものやつ・・・

※この読解はあくまでも個人の見解です

ではいきましょう!台本(1ページ目)カモンッ!

【11】黒眼に引き込まれた「自分」の心

11行目。ぱっちりと眼を開けた女の眸を見た「自分」は、その様子をこう語る。

大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

これは単純に「自分」が見た映像の描写だけでなく、心象風景でもあると思います。

まず気になったのは「一面に真黒であった」という言葉。

眸という小さなものを「一面」と表現されていることに、最初違和感を感じました。なぜならこの言葉は、視界いっぱいにその光景が広がっている時に使う言葉と認識しているからです。一面の青空。一面フラミンゴの群れ。

では、なぜ「一面」と表現されているのか?
そもそもこのシーンは何を言ってるのか?

これを映像作品だと思ってセンテンスを見ていきましょう。まずは「大きな眼」、次に「長い睫」、その奥に「真黒な眸」、更にその奥に「浮かぶ自分の姿」。お分かりでしょうか。フォーカスがどんどん狭くなって、被写体がクローズアップされています。画面が女の顔の映像から、どんどん寄って眸に映る自分の姿まで拡大されました。

この映像を「自分」の主観とすると、女と眼があった瞬間「自分」がその眼に、ゆっくりと引き込まれていくシーンと言えます。その過程で「自分」の視界に拡がる女の眼が「一面に真黒だった」という表現も合点がいきます。

しかし、夢の話と言えど、夢十夜はSFホラーではないので、実際に「自分」が小さくなって眸の世界へダイブするわけではありません(笑)

これは「自分」の心象の描写、そして引き込まれたのは「自分の心」と言えます。銭形警部がクラリスに言ってたアレですよ。

「あなたの心です」

この話は次項【12】にて。

 

【12】「自分」はいつ恋に落ちるのか?

いきなり核心的な標題をつけてしまいました。

【03】で言及しましたが『「自分」の女に対する感情の移ろい』こそこの作品のドラマであり、避けては通れないポイントだと思います。

冒頭「自分」は女と面識がない様子ですが、結論から言うと、「自分」は女の死後百年間、女との約束を頑なに守り彼女を待ち続けます。女の今際の際が描かれる前半部で、この心境へたどり着かなくては作品すべてが嘘になってしまいます。

その心境が『恋』からくる事は、私の解釈では疑う余地はありません。
あえて『恋』と言います。

瓜実顔の美人…艶やかな髪…肌の色、唇の赤さ…刹那的な声…覚悟を帯びた言動…深い黒眼の色沢…謎めいた振る舞い、表情…

恋に落ちる要素は様々ですが、感情の移ろいを1つ1つ丁寧に捉えていく事でドラマが生まれてくると、そない考えております。

その最初のポイントが前項【11】というわけです。女と眼が合った瞬間…深く透き通った不思議な眸に引き込まれる描写は「心が奪われる」とも言い換えられます。しかし恋に落ちたとはまだ思いません。
ちなみに【08】で言及した『聞いて見た』という表現の解釈も、『見つめる』ニュアンスの強調としたのはこのためです。

『「自分」はいつ恋に落ちるのか?』
今後の極私的読解の注目ポイントです。

 

【13】ねえ…ホントに死ぬの?

14行目。女の眸を見た描写の後の「自分」の印象。

これでも死ぬのかと思った。

かなり悩んでます・・・

死ぬの死なないの論争は【07】でも言及してますが、さらに今回・・・

「とうてい死にそうには見えない」

「これは死ぬな」

「これでも死ぬのか」

・・・となりましたことを、ここにご報告いたします。

眼というものは色々なものを語ります。まさに『死んだ眼』とか『眼が生きている』とか、命が宿り、その多寡を語る部位でもあります。
やはり「女の眼の潤い」であったり「黒目の色沢」という表現は生気ある描写だし、「自分」が『女の死』を疑うほどの色気を感じたともいえる。

ただ、そこに極私的解釈を1つ上乗せします。
【11】【12】で言及した通り、「自分」は知らず知らずと女へ引かれだしています。どこか『女の「死」を否定したい』という感情が芽生えだしている、と私は思うのです。「これでも死ぬのか」はある種、願望も混じった言葉なのかもしれません。

ちなみに『女の眼の生気ある描写』は、この後、女が死ぬ際に対比的に描かれています。その話はまた追々。

 

さて、今回もお読みいただきありがとうございました!

おふざけが殆どない真剣な回になっちゃいましたね。でも、この題材で1・2を争う重要なポイントだったので、どうか許しておくんなせい。。。

次回は男の恋心が表面化してくる艶っぽいシーンです🥰

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藤江なるし
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