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一年に一度、時の止まる広島

明日は8月6日。
皆さまにとってどんな日でしょうか。
私は高校3年生の夏から半年間だけ、
広島に住んでいました。
そしてその半年間が8月6日をかけがえのない日に変えてくれました。
今日はそんな内容について書きたいと思います。

広島に引っ越す前、私は父の仕事の都合で海外に住んでいました。

中学の途中から現地のインターナショナルスクールに通っていて、寝ずに勉強の毎日でした。

課題三昧の学校だったので、今日は地理の授業で割り当てられた州の旅行会社になりきったプレゼンテーションとパンフレットのお披露目、明日は科学の実験結果のレポート、明後日は公民の授業でグループワークで撮影した選挙ビデオの発表、その次の日は小説を分析した論文提出、といった感じで、ただ授業に出ることは許されずアウトプットの嵐のような学校生活。
単位を落としたら容赦なく留年。

授業も居眠りなんてしようものなら校長室に送られて、運が良ければその日だけGO HOME。運が悪ければ数日停学。

その代わり、授業に能動的に参加していて課題もテストも高評価を得られていれば、メイクもOKだし、制服着たまま買い食いもOKで、放課後マクドナルドで友人と談笑していたら学校の先生にばったり会ってHey~!なんていうことも日常茶飯事でした。

そんな生活を送っていた私がまたしても父の仕事の都合で日本に帰ることになって、赴任先が広島だったので高校三年生の秋から半年間だけ広島の高校に通うことになりました。

初めての私立女子校。

そんなタイミングで入れていただけるようなところだったから、あんまり学業に対して熱心な学校ではありませんでした。

日本の中高に通っていなかったブランクも特になく、前日に教科書ぱらぱらしたらほとんどの教科で満点が取れました。

授業態度にも甘くて、勿論授業中能動的な発言が無ければ評価が下がるといった前の学校のようなスタイルではなかったですし、テストが低くても居眠りしてても単位が取れるという感じ。

だがしかし
反対に、校則が異常に厳しかった。

スカート丈は勿論、眉毛はいじっちゃだめとか、携帯電話を交通機関で開いたら1か月没収とか(このルール私編入時には聞かされてなくて没収されました)、授業中携帯電話が鳴ったような音がしたら全員外に出されて荷物検査、とか。勿論、買い食いなんてもっての他。

前の高校と違って学業がゆるゆるで校則ががんじがらめっていう温度差に唖然としてしまって完全に二歩も三歩も引いた生活。

理解しようとするな、異文化だ。
郷に入っては郷に従えだー!
と一生懸命自分の中の自我を説得する毎日。

だから正直に言うと高校生活、という意味では広島での半年間は窮屈で退屈な思い出です。

大学に進学するために残り半年でも編入を許してもらえて高校卒業出来たという意味では感謝で一杯なのですが、それでもあの窮屈で退屈な学校生活はもう一度味わいたくはないなあというのは素直な気持ち。

だけれども。

今振り返っても私の人生の中であの半年間を広島で過ごせたことは何にも代えがたい大切なものだと思います。

広島に引っ越して本当に間もない頃の朝8時台、
私は自転車に乗っていました。

広島駅近くに向かっていたらいつもと町の様子が違いました。

別に景色は一緒でした。

アスファルトも信号も、朝の陽ざしも変わらずそこにありました。

ただいつもと違ったのは町の時が止まっていたことでした。

信号は青。

なのに、
人も自動車も静寂に包まれていていました。

その光景を数秒間見つめ、気づきました。

黙祷なんだ。


広島では今も8月6日の8時15分から1分間は何があろうと祈りの為の時間なんだ。

人も街も黙祷するんだ。

私は海外に住む前は関西圏に住んでいましたが、そんな光景を見たことがありませんでした。

8月6日も8月9日も8月15日もテレビの前で一緒に黙祷することはあっても、町の機能が言葉通り祈りのために止まっているのは見たことが無かったのです。

この光景を母も広島市内の別の場所で目の当たりにして同じことを思ったようで「あの黙祷は日本全国でやった方がいいね、1年に3度(8月6日と9日と8月15日)、心からの祈りの意識を日本にいる全ての人が使ったらきっと平和についてもっと考える人が増えるよ」と会話したのを今でも覚えています。

ちょうどその頃、編入した高校で仲の良い友人が出来ました。

カザフスタン人の交換留学生で非常に聡明で性格はチャーミングな彼女。

もう一人フィンランド人の留学生がいたのですが、彼女が「今金欠なのよ~どうしよう」と言った時には、カザフスタンの友人が「あら、貴方ブロンドブルーアイズの美少女なんだから広島の本通に言ってフリーハグの代わりに100円ハグって書いた紙書いて立っておけばよいわよ。あーっという間に稼げるわよ」なんていうことをあっけらかーんというような茶目っ気のある子でした。

そんなカザフスタン人の友人に留学先に広島を選んだ理由を聞いたことがあります。

そしたら彼女は、「世界で初めて原爆が落ちたところだから」と答えました。

そのあと、市が主催している留学生向けのスピーチ大会で「平和」というテーマでスピーチするからと招待してもらいました。

彼女の番になると淡々と力強い声で原稿を読み始めました。

彼女の叔母さんはとても優秀な人で医者を目指している高校生でした。
高校の卒業パーティーの準備でドレスや靴を用意してワクワクその日を待ち望んでいたのですが、次第に具合が悪くなりとうとうドレスを着ることは叶わず、齢18歳で逝去しました。叔母さんがチェルノブイリ原発の放射能被害で亡くなったと判明したのは後のことです。だから私は原発をやめる世界をつくり、その架け橋となるために日本に着ました。

彼女はその大会で優勝しました。

彼女のスピーチを聞きながら私は自分を恥じました。

海外のインターで学んでいた教育というのはいわゆる資本主義で生き抜いていく力を培う教育。

よく言えば個人主義、悪く言えば結果を出した者が正義。
お金を稼ぐ力がある者が全てを手に入れられる。
そういう観念が教育の根底にあったように思います。

インターの学校教育の中で能動性と論理性と訴求性を手に入れた代わりに、私はなんのために学ぶのかという志をどこかに置いてきてしまっていた気がする。

そんなことをカザフスタン人の友人にに気づかせてもらいました。

同時に8月6日の黙祷に続いて彼女のスピーチを聞いた事で、平和という言葉の重さについて深く考えることになったのです。

そして広島ってすごいな、
そう思うようになりました。

あのようなことがあって戦後100年も経たずに、ここまでの都市に復興させた広島の人々の強靭さ、やさしさ、希望、愛情、そういったものを感じました。

広島の高校を卒業した後、私は東京の大学へ通うことになるわけですが、もしも海外のインターから直接東京の大学へ通っていたら、今の自分には志のある生き方が出来ていただろうかと思います。

毎年来る8月のあの静寂は
自身の心の中にも訪れていただろうか。

平和と調和について
心から真剣に考えただろうか。

そう思うとあの広島県での半年間は
本当に大切な宝物を私にくれました。

今でも心から感謝しています。

8月6日午前8時15分

8月9日午前11時02分

そして

8月15日正午

今年も心から祈りたいと思います。



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