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【読書コラム】わかっちゃいるけどやめられない - 『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ 』椎名美智(著)

 高校時代の友だちからLINEがあった。面白い本を読んだという報告だった。なんでも、「させていただく」の使い方に関するものらしい。

 正直、最初、めんどくさい本なんだろうなぁと思った。敬語として正しいとか正しくないとか、そういう重箱の隅を突くようなマナーが書いてあり、日本語の崩壊に警鐘を鳴らすような。

 ところが、LINEに並ぶメッセージを読む限り、そういう話ではなさそうだった。

 友だちはいま中高一貫校の先生をやっている。日々、思春期の子どもたちと接する中で、最近のコミュニケーションに疑問を抱いたそうだ。なんでも、丁寧なのにピリピリしていて、いささか息苦しそうなんだとか。

 具体的には、みんな、目立たないように気をつけているらしい。自ら意見を言うことはないけれど、聞かれたらオブラートに包みながらも主張はする。褒められることを嫌がり、また、ダメなことも可能な限り隠そうとする。全員が平均を目指し、抜きん出ることも、落ちこぼれることも、同じぐらい怖がっている。

 それだけ聞くと、大人しい子が増えているように感じるが、そうじゃないからことは複雑。彼ら、彼女らはYouTubeでひろゆきやホリエモンといったご意見番動画を見まくっていて、内心、言いたいことをバンバン言う姿に憧れてもいる。そのため、「情弱」とか、「ソース」とか、「お気持ち」とか、論破目的の言葉がしっかり流行っている。

 結果、子どもたちはアクセルとブレーキを同時に踏むような矛盾したスタイルで会話をしている。でも、それって、けっこう大変なんじゃないの? 友だちは心配になった。それで、あれこれ調べているうちに、『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ 』という本に出会ったという。

 返事を送るより先に、わたしもこの本を買っていた。

 読めば納得。これは正しい日本語を教え諭すようなものではなく、現代人の繊細なコミュニケーションの実態を浮き彫りにする秀逸な解説書だった。

 まず、「させていただく」の違和感について語られる。ざっくりまとめれば、相手に許可をもらったわけでなく、自分の意志で決めた行動なのに、「いただく」はおかしいだろと言う話だ。

 現実世界で目にする変な「させていただく」がたくさん紹介されていた。

 SMAPがマスコミ関係者に送った「解散させていただくことになりました」というFAX。駅に貼られた「敷地内にて、物販販売、チラシ・ティッシュの配布、演説等、禁止させていただきます」という注意書き。講演会の受付における「受講票を確認させていただきます」というお願い。

 どれも語り手がしたいことであり、本来、聞き手に選択肢はないにもかかわらず、まるで許可を得たかのように「させていただく」が使われている。

 要するに、「させていただく」は相手のための敬語というより、失礼な発言をしていないと示すことを目的とした、自分のための敬語なのだ。

 この辺、敬語の特性として、使われ過ぎると敬意が漸減していくとか、上下関係より距離感のコントロールが重要とか、様々な理論に基づき説明がなされていた。興味がある方は是非ともお手にとってご確認いただきたい。

 いずれにせよ、「させていただく」という言葉の使い方こそ、アクセルとブレーキを同時に踏むような表現の代表格である。そして、90年代以降、若者を中心にそれが多用されるようになったという事実は偶然じゃないのだろう。

 なお、この原因について、バブル崩壊を想起してしまう安易さについて、本書はしっかり触れていた。言葉の変化はもっと長い時間のスパンで起こるものであり、特定の出来事が決定的な影響を持つとは考えられない。

 だとしたら、むしろ、言葉が人間の考え方に影響を与えていると見た方が理屈は通るのではなかろうか? わたしはそんな気がしている。

 むかしは「させていただく」なんて、ほとんど使われていなかったそうだ。サザエさんのセリフを分析する限り、唯一に近い用法が「実家に帰らせていただきます」というのは興味深い。

 つまり、もともと、「させていただきます」は丁寧なようで、相手を突き放すための言葉として存在していたのである。

 最近、仕事の電話が苦手な若者が増えているという。かくいう、わたしも電話で大事なことを決めるのは大嫌い。なぜなら、相手の勢いに負けて、不利な条件をオーケーしてしまいそうで怖いから。あるいは、うっかり、NGワードを発しそうで不安なのだ。

 ぶっちゃけ、双方向のやりとりはあまりにもリスクが高過ぎる。なにかを言って、なにかを言われ、アドリブを重ねているうちにきっとボロが出てしまう。そんなのは絶対に嫌だ! ただ、大事な話だからこそ、そこは腹を割って言葉を交わすべきなのだろう。

 だから、一応、重要な案件について、わたしはいやいやでも電話をかけるようにはしている。

 この本を教えてくれた友だちは、

「アクセルとブレーキを同時に踏んでしまうのは、自分の配慮をアピールするためなんだろうね。品行を見せることで、攻撃してこないでねって保険をかけているのかも」

 と、子どもたちのコミュニケーションについて、総括していた。

 なるほど、たしかに、わかる気はした。でも、同時に、傷つく覚悟で他人と関わるべきだと思わなくもなかった。

 わたしのそんな意見に、友だちも賛同してくれた。長文のメッセージを何通もやり取りするほど盛り上がった。

 ホクホクした気持ちでアプリを閉じると、メールが何通も届いていることに気がついた。その日の午前中、仕事関係で送った文章にわかりにくい部分があり、質問が大量に寄せられていたのだ。

 慌てて、返信内容をまとめ、次から次へと送りまくった。

 やれやれ、大変だったなぁ。

 一息ついて、ミスがないか送信済みフォルダを確認してきたところ、愕然とした。

 どのメールでも、わたしは「させていただく」を使いまくっていた。

 ご連絡させていただきます。確認させていただきます。締め切りさせていただきました。お断りさせていただいております。回答はお控えさせていただきます。ご相談させていただきたく存じます。などなど。

 うわぁと恥ずかしさを覚えつつ、じゃあ、どういう風に書くべきだったか、あれこれ考えてみても、いい代替案はなにひとつ思い浮かばなかった。

 なるほど。子どもたちがアクセルとブレーキを踏むしかないのも、本人たちの意志というより、そうするより他にないからなのかもしれない。

 いやはや、コミュニケーションは難しい。




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