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【映画感想文】かつて、わたしも神童だった - 『アステロイド・シティ』監督:ウェス・アンダーソン

 かつて、わたしは神童だった。と言っても、勉強ができたわけでも、スポーツ万能だったわけでもなくて、ホッピングが得意だった。そう、あのバネのついたスコップみたいな形をしたおもちゃだ。あれで誰よりも上手にピョンピョンしていた。

 小学四年生の夏休み、わたしは一日も欠かすことなく近所の児童館に通った。そして、入り口の脇に置いてある自由に遊べるピンク色のホッピングで午前十時から夕方六時まで、とにもかくにも跳ねまくった。お昼ご飯用のおにぎりを握る母からは、

「なにをそんなに一生懸命になっているわけ?」

 と、呆れがちに言われたけれど、こちらとしては唯一の特技であるホッピングの才能をさらに大きく花咲かせるべく、無我夢中になっていたので一片の迷いもなかった。

 トレーニングメニューをしっかり組んだ。平らなとこほで千回ジャンプ。それから、五段ほどの段差を上ったり、下ったりを繰り返す。あとは施設内を十周まわり、片手跳躍や目潰り跳躍、前後ろを逆にした跳躍などの特殊技の習得に励んだ。

 孤独に始めた修行だったけれど、さすがに連日やっていると他の子どもたちにも気づかれました。凄いとか、どうやるのとか、尊敬されるようになった。当然、こちらはそうなりたくて頑張っていたわけなので、鼻高々、喜んだ。よーしっ、この調子で極めまくろう。やる気もますます湧いてきた。

 しかし、八月三十一日の朝。いつものように、玄関でいつもの相棒を手にしようとしたときのこと。児童館・の職員さんから、

「偉いわねえ。夏休み中、ずっとホッピングやっていたのねえ。もしホッピングでプロになれたらよかったのにえ。将来、その努力が役に立つかもしれないのにねえ」

 と、言われて、わたしの世界はガラガラ壊れた。

 え? ホッピングにプロってないの? てか、この努力って、将来の役に立たないの?

 当時、幼かったわたしは大人になったらホッピングを仕事にすると本気で思っていた。だから、貴重な夏休みをそのためにすべて費やしていたというのに、突如、なにもかもが無駄であると知らされて、絶望の底に突き落とされた。

 こうして、わたしの神童時代は切なくも終わりを迎えた。

 さて、そんな懐かしい記憶がウェス・アンダーソン最新作『アステロイド・シティ』の予告編を見たとき、「砂漠の街アステロイド・シティに集まった5人の天才とその親たち」のフレーズに掘り起こされてしまった。わたしの心の奥に引きこもってしまった天才だった自分に再会すべく、映画館に行かざるを得なかった。

 鑑賞。戸惑いつつ、笑いつつ、ほっこりしつつ、考えさせられつつ、エンディングを見終わって、劇場内に明るくなってしばらくの間、席を立つことができなかった。ああ、そうそう。天才が天才でなくなるときって、こういう感じだよねとつくづく思った。

 映画の中で映画を解体する。それが『アステロイド・シティ』のチャレンジだった。フィクションを作るとはどういうことなのか、その過程をフィクションとして描きつつ、出来上がったフィクションも作品として提示する。

 細かいことは見なきゃわからないと思うし、ぜひとも見てほしいところなのだが、とにかく、本作でウェス・アンダーソンはそういう入れ子構造な演出を徹頭徹尾貫き通した。そして、メタフィクショナルな領域で真剣に悩むのだ。こんなことをしてなんの意味があるのか? と。これこそ、まさに、天才が自らの天才性に疑問を抱いた際にぶつかる悩みではないか!

 これほどまでに天才の悲劇が丁寧に描かれた作品をわたしは知らない。メインとなるフィクションに出てくる天才キッズの悩みはもちろん、親たちの悩みに加え、そのフィクションを作り上げるメタフィクションの作家が抱える悩み、およびこの複雑な物語を作ろうとしているウェス・アンダーソン自身の悩みすら浮き彫りになる。相当、歪なアンサンブルが奏でられる。

 だが、種々様々に思える彼らの悩みはある一点において収斂していく。みな、他者との出会いによって、自分の天才性を担保している世界が崩壊している点で共通しているため、それぞれ「さあ、これからどうやって生きていこうか?」と考えなくてはいけないのだ。

 かつて、三島由紀夫はインタビューでこんなことを言っている。

 終戦の時は、わたくしは終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に、わたくしの家族が疎開をしていまして、終戦の詔勅自体については、わたくしは不思議な感動を通り越したような空白感しかありませんでした。
 それはかならずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界が、このままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかったのです。そして、戦争が済んだら、あるいは戦争に負けたら、この世界が崩壊するはずであるのに、まだまわりの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。それを普通の家庭の中で見たのでありますから―まわりの家族の顔もあり、まわりに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある―それがじつに不思議でならなかったのであります。

NHK『あの人に会いたい』

 世界は崩壊したはずなのに、まわりのなにもかもが変わらず存在し続けている事実を目の当たりにしたとき、天才は絶望する。自分が天才である世界がなくなったとしても、別の世界が当たり前のように自分を含めて、変わらず動き続けるわけで、逆説的にわたしの絶対性は徹底的に否定されるから。

 似たようなことをより発展させた哲学者がいる。マルクス・ガブリエルだ。彼は『なぜ世界は存在しないのか』を通して、これまで唯一の客観的真実とされていた自然科学的な世界だけでなく、哲学の世界も、芸術の世界も、政治の世界も、すべて自然科学同様に真実であることを提示、逆説的に「唯一絶対の客観的真実だった自然科学的な世界」は存在しないことを証明した。これをもって新実存主義がドイツで爆誕したわけだけど、ウェス・アンダーソンは『アステロイド・シティ』で新実存主義の真髄を見事に体現してみせた。

 TOHOシネマズ新宿からの帰り道。歌舞伎町をテクテク南下しながら、心の奥からひょっこり顔を覗かせた神童だった頃のわたしが久しぶりに話しかけてきた。

「ホッピングなくても生きていけたね」
「まあ、一応ね」
「ホッピングなくても生きていけるんだね」
「いまのところね」
「ねえ。ホッピング、嫌いになっちゃったの?」
「むかしはね。でも、いまはそんなことないような気がしている」
「そっか。それならよかった」

 JRの改札を抜け、ホームにつながる階段をのぼるといつになく混雑していた。どうやら山手線が止まっているらしい。その隙を利用して、わたしはAmazonでホッピングを探してみた。大人が使えるやつは一万円近くするらしい。でも、目覚めるためには眠らなければならない。ままよとて! 今すぐ買うボタンを押してしまった。

「ホッピング、チャレンジするよ!」

 そう声をかけたとき、神童だった頃のわたしの姿はどこにもなかった。



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