【映画感想文】保険証の裏面、臓器提供意思表示にサインしてみた - 『あさがくるまえに』監督:カテル・キレヴェレ
保険証の裏面に臓器提供意思表示欄があることは知っていた。でも、ずっとサインしてこなかった。いや、サインできなかった。
臓器提供したくないわけではない。もし、自分が万が一の状況に陥ったなら、使える臓器を誰かの命をつなぐべく、ぜひとも役に立ててほしい。
だから、何度も、サインしようとペンを握ってはきた。ただ、最終的には踏ん切りをつけられなくて、けっこうな年月が経ってしまった。
改めて、文面を読むと怖くなるのだ。
なんだか、これにサインをした瞬間、死ぬことに同意するような錯覚に襲われる。死神がやってきて、わたしの命を奪っていくんじゃないか、と。
もちろん、そんなはずはない。ただ、これまで漠然とした不安でしかなかった「死」が、突然、具体的な可能性へと姿を変える気がしてしまう。損害賠償というフレーズの入った契約書を交わすとき、チラリ、訴えられる未来が頭によぎってしまうように。
臓器提供したいと表示するオプトイン方式は同意するものに未来を想像させる。たとえ仮定の話であっても、選ぶという行為は常に責任を伴う以上、そう簡単には決められない。故に、日本における臓器提供意思表示者の割合は以下のような数字なのだろう。
逆に、臓器提供しないことを表示しなければ、自動的に同意したとみなすオプトアウト方式を採用しているフランスでは99.9%の人が承諾していると言われている。
一見すると日本人は他人に冷たく、フランス人は他人に優しいみたいだけれど、当然、そんなわけはない。要するに、みんな、意思表示をしたくないだけ。「死」について考えたくないから、判断を先延ばしにしているのだろう。実際、わたしもそうだった。
でも、友だちに教えてもらった『あさがくるまえに』という映画をAmazonプライムで見て、心を揺さぶられた。
少年が交通事故で脳死判定を受ける。彼の両親は臓器提供を巡り、朝までに判断してほしいと求められる。いまや会話することはできないけれど、息子だったら、どうすることを望むだろう……。
一方、同じ頃、全然違うところで、ある中年女性が生き延びるために心臓移植を希望するかの判断が迫られている。若くない自分がそんなことをしていいのか……。
次のあさがくるまでの二十四時間で、二つの物語が交錯していく。
そんなストーリーの『あさがくるまえに』は本国フランスのベストセラー小説を原作にした映画らしい。
全編、意外なことは起こらない。なにがどうなるか予想もつく。それでも胸に迫るものがあるのは、医療技術が発展した現代においても、「死」は変わらず理不尽であり続けているからなのだろう。
この映画を鑑賞し、新しい発見はなかった。代わりに見て見ぬふりをしてきた問題が自分の中で無視できないほど大きくなってしまった。
保険証を財布から取り出し、テーブルに置いた裏面をじっと眺めながら、ざわつく気持ちと向き合った。
なにもサインすることで死ぬわけじゃないんだと自らに言い聞かせた。だいたい、いつ自分が臓器を提供してもらう側になってもおかしくないじゃないか。ギブアンドテイクの精神がなければ、命のバトンはつながらない。そして、曖昧にしておくと遺された家族が困るだけ。
息を止め、1番に丸をつけ、署名欄にサインした。顔を上げ、窓の外を見た。いつも通り空は青かった。やっぱり、死神は来なかった。
何事もそうだけど、終わってしまえばあっけない。臓器提供する意思はあるのに、なぜ、あれほど意思表示を躊躇っていたのか。たちまち、わからなくなってしまう。
ただ、仮定の話であっても「死」について考えるというのは簡単なことじゃない。『あさがくるまでに』を見て、つくづく思い知らされた。
倫理的な答えは明確だけど、それでも感情的に不合理な発言をしてしまう登場人物たちが愛おしかった。なんだか自分を見ているようでもどかしかった。
臓器提供の意思表示。保険証やマイナンバーカードなど生活の身近なところに重要な問題を考えるきっかけがあるというのは恐ろしく、そして、ありがたい。
サインすることが正解なのかはわからない。しないことが間違いなのかもわからない。たぶん、みんなが自分なりに迷わなくてはいけない。たとえ、答えを出せなかったとしても。
しかし、いつかは決めなくてはならない。それぞれのあさがくるまえに。
マシュマロやっています。
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