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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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あの百合作品もすごい! 2024上半期

原則として2024年上半期に発売された作品を対象とする。

(サムネイルは『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉よりお借りしました)

前回はこっち。




【小説・随筆】


『かなたのif』


『かなたのif』〈村上雅郁〉
(フレーベル館)

――わたしに出会わなければ、きみは生きていた。

「3 幽霊少女は語る」/『かなたのif』〈村上雅郁〉
(フレーベル館)


真にすぐれた構成の、ダイナミックな転換点がつらなる作品はどこを切りとってもネタバレになってしまうもので、『かなたのif』〈村上雅郁〉は語りたい場面が多数あるにもかかわらず、どこまで語ってよいのか迷わせる児童文学だ。
たとえば、今まで話していた友人がすでに死んでいたと明かされることがある。これはホラー作品などでオチとして採用されがちなシチュエーションであり、実際百合好きに人気の児童文庫に該当作があったりする。しかし『かなたのif』でその事実が明かされるのはページ数で1/3をすぎる程度のタイミングであり、相手は幽霊ではなく現に生きているし、死の事実を足がかりにしてさらなる物語が展開されていく。

夢想しがちで元気いっぱいな香奈多と、大人しくて物語が好きな湖子。夏の日の放課後に町外れでであい友だちになった。小説は両者の一人称視点が交互に入れかわるかたちで進行していくが、あらゆる点で矛盾を隠せない。
香奈多視点で湖子とはじめてあったのは中学一年生の今だが、湖子の視点では二年前の小学五年生のときと語られる。
香奈多視点で香奈多は一年B組の生徒だが、おなじく一年B組だという湖子をみたことがない。
香奈多視点で家にこないかという誘いを湖子に断られているにもかかわらず、湖子視点では快諾しバナナケーキをごちそうになっている。

そうするうちに香奈多の視点に叩きつけられる「今井湖子はおととし亡くなった」という指摘。

本作のあらすじはこれだけでも魅力十分だが、物語はここから予想外の方向へ進行していく。本記事では内実に触れることなく、『かなたのif』の良かった点を並列することで語っていきたい。

主役のふたりを結びつけるのは他の何モノでもない意志のチカラだ。誰しもが感じうる「自分のことを愛してくれる誰かがほしい」という孤独感。愛する誰かをうしなったときに感じる「無力感と自責の念」。愛と呼ぶには内向的すぎる感情がふたりの今を交差させる。
喪に服しつづける人間に投げかけられる言葉として「そんな姿をみても死者は喜ばない」という言葉がある。死者の気持ちを生者の都合にあわせて改ざんしていませんか? 生煮えの疑問を『かなたのif』は納得のいくかたちで昇華してみせる。
脇役の佑実は象徴的なキャラクターで、学業に集中できない香奈多の「お世話係」であり、素行をいさめる立場にある。香奈多が彼女の支配に気づく話もそれひとつで小説になりうる題材だ。しかし香奈多ははじめから佑実に不満を抱いており、佑実もそれを察しながら香奈多を気にかけつづけている。香奈多のみならず湖子とも相互作用をかさねながら、佑実はサブヒロインとしてテーマを全うする。『かなたのif』は自分を愛してくれる存在を知る物語であり、不器用な愛の物でもあり、赦しの物語だ。

不躾な話をすると、死別百合の醍醐味とは喪失感とやるせなさ、うしなった人を想う愛情にあると思っている。『かなたのif』でも亡き人への愛がもっとも強い絆だと物語世界に決定づけられており、同時にけっして取りもどすことができないモノとしても描かれる。だからといって本作はバッドエンドで終わらない。作品全体を取りまく独特の哲学によって(児童文学の参考文献に青土社の思想書が載ることあるんだという驚きとともに)、生者が死者の意志によって報われるすがたを描き、生者と死者がともに歩む未来を約束するからだ。

『かなたのif』の題材は目新しいものではないし、本記事で以後紹介する作品にも似たような物語が多数ある。しかし本作独自の視点によって、類似するすべての物語の見方が変わるような、思考に根ざす読書体験ができた。
そうしたこともあり、非常におすすめしたい児童文学になる。





『貴女。 百合小説アンソロジー』


『貴女。 百合小説アンソロジー』
(実業之日本社)


『貴女。 百合小説アンソロジー』は実業之日本社から出版され、ミステリ作家が中心となって書き下ろしている百合小説アンソロジーの第二弾。
前作『彼女。 百合小説アンソロジー』では斜線堂有紀の短編「百合である値打ちもない」が屈指の傑作であり、「あの百合作品もすごい! 2022」ではその一作品にしぼって紹介したが、今回の『貴女。』は篇数もすくなく全編をとおしてバランスのとれた構成であったため、掲載順で短評をならべていく。


恋愛至上主義のような考え方が結構苦手」「恋愛感情よりも濃い友情を書きたいという欲求が強いんです」など、複数のインタビューで友情を重視する思想をみせた武田綾乃は自他ともにみとめる友情百合の書き手であり、異性との恋愛は書くものの同性との恋愛を明記しない氏はたびたび非難をあびせられてきた。ところが『貴女。』に掲載された「恋をした私は」〈武田綾乃〉では女性から女性への恋愛感情や性愛が明記される。
父親が不倫相手と結婚したいと言いだしバラバラになった主人公の家庭。興味本位で会いにいった不倫相手の蠱惑にほだされ主人公は恋をする。
武田綾乃のオリジナル短編は女性どうしのマイナス方向へ重い感情が書かれることが多く、前作『彼女。 百合小説アンソロジー』収録の「馬鹿者の恋」も例に漏れず、手遅れになってしまった女性から女性への感情がしたためられていた。しかし本作「恋をした私は」では女性どうしの関係が(黒い感情ではあるものの)マイナス方向へ振りきれることはなく、氏としては意外な方向へ矛先が向けられる。そこには女性どうしの恋愛関係を成就させようとする氏の思惑が感じられなくもない(それはそれとして手なりで失恋も織りこんでいる)。
武田綾乃はアニメ化が発表された作画担当・むっしゅとのマンガ作品『花は咲く、修羅の如く』でも女主人公から女先輩への想いを描いており、極端に純化された友情や尊敬・依存、あるいは性愛をともなわない恋愛感情を思わせるそれは、幼気な告白とともに先輩へ伝えられ、主人公にとって重要な感情になっている。
もともと境界線上を行き来することも多かったが、友情という土台で複雑な女性どうしの絆を描いてきた武田綾乃が、今後純粋(?)な恋愛感情と向きあうなかでどのような物語を紡ぐのか。注目していきたい。

「雪の花」〈円居挽〉は本アンソロジーのなかでもひときわミステリチックでフェミニズム・シスターフッドの系列に属する作品だ。
「お前が男だったらなあ」。いままで父親に人生支配されつづけてきた主人公の堰が切られ、父親の身体が急斜面をころがり落ちる。限界を迎えた女性たちを助けているという通行人の女性は主人公の経緯を傾聴し、アリバイ工作を企てるようそそのかす。
雪花を名乗る女性がもとめた対価は特殊で、女性たちの反権力的連帯を象徴するようでもある。アリバイ工作という切り口や、その後の経過に至るまでミステリとしての醍醐味が凝縮されており、ミステリ作家を目的として手にとった読者や、フェミニズム・シスターフッドを求めている読者など、本アンソロジーの射程のひろさを表す作品といえる。

もとから女性どうしの関係性に注目したアンソロジーながらに「いいよ。」〈織守きょうや〉は紅一点と称したくなる。
成績優秀でギャルの主人公。入学後初の中間考査で一位を逃すが、首席をいただいた少女にひとめぼれしてしまう。まるでお姫様のような姿でありながら、そっけなくさっぱりとした受け応えをする彼女。男性人気が高いもののその気がない彼女に対し、主人公は自分と恋人になればいいと提案する。
はじめは特別仲がいい友達のつもりだった。恋心がわからないと言いつつも恋人ごっこに付き合ってくれる彼女は基本受け身だが、主人公を拒むことはない。しかし彼女に顔を撫でられたことでうまれた高揚感が、主人公だけを恋路に責めたてていく。
まるで少女マンガのように甘酸っぱい恋模様は、ミステリ作家たちが集った短編集には場違いに思えるかもしれない。だが多様性をうたう百合小説アンソロジーを編纂するのであれば、まずここから始めなければならなかった。近年、ライトノベル業界が口をそろえて言うことばがある。百合ラブコメの躍進だ。ノンファンタジー、現代、学生かつラブ・コメディ。百合マンガでも人気の題材がそのままライトノベル業界でも流行りをみせている。「流行っている」とは暗に「今までなかった」という意味であり、2020年代に突入するまでライトノベルの百合作品といえば、ファンタジーかつバディだったり、SFが中心だった(詳しくは夏鎖芽羽氏が2023年冬コミで頒布した『ライトノベルにおける百合の考察本』を参照のこと)。
長期シリーズでときたま短編集が出版されることがあるとはいえ、ライトノベル業界で複数作家が参加した短編集が出されることは基本ない。すなわち、商業において百合ラブコメ短編小説は不毛の地と言える。そうした背景を鑑み、需要と供給、あるいはバラエティを考慮すると、百合小説アンソロジーに百合ラブコメ短編小説を投入する試みは道理にかなっている。

「最前」〈木爾チレン〉は、うだつの上がらないままエゴサだけがやめられない地下アイドルと、そのアイドルを追いつづけてきた女性の物語。
互いに表現者であり互いに影響を受けつづけている構図は、「あの百合作品もすごい! 2023下半期」で取りあげた『神に愛されていた』〈木爾チレン〉を思い出させてくれる。基本的な骨子はそのままに短編にしたかのような「最前」はサスペンスだった『神に愛されていた』とは違い、あくまでも女性ふたりの感情を結びつける方向へ導かれていく。
著者や編者の意図は不明だが、「最前」が凄惨な終わりかたを選ばなかったことでアンソロジー全体の雰囲気に統制がもたらされたように思える。武田綾乃が「恋した私は」で行ったことと似通う部分がある。

「首師」〈青崎有吾〉は本アンソロジーで唯一過去の時代、戦国時代を舞台にした短編。
戦乱の世に偽物の首をつくる職人がいた。戦功、人質、けじめ。さまざまな理由で生首が証明に使われる。ともすればそれを偽造する職人がいるのは当然ということらしい。本人の身の上やその敵陣営から"現場"を想像し、土くれから信ぴょう性のある死に様をでっちあげる。
主人公は若い女性ながらに名の知れた「首師」であり、骸の醜さを執拗に追いもとめている。それでいて今回の依頼の、天女のように美しい姫の死に顔が想像できない。
変則的な舞台設定ながら、短編「首師」は百合作品としてのツボを外していない。美しさは偽り、醜さこそが真実と盲信する主人公が、浮世離れしたヒロインの美貌のまえに苦戦する。それは呆れか崇敬か。主人公手ずからの首を看破した過去すらもつヒロインに気圧され、彼女の死にざまを想像できなくなっていく。彼女を生かすためには、彼女を心のなかで殺すしかない。職人としてプライドと板ばさみになるなかで、主人公がとった決断とは。
青崎有吾はTVアニメ化もされた著書『アンデッドガール・マーダーファルス』で生首の吸血鬼探偵とメイドの主従を書いた。本作「首師」はそれのセルフオマージュともいえる。

「最高まで行く」〈斜線堂有紀〉でまたしても斜線堂有紀の百合短編にひれ伏すことになった。本人の短編集や各地の百合小説アンソロジー、あるいはpixiv小説に有料noteなど、百合短編が散逸する斜線堂有紀。一貫して暗いトーンの語りを得意とする氏だが、本作はうってかわってコミカルなトーンの語り口となる。軽快を通りこして軽薄にまで至ろうとするその主人公の独白は、陰キャの自己弁護が繰りかえされるガールズラブコメライトノベル『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』〈みかみてれん〉を彷彿とさせる。
先輩が記憶喪失になった。新入生のころから面倒を見てくれた先輩の窮地に、主人公はカスの嘘をつく。わたしと先輩は恋人同士! 半同棲中なんです! 歯ブラシ一本足らずで瓦解する虚構は、思わぬ方向に進展していく。
面倒見がよく、正義感がつよく、笑顔のきれいな先輩。主人公の身に余っていた先輩は、記憶喪失によってまったくの別人になってしまう。はからずとも今までの先輩が自分の前で無理していたことを知る主人公。変わらないのは相互の恋情がないことだけ。それでも先輩がどんな人間になっても愛しつづけると誓う。そこまで主人公が先輩に入れこむ理由とは、先輩が記憶喪失になった事件の真相とは? 天地がひっくり返るような展開に、わたしたちは息を呑む。
「あの百合作品もすごい!」でなんども取りあげたように、斜線堂有紀の百合短編はどれもが傑作の域にある。思うに、氏の百合短編集が刊行されてないのは世の損失ではなかろうか?


今までの商業百合小説アンソロジーは、頭数をそろえすぎて均整に欠いたり、技巧に凝るあまりに「女性たちの関係性」から離れていってしまったり、多様性をうたいながらも純粋なガールズラブ短編小説というマイノリティを見過ごしてしまったりと、芳しくない評価を賜ることが多かった。

そうした観点から見ると、現代/恋愛重視、ハッピーエンド傾向の(すくなくとも完全なバッドエンドがない)少数精鋭という『貴女。 百合小説アンソロジー』の采配は需要を理解したものだったといえる。
テーマに被りはなく、それぞれの作家の持ち味が活かされ、それでいて「女性ふたりの関係性」から離れることはなく、情熱に満ちた短編たち。多種多様な感情をそろえながらも、そのすべてが「貴女」へ流れていく。掲載順までメリハリの利いた『貴女。 百合小説アンソロジー』は、百合小説アンソロジーの決定版として、胸を張って百合好きに勧められる一冊である。




『現代思想2024年6月号 特集=〈友情〉の現在』


『現代思想2024年6月号 特集=〈友情〉の現在』(青土社)

女性同士の、恋愛にだけ収斂されるわけではない、既存の制度からはみ出したさまざまな親密性を描くという点では、百合漫画というジャンルはある程度成功している部分もあります。恋愛や性愛といった既存の枠組みから離れて強度の高い親密性を考えるうえで、このラディカルさにあらためて注目してみるのも良いのかもしれません。

「すべてを「友情」と呼ぶ前に 名づけえないいくつもの関係」〈中村香住・西井開〉
/『現代思想2024年6月号 特集=〈友情〉の現在』(青土社)


エッセイ集は作品なのか? っていうかそもそも百合じゃなくない? そうした疑問点を払拭するほど参照価値のある一冊だったので取りあげたい。

そもそも友情とはなんだろう。友情に関する議論や思想は紀元前から蓄積されているものの、いまだ全貌を掴みきれていない。恋愛と友情は排他的にカテゴライズされているが、本当に排他なものなのだろうか? 恋愛にも「友情かつ恋愛関係」と「友情ではない恋愛関係」があるのでは? お見合い結婚が多数派だった時代に、相互理解が不完全で性的な欲求もない夫婦は後者にあたるかも知れないし、お互いを試し吟味しあうような自由恋愛もそうだ。
友情を退ける方向で恋愛をとらえているが、逆に友情が恋愛を退けている関係性はないか。たとえばお互いキスすることもときめくこともなく、肉親でもないが、お互い相手のために自分を捧げる覚悟でいる、密接で持続した関係は「親友」と呼ばれる。だがわたしたちが恋愛を儀式的・性愛規範的にみているせいで、友情の範疇に無理やり押しこまれているだけなのではないか。

友情の定義がままならない現代で、友情について論じるということは、すなわち人間関係について論じるということになる。『現代思想2024年6月号 特集=〈友情〉の現在』では友情論のみならず、求めすぎて離れていってしまった女友達への告解、ポリアモリー関係に組み入れられることによって出会った女性たちや、お互いを牽制しあうママ友会話の分析に至るまで、多種多様な女性どうしの関係性が論じられている。

今後なんども読み返しそうな著作なので、以下に女性どうしの関係性を論じた章や関連する章を少しだけピックアップしておく。


「すべてを「友情」と呼ぶ前に 名づけえないいくつもの関係」〈中村香住・西井開〉ではレズビアンを公表している社会学者と非モテ男性グループの研究者の対談で、幅広い分野を渉猟するような談義が展開されている。「友情」が雑多な関係性を押しこめるための「残余カテゴリー」としてあつかわれていることに疑問を呈し、社会から価値も害もないものとして貶められているのではと危惧する。レズビアンとしての体験が語られる部分もあり、談義が移りかわっていく先でも、多種多様な人間との関わりあいを通じた意見がうかがえる。
章の最後では、フレンドシップとセクシュアリティの連続性を確認したうえで、男性どうしよりも密接な(と思われているが、近年は違うと補足しながら)シスターフッドに目を向けられる。冒頭に引用したように、百合漫画の特異性や参照可能性に言及したうえで、恋愛が透明化されているのではないかと懸念を示しつつも、章が締められる。

「残余カテゴリー」という概念は興味深い。本記事で後述する『わんだふるぷりきゅあ!』〈東映アニメーション〉でも人間に救われたペットの側から「友達」という言葉が使われるが、ここに感じた違和感を該当項目で書いた。

「友人関係と共同的親密性 「友人関係は結婚を代替し得るか」という奇妙な問いをめぐって」〈久保田裕之〉では、恋愛・結婚・家族を専門にしてきた社会学者が、さまざまな先行研究を参照しながら、結婚制度の変遷と連動する恋愛関係に並列して、友情関係や友情的な家族関係の推移についても考察してみせる。
結婚制度の自由化・合理化にともない恋愛市場の競争が加速。それによって友人関係が受け口として期待されるが、非制度的なつながりは一方的に関係を切断されるリスクがある。
またさらなる受け口として母親の割合が上がっているが、これもまた円満な家庭だけではないというリスクを内包している(『現代思想』と同じ時期に出版された『娘が母を殺すには?』〈三宅香帆〉も示唆に富むエッセイで、娘と母の関係が深いあまりに母親の価値観を娘が内面化してしまい、苦悩のすえに母親の価値観から脱却することを「母殺し」と喩えた)。
こうした背景を確認したうえで、友人関係が結婚を代替し得るための条件として、諍いやすれ違いによって直ちに関係を切断できない拘束力のある制度を想定する。

制度が恋愛・友情の概念を左右するという観点はおもしろい。
拘束力のある友人関係については、百合作品の姉妹制度を連想する。
おなじく上半期に刊行された女学校ミステリ小説『セント・アグネスの純心 花姉妹の事件簿』〈宮田眞砂〉の主人公は入学時に先輩と花姉妹として同居すること義務づけられる。最初はせせこましい態度を取っていたものの、先輩の人となりを知ったことで、周囲から褒めそやされるほどの仲になる。
そのほかにも上記であげた『貴女。 百合小説アンソロジー』収録の「最高まで行く」〈斜線堂有紀〉でもおなじ専攻の先輩と後輩をひもづける指導方針が打ちたてられている。こうした物語では、主人公と副主人公を結びつけるため直ちに関係を切断できない状況に置くことは常套手段と言ってよい(たとえば両親の再婚など)。

フランスの制度「PACS」はもともと同性愛者のために設けられたゆるい共同体制度だったが、結婚制度も同性に対応するなかで、異性・同性どうしにかかわらず結婚制度とPACSで人口を折半するようなかたちになっている。フランス在住者の肌感覚を調査したうえで、PACSがまた次の受け口を探すような状態になってないか考慮する必要もあるだろう。

「位置情報を交換する若者たち」〈鈴木亜矢子〉では、題のとおり互いの位置情報をアプリで共有する若者たちにせまる。ほかのSNSとは違い、位置情報共有アプリの関係性はせまく、密接であり、信頼の証として位置情報を明けわたすこともあれば、ライフスタイルの変化にあわせて生活圏が合わなくなった地元の友達とのつながりを保つためにも使われるという。文中では2022年の若者たちに直接インタビューした内容が語られる。

百合作品では(男性にくらべて/一意とは言えないものの)コミュニケーション能力に長けた少女たちの関係に注目するため、作品内にコミュニケーションツールが登場することが多い。時代によって手紙だったり電話だったりSNSだったりするそれは、登場数のあまり作品ごとの媒体の違い(LINEなりインスタなり)まで統計比較できそうな勢いだ。しかしGPSはともかく位置情報共有アプリを使っている百合作品は寡聞にしてみたことがない。そのため、今までにない少女たちの関係性を考えるにあたって参考になるだろう。

「ロマンチック・フレンドシップ・シンドローム」〈ひらりさ〉はオタク文化やBL文化など幅広いカルチャーを追う氏の、女性どうしの友人体験がしたためられた純エッセイ。友人関係にもモノアモリー(モノガミー)とポリアモリーがあるのではと思索し、モノアモリーな友情を強いた自身の失敗談が語られていく。

きわめてプライベートな体験談がならべられていくので、個人的な言及は避けたい。かの破局百合エッセイ集『女友だちの賞味期限 〈実話集〉』〈ジェニー・オフィル / エリッサ・シャッペル〉にも似た読了感がある。

「ママ友は「仲良く」ケンカする」〈大塚生子〉は本エッセイ集のなかでもっとも刺激があった章だ。子どもを介した人間関係であり、本人のみならず子どもの社会的地位にも直結する「ママ友」の特殊性に着目し、ママ友間の諍いに用いられる話術を、実際のSMSの履歴をつうじて談話分析していく。
関西弁と標準語の使いわけのタイミング、被害者意識の表明と責任の所在のコントロール、感嘆詞や記号あるいはくだけた口調によるクッション、問題を起こした子どもと責任者の距離あるいは認知能力の違いによるミスディレクション、教師という第三者への委託をチラつかせた圧力、問題の軽重の再定義など、みじかい会話のなかで行使されたテクニックは枚挙にいとまがない。
綿密な分析を終えたのちに友情についての考察を概観し、ママ友関係が自律的に選択できず解消もほぼ不可能であることを指摘しつつも、友情の多様性をそらんじたうえで章が終えられる(「友人関係と共同的親密性 「友人関係は結婚を代替し得るか」という奇妙な問いをめぐって」で検討した懸念がここにはある)。

いわゆるレディコミといわれるジャンルのママ友モノも、物好きに百合として読まれることがある。代表的な作品は『おちたらおわり』〈すえのぶけいこ〉や現在連載中の『だってワタシ、120点だもの。』〈本尾みゆき〉などだろうか。ママ友という括りを除いても、近年は女性どうしのギスギスがポピュラーな娯楽として愉しまれている風潮があり、この談話分析には参考になる点がいくつもある。


『現代思想2024年6月号 特集=〈友情〉の現在』にはこれ以外にも多数の友情が論じられている。百合に関連する言説も少なくない。
もし興味を持ったのであれば必携といえる。必ず糧になるはずだ。



2021年9月号は恋愛特集で、こちらも評価が高い。




【ボイスドラマ・朗読劇】


『Baby Blue -おとなの制服デート-』
(2023年の補遺)


「幼い」なんて、きみは言わないでいてくれますか?

【百合体験】Baby Blue -おとなの制服デート-【CV:稗田寧々】』〈SukeraSono〉


『【百合体験】Baby Blue -おとなの制服デート-【CV:稗田寧々】』〈SukeraSono〉は2023年12月末にリリースされたバイノーラルボイスドラマ。
人間の頭部を模したダミーヘッドマイクを使用し、主人公=聞き手としてキャラクターに語りかけられる没入型の音声作品となっている。
百合好きのみならずマニアな音楽好きから高い評価を受け、「あの百合作品もすごい! 2022」で大々的に取りあげた『【終末百合音声】イルミラージュ・ソーダ 〜終わる世界と夏の夢〜【CV:奥野香耶】』〈SukeraSono〉から一年半、脚本・淡乃晶/サウンドアート・北島とわのコンビが再集結して制作されており、ボイスドラマの領域を超えた唯一無二の世界観を体験できる。

SukeraSonoが制作している「百合体験」シリーズはもともと百合ジャンルのスタンダードである「現代日本(ノンファンタジー)」「高校生~大学生~新社会人」といった要素をめったに外していない。現代日本にすむ同年代あるいは学生と社会人の作品が多く、ときたまタイムリープなどのファンタジー要素がスパイスとしてあるとはいえ、基本には現代的なガールズラブが中心となっている。
そういった前提があることで、いつもとは違うスタッフによって作られた『イルミラージュ・ソーダ』の異色さが際立つのだが、だからといって『Baby Blue』が平時のSukeraSono作品とおなじというわけでもない。

『Baby Blue』のキャラクターたちは従来のSukeraSono作品の年齢層(15~24)からするとやや高い。語り手となる「早乙女朱花」(CV:稗田寧々)は25歳で、聞き手の年齢は27歳だ。そのふたりが制服姿でプリクラを撮りに行く……というとほんわかした雰囲気があり、それはけっして間違いではない。しかし日常の細部には過去と現在をくらべて割りきるような情があり、諦観を滲ませつつも前向きに楽しもうとする人生観も聞きとれる。
幸福を噛みしめるような日常も後半に差しかかり、プリクラを撮りおえたふたりの会話は変遷していく。社会人ではなく学生時代に出会っていたら違うグループだったのではないか、そのころは女の子が好きだと気づいていなかった、お母さんに付き合ってること話したよ、今度は制服じゃなくてウェディングドレスがいい……。『Baby Blue』は今までのSukeraSonoではあまり描かれなかった、現実社会のなかの同性愛に切りこんでいく。

現代の日本において、LGBTQ+を取りまく環境は是正途上と言ってもよい。同性婚が法整備されてないのは違憲とされつつも見直しは遅々として進まず、異性愛者やシスジェンダーの人間のように日常空間で大手をふって歩けるとはいまだ言いがたい。
ライフネット生命が2023年11月に発表した「第3回LGBTQ当事者の意識調査」によると、当事者が親へカミングアウトしている割合は27.9%にとどまる。2019年は26.9%、2016年は22.0%とあり、とてもではないが順調と呼べる進捗ではない。職場や学校でのカミングアウトは義務ではなく、個人の性的指向を詮索しない方向へ変わってきていることを留意したいが、こちらは2019年より3.7%もダウンして2023年には28.1%となっている。

わたしたちが一概に「恋」という概念に焦がれるとき、往々にしてそれは若い時分の恋愛を指している。(恋愛)百合と呼ばれる作品群のほとんどは学生恋愛か、あるいは20代前半による若者たちの色恋沙汰であり、20代後半はまだあるほうだが、30代以降となると市場の中心から遠くはなれた位置に来てしまう。
もちろん、学生恋愛が華だからといって、現実に生きる(生きていた)すべての若者たちが恋を成就させるわけではない。だが学生時代に自身の性的指向・性自認に気づき、公表するかされるリスクを踏まえたうえで、好みの相手と付きあえるマイノリティ当事者がどれほどいるのだろうか。当時は周囲の目を気にして言いだすことができなかったが、10年20年と年月が経つにつれ、ようやく当時の願望を自覚し口に出すことができる。現に今の日本を生きる結婚願望のあるマイノリティにとって、その夢が叶えられるのは最悪の場合、10年20年先を覚悟しなければならない。

本編発売にさきだって公開されたティザーPVには、そうしたテーマが凝縮されている。

『Baby Blue』にはオープニングと呼べるトラックがふたつあり、上記のティザーPVのみならず、製品版の冒頭トラックも似たような造りになっている。作品のあらすじを語るようなティザーPVから一転して、冒頭トラックは叙情豊かなポエトリーが中心となっており、それでいて明確なメッセージがうかがえる。

[連れてって] 今日の私 [どこか遠くへ]
        明日の私 [振りきって]
  [現実を] 昨日の私
        同じだけど、少し違う

「01_第0話:メディテーショナル・モノローグ」
/『【百合体験】Baby Blue -おとなの制服デート-【CV:稗田寧々】』
〈SukeraSono〉

本作の概念的なテーマは「(不可逆的な)時間」だ。ティザーPVの最後に、イラストが印刷された円盤が回転するだけの映像が映しだされるのも印象的だが、もっとも注目すべきは周期的なピアノ音だろう。製品版の冒頭トラックでも残響する鐘のような音や、波のような音によって周期が表現されている。
音楽をとおした時間表現を考えるとき、わたしたちはクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』を思いださずにはいられない。劇中で訪れる水の惑星では、1時間に7年ものスピードで年月が経過する。地球に残してきた家族との時間のズレを恐れる主人公の心情を表現するため、劇伴の「Mountains」では1.25秒に1拍、地球の1日が経過したことをあらわす音が鳴っている。

10代のそのときにはまだ理解が進んでいなかった。20代30代になり、周りが結婚・出産と社会に規定されたライフステージを刻んでいくなか、自分たちだけが取り残されていく。過渡期に生まれたマイノリティたちは時間の残酷さを、過去を取り戻せないことを否が応でも意識させられる。
「"幼い"なんて、きみは言わないでいてくれますか?」「"もっと早く出会えてたら"なんて思うときもあるけど、それはちょっと贅沢だったりするのかな」。『Baby Blue』の題は、社会に認められた大人になれないマイノリティたち(Baby)の悲哀(Blue)とも読むことができる。

しかし本作の雰囲気はけっして陰鬱なものではない。そもそも本記事が暗い側面をやたらと拡大解釈してしゃべり倒しているだけで、作品内の語り手となる早乙女朱花は底ぬけに陽気で、過去よりもよい今を謳歌することに積極的だからだ。

「…… ん?なに?腕を広げて… 。え、あ、だっこ?ふふふっ」
「はいはい。困った赤ちゃんだねえ。ぎゅーしようね、ぎゅー」

(中略)

「ね!青春ふたたび…いや、今だからできる青春だね」
「当日は遅れないできてくださいよ?せんぱいっ」

「02_第一話:スロウ・アフター」
/『【百合体験】Baby Blue -おとなの制服デート-【CV:稗田寧々】』
〈SukeraSono〉

弛緩した雰囲気は声優・稗田寧々の演技によるところが大きい。「本当に素の地声に近いところで演じさせていただいた」と本人が語るように、家族と駄弁るような飾りっ気のない口調と、わざとらしくおどけてみせるような演技臭くない演技(早乙女朱花がみせた演技であり、声優が演じているようには聞こえない声色)が、親しい人間と話しているのだと実感させてくれる。

制服デートを盛りあげるため同棲しているにもかかわらず待ち合わせ場所を指定し、雑貨屋で学生らしいアクセサリーと耳付きカチューシャを買い、プリクラで頬にキスしている写真を撮ってしまって照れる。
幸福に満ちた日常のなかで、ところどころに早乙女朱花の本心や思考がこぼれることがある。「この時間がなくなったらどうしよう」「今だからできる」「今でも十分幸せだけど、より良く」。彼女はいつかできるようになる結婚だけでなく、100年先の未来まで見通しており、そのための一歩として今できること、すなわち制服デートや母親へのカミングアウトがある。

彼女たちにとって同性の恋人と付きあったり、その恋人と制服デートをすることは「今だからできる」ことで「昔でもできた」ことではない。本当にすこしずつだが、日々同性愛に対する社会の目が是性されるにつれ、できることが増えていく。彼女たちにとってこれからの未来その時々がもっとも選択肢にあふれた状態であり、その選択肢を取るにあたってもっとも若々しい時期になる。

「幾つになっても、あたらしく」。
「Baby Blue」とは新生児の色であり、若々しい青春の象徴だ。



(以前聴いたことがあるバイノーラル音声作品で、特定のマイノリティに対する承認を与えるような音声作品があった。偶然わたしは特定のマイノリティに該当していたのだが、かなり胸のすく感覚がしたことを覚えている。バイノーラル音声作品をとおした精神療法について文献を見つけることができなかったが、類似研究がなされているVR機器のように、ダミーヘッドマイクの没入感にある種の効用があるのかもしれない。ちなみに演劇体験を活かしたセラピーとして「ドラマセラピー」なるものがあるらしい)

(ところで、『Baby Blue』には購入者特典として台本が同梱されており、そのなかには聴者側キャラクターのセリフも記入されている。基本的には早乙女朱花と交互に会話するような受け答えになっているのだが、朱花が「ともちゃん」という人物を口に出したときだけセリフがない。しかも思わせぶりな効果音まで入っている。どうやら聴者側キャラクターにとって思うところがあったようだ)


美少女に首輪をつけられペットとして飼われる……オタクの出汁を継ぎたし煮こんだようなネクストナンバー、『花様年華 -少女に飼われるペットな私-』〈SukeraSono〉もよくまとまっていた。
こちらは北島とわが音響を担当していないため独特の音響表現はないものの、『イルミラージュ・ソーダ』にみられたような退廃的な淡乃晶シナリオが楽しめる。

音声作品として興味深いところは、聞き手がとある理由で喋れない世捨て人ということで、少女からあたらしい名前を授けられる点だろう。こうした主人公=聞き手とする没入型音声作品の場合、二人称の選択によって没入具合がかわってくるが、少女から「あめ」と名付けられる体験が思いのほかぐっときた。
たぶん「Noname」だから「ame」なんだと思います。湯婆婆方式。



『キミに贈る朗読会『春とみどり』』


『キミに贈る朗読会『春とみどり』』
〈脚本・演出:淡乃晶 / 原作:深海紺〉
(M-SMILE)


『キミに贈る朗読会『春とみどり』』〈脚本・演出:淡乃晶 / 原作:深海紺〉は、2020年に完結したマンガ『春とみどり』〈深海紺〉の朗読劇。
公演はそれぞれ昼夜2部構成、日ごとに演者(声優)を入れかえての2日間で行われ、後日アーカイブ放送がネットで期間限定配信されたものを視聴した(現在は未公開)。

脚本・演出の淡乃晶は音声作品の脚本だけでなく、朗読劇作家としても精力的に活躍しており、多数のオリジナルのほかに、既存百合マンガの朗読劇化は『さよならローズガーデン』〈毒田ペパ子〉につづいて2作目になる。
淡乃晶の制作物にかならずしもサウンドアーティスト・北島とわが伴うわけではないが、『キミに贈る朗読会『春とみどり』』でも淡乃晶と北島とわのタッグが集結し、本記事で紹介した『【百合体験】Baby Blue -おとなの制服デート-【CV:稗田寧々】』〈SukeraSono〉と似たような表現が指向されている。
ただし朗読劇であるため今回は視覚要素が追加されており、(一般的な朗読劇をあまり見たことがないので強くは言えないが)統制のとれた演者の動作はもちろん、極端に光量のしぼられた舞台と二色の照明など「劇」として毛色が豊かである。これに関しては後述する。


原作コミック『春とみどり』は非常にプラトニックな関係性を描いた作品だ。
主人公・雪平みどりは人付きあいが苦手なまま31歳になってしまった社会人で、家事や自炊も得意ではない。中学生のころ唯一の友達だった橘つぐみに今なお特別な感情を抱いているが、その関係は中学の卒業式につぐみが行方をくらませてから途絶えたままだった。31歳の今、つぐみが死んだという報せを受け、葬儀場で中学生のころの彼女にそっくりな少女と出会う。
彼女はつぐみが17のときに産んだ実の娘で、名を橘春子というが、ダサいのでハルと呼んでほしいらしい。
中学生のあのときに複雑な感情をもつみどりは、葬式中にもかかわらず嘲りをうけるハルを見かね、わたしと一緒に住まないかと口走ってしまう。

死者によって結びつけられたふたりは、死者を経由した関係性しか育むことができない。
亡くなったつぐみへの向きあい方は正反対だ。
みどりはつぐみとの思い出を大切にするあまり、つぐみとの空白期間や、つぐみにしたこと、できなかったことを満たすためにハルを利用し、思い出を保持しようとする。
対してハルはもともと家を空けがちだった母親の死を実感できず、母親との思い出を忌避して葬りさろうとする。それによってみずからの喪失感とも向きあうことができないまま、母親の記憶に戒められているともいえる。
亡くなった親友の娘と、亡くなった母親の親友という関係は同居するには迂遠すぎ、ふたりは自分たちの関係におさまりの悪さを感じる。これは授業参観や、特殊な家庭環境を詮索しようとするハルのクラスメイトによって顕在化されていく。

「第10話」
/『春とみどり(3) (メテオCOMICS)』〈深海紺〉
(フレックスコミックス)

ふたりの距離感(作中では「居場所」というキーワードで言及されており、みどりはつぐみに与えられた居場所に留まりつづけたまま、つぐみの位置にハルをあてがおうとしている。ハルはその居場所に落ちつかなさを感じている)、死者の記憶、不自然な関係性という3つのテーマはそれぞれ密接に関わりあっている。
物事は端々の積みかさねによって氷解していくが、もっとも重要なのは、死者に入れこむみどりのすがたにハルが感化され、母親の記憶と向きあい、みどりと母親の関係を知ることにある。みどりばかりが背負いこんでいた中学生のころのつぐみとその贖罪を、ハルも抱え、赦すことによってはじめて「亡くなった親友の娘と、亡くなった母親の親友」ではなく、対等な「ハルとみどり」になれる。そうすることでふたりは第三者からあてはめられる関係性ではなく、誰かの親友や娘という肩書でもなく、ふたりだけの(あるいは3人の)名前のつけられない関係性をはじめることができる。


以上の物語を朗読劇で表現にするにあたってもっとも象徴的だったのが、演者たちの台本を捨てさる演出だろう。『キミに贈る朗読会『春とみどり』』では台本として長方形の紙をかさねて抱えており、一定の区切りごとに演者全員がタイミングをあわせて紙を捨てていく。これは淡乃晶のほか朗読・舞台でも取りいれられている表現だが、『春とみどり』の作品テーマにあった読解ができる。

 そういってハルちゃんは、私の頭になにか紙のようなものを押しつけた。それはヒラヒラと舞う桜のように、私の手のなかに収まって、それが手紙だとわかる。

『キミに贈る朗読会『春とみどり』』
〈脚本・演出:淡乃晶 / 原作:深海紺〉(M-SMILE)

『春とみどり』は死者への想いを整理していく物語だ。死者によって結びつけられた関係を脱ぎさり、何者でもない関係になることを祝福する物語でもある。朗読が進むたびに一枚ずつ捨てられていく紙片は死者への想いそのものを象徴する。さりとて死者を完全に忘れさる物語でもない。拭いさられた紙は床へと散りつもり、関係性をむすぶ礎になっていく。
死者と向きあう行為は痛みをともなうこともあり、紙がかさぶたを剥がしているように見えることもある。
『春とみどり』はその名のとおり、桜の花びらをつかった描写が頻出するマンガだ。紙片を桜の花びらにたとえた独白は、マンガ作品を朗読するにあたって書きくわえられた地の文であり、意図的に取りいれられたモチーフであることがわかる。

また、音楽/ノイズ面を担当するのが声と音の調和をめざす北島とわということもあり、紙をめくるとき、紙が地面に接するときの音もサウンドの一部として設計されている可能性も考慮できる。
劇となった今作でも北島とわの音響世界は健在で、声どうしが鳴りひびくようなオープニングはもちろん、作中人物の精神的な昏倒を長めのアンビエントトラックで表現したりと、照明との相互作用をふくめ、朗読劇独自のニュアンスを十全に表現している。
面白いのは、演者のブレス(息継ぎ)を印象深く強調しているところで、「すぅ―――っ」という長めの歯擦音は、過去を振りかえることが多いキャラクターたちの意識のフェードのようでもあり、春風のようでもあった。

原作の白んだタッチから一転、アンビエントと暗い照明によって微睡むような雰囲気を醸しだす『キミに贈る朗読会『春とみどり』』だが、演者の立ち位置やライティングにも注目すべき点がある(とは言うが、実のところおぼろげな記憶で書いているので勝手に記憶をねじ曲げているの可能性がある)。

演者は三人おり、左側から雪平みどり役、橘つぐみ役、橘春子役と並んでいるが、真ん中に挟まれたつぐみ役は一歩奥で座り、かつ二者と対比されるような補色で照らされていることが多い。光量はごくわずかでうっすらと見える程度にしかなく、住む世界が違うことを嫌でも意識させられる。
また、みどり役と春子役は離れて立っており、ほとんどステージの左端と右端に位置するといってもよい。そしてお互いに身体を向けあうことなく、正面か、やや斜めに背中を見せあうようなかたちで朗読している。つぐみ役によってふたりの間に隔たりが生じ、お互いが正面から見据えられてないことをうかがわせる。

劇終盤、つぐみ役だけにスポットが当てられ、つぐみがみどりへ宛てた手紙をが読み上げられる(物語的にはみどりが読んでいる状態)。それは最後の記憶の整理であり、読み上げが終わるとともにつぐみ役がステージ脇から退場する。
ほどなくしてみどり役と春子役にスポットライトが戻り、中央で互いに身を向けあった状態で朗読を行う。これはちょうどエピローグにあたる、みどりとハルがつぐみを介さない関係になった状態での出来事であり、ふたりの間に隔たりがなくなったことを表している。
たぶん……そんな感じだったと思います(期間限定ゆえ確認不可能)。

マンガの朗読劇化とは面白いもので、まず朗読するまえに一度小説のようなかたちに書きかえる作業が入る。原作にはなかった地の文が書き増されるなかで、序盤から達観した雰囲気で内心があまりうかがえなかったハルの内心が深堀りされていた。
みどりによるつぐみとハルの同一視もあり、原作はどちらかというとつぐみとハルが不可分なかたちで読めてしまう。読者視点からすると、つぐみとハルが違う人物のように見えず、生まれ変わりかなにかのように感じられる。これは31歳になったつぐみの顔が徹底して描かれないことも原因のひとつだろう。
『キミに贈る朗読会『春とみどり』』では、つぐみ役とハル役がそれぞれ個別の声優によって演じられており、またみどり役やハル役と違って、つぐみ役は声量が大きく、明るい声の出し方をしていた(これはあくまで1日目アーカイブでの感想)。さきほど述べた内心の掘り下げもそうだが、あくまでつぐみとハルを別々の人間として扱っている。これはひょっとすると、ほかのどの要素よりも、印象に影響を与えていたかもしれない。


以上のように、『キミに贈る朗読会『春とみどり』』はボイスドラマやアニメとは違ったメディアミックスとして独自の表現を発揮していたといえる。
惜しむらくはやはり期間限定ということで、現在では観劇・視聴する方法がないことだろうか。淡乃晶が2020年に朗読劇化した朗読劇『さよならローズガーデン』もそうだが、基本的に再演・再配信はない。
やはり作り手としてはスタッフを再集結させるなら新しいものをやりたいのだろうか。というわけで、次のマンガの朗読劇化を待ちたい。

(『Baby Blue』や『春とみどり』などとならび、女性が男性のペンネームで活躍していたころのイギリスで同性愛を紡ぐ『さよならローズガーデン』も女性同性愛へ真摯に向きあったマンガだ。また、どれもが百合作品としては妙齢の女性を主人公としている。淡乃晶の関心はそうした領域にあるのだろう)



そんなことを書いてたら幾原邦彦と組んで『春琴抄』〈谷崎潤一郎〉の朗読劇をやるみたいです(春琴抄は男女SM)。淡乃晶を内外に紹介するならやはり『イルミラージュ・ソーダ』になるらしい。



『ドラマCD「ウルサスの子供たち」』
(2023年の補遺)


スマホゲーム『アークナイツ』〈Hypergriph〉のスピンオフ『ドラマCD「ウルサスの子供たち」』〈Aegir〉
原作ゲーム開始1周年と少したったあたりで実装された期間限定イベント「ウルサスの子供たち」は今でも根強い人気があり、はじめての試みとしてドラマCDが2023年にリリースされていた。リリースから1年が経過したことで無料公開されている(ちなみにバイノーラルではないふつうのボイスドラマ)。

『アークナイツ』の舞台設定をふくめ大ざっぱに説明すると、『アークナイツ』の世界には致死率100%で治療不可能の感染症をまき散らす「オリジニウム」という鉱石があり、オリジニウムがもたらす莫大なエネルギーの裏で大量の感染者たちが差別にあっている。
「ウルサスの子供たち」ではパンデミックに乗じて都市を襲撃したテロリスト集団により、さまざまな学校の学生たちがひとつの学び舎に集結させられたうえで軟禁され、食糧が限られるなかで奪いあうストーリーが描かれる。限界状態から生還した「ウルサス学生自治団」の、各人の独白をとおして軟禁下で起こった惨状が語られていく。

もともとフルボイスではない『アークナイツ』に声が撮り下ろされた『ドラマCD「ウルサスの子供たち」』でもっとも傾聴すべきは「ナターリア(ロサ)」役・上田麗奈の怪演だろう。特に「[Disk2]Track1:Phase08」の11:30~14:12あたりが鬼気迫っている(リンクは話の流れがわかりやすいように8:30から開始するようにした)。

小清水亜美演じる「ソニア(ズィマー)」は名の知れた不良であり、軟禁下で庶民のリーダーのような存在だった。対してナターリアは伯爵令嬢であり、軟禁下で貴族のリーダーを務め、貴族たちを命令して学校内の食糧を独占していた。
誰かが起こした火災によって食糧が全焼し、校内が阿鼻叫喚の渦に巻きこまれると、暴徒の手によって貴族たちが殺される。もとより弱いものイジメが嫌いなソニアは何らかの理由でナターリアを生かし、ウルサス学生自治団に加えた。しかしナターリアにとってそれは過ちを犯したまま生かされるに等しく、生還した今も精神を蝕みつづけている。
「[Disk2]Track1:Phase08」は、生還後の生活のなかでナターリアがソニアに自分を生かした理由を問い詰めるシーンであり、ヒステリックな少女の演技に定評がある上田麗奈の持ち味が、最大限に楽しめるボイスドラマになっている。

こうした上田麗奈の演技はもとよりアニメで散見されたものであり、たとえば『ハーモニー』〈制作:STUDIO 4℃ / 原作:伊藤計劃〉の「御冷ミァハ」や『SSSS.GRIDMAN』〈TRIGGER〉の「新条アカネ」などが該当する。これらは百合好きにも人気が高い作品であり、やっぱり女女拗らせてるときの上田麗奈がいちばん輝いてるなと気持ちを新たにした(後述する『わんだふるぷりきゅあ!』〈東映アニメーション〉でも上田麗奈が悲願のプリキュア主役抜擢されている)。



ドラマCD企画には続編もあり、次は公式スピンオフマンガ『ロドス・オリジニウムレコード 黒鋼』〈Hypergriph〉のドラマCDが予定されてい……もうリリースされとる!?
こちらも人気百合カップリングのリスカム×フランカの過去編とあり百合要素が楽しめる(はず)。マンガは無料公開中です。


『アークナイツ』本編の上半期は、上記リスカム×フランカをふくむ傭兵組織・BSWのイベントがあり、そこではリスカム×フランカの部下であるジェシカの成長が描かれた(「人肌に温めた手錠」が何よりもこの百合関係を物語る)。また、男から男への限りなく告白に近いなにか(隠居用住宅を用意したうえで「私が知らないところで死ぬな」と囁く)がお出しされたりした。
別のイベント「ツヴィリングトゥルムの黄金」ではかの「孤星」につづき叔母的保護者と孤児の死別百合がまたしてもお出しされ、とどめと言わんばかりに双子姉妹のすれ違い死別百合も投下された。
そろそろ生きてる百合が見たい。

『アークナイツ』〈Hypergriph〉
画面中央部の切り抜き

(『アークナイツ』が中国のゲームであることを考えると、「孤星」での匂わせもふくめ攻めた同性愛描写が続いている)




【マンガ】


『妹・サブスクリプション』


『妹・サブスクリプション (シリウスコミックス)』〈橋本ライドン〉
(講談社)


 ロボットと人間の最大の違いは、ロボットは――今のところ――分人化できない点である。

『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』
〈平野啓一郎〉(講談社)


小説家・平野啓一郎はエッセイ『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』で「分人」という概念を提唱した。
いわく、「本当の自分」を中心としてオモテの顔とウラの顔があるのではない。そうした固定観念に疑問を呈し、対人関係ごとにあらわれる様々な自分が本当の自分そのものであり、それらひとつひとつを「分人」とよぶ。
恋人との分人、職場での分人。そうした分人の構成比率、ネットワーク、集合体こそがその人らしさであり、自分らしさは当人の内部に秘められているのではなく、他者とのかかわりの間でしか観測されえない。
同時に、他者のその人らしさも自分(あるいはまた別の他者)抜きには存在しえない。関わりあっている他者の印象が「楽しそう」なのであれば、そのすがたの成り立ちには自分の影響があるだろうし、逆に「不機嫌」なのであればそこには自分の瑕疵がある。

『妹・サブスクリプション』〈橋本ライドン〉は「ツイシリ」にて連載されていた、姉妹愛を描く4コママンガだ。予想をうわまわる好評につき、講談社から単行本が出版されている(全一巻)。
社会人として働く姉・みゆきと、外に出ることのない妹・今日子。姉妹の仲は良好で、ややスキンシップの激しいきらいがあるかもしれないが、橋本ライドンが百合漫画の描き手であることを思えば不思議ではない。

〈橋本ライドンまんが〉Xより

激しいのはスキンシップではなく、不穏な空気だ。
近年流行している類型として「金銭関係からはじまる恋愛物語」がある。レンタル彼女だったり、なんらかの売春行為だったりするかもしれないが、ともかくして金銭から関係性が開始される。本題とは別の作家だが、現在連載されている百合漫画として『ケイヤクシマイ』〈ヒジキ〉がある。これは少女から「おねえちゃんになってください」と金銭を握らされた女性の話だ。

『妹・サブスクリプション』の題だけみれば、それらに類似するような物語なのだろうかと想像が先立つ。つまりレンタル妹サービスのようなものなのではないか、と。
しかし上記画像の「追加製造時」といった文言から察せるように、これはひと対ひとの関係性ではない。サブスクによって提供されている妹は、うしなった人間を模倣するロボット「レプリカント」だからだ。

作中の時代設定は現実世界とおよそかわらず、不完全な技術のレプリカントはささいな衝撃で破損してしまう。破損交換前提のサブスクリプションサービスとしてつど新筐体が提供されるたび、性格がアップデートされ「本物」に近づいていく。
外に出てはいけない。みゆきの言いつけを破り、旧友・吉乃と再会する今日子。しかし旧友と認識しているのは吉乃だけで、今日子にとっては初対面の相手らしい。吉乃からみた今日子は、まるで昔のままタイムスリップしてきたかのような若さであり、その当時とは正反対の性格をしている。束縛のつよい姉に反発してやさぐれていた姿はどこにもない。

〈ツイシリ〉Xより

姉といるとき今日子はどのような「分人」を発露させていたのだろうか。姉妹の両親は共働きで、みゆきが日々の食卓を担当していたことから、家庭内で反発を露わにすることはあまりなかったのかもしれないし、露わにしたとしてもまともに取りあつかわれなかったのかもしれない。
今日子には姉には見せないすがた、旧友には見せないすがたがあり、過去から現在にわたるまで四次元的なひろがりを持っていたことだろう。しかし妹の成長を間近で見ていたみゆきにとって、従順だった幼少期の今日子こそが本心をありのままにさらけ出していた「真実のすがた」であり、それ以外は「私の妹」ではない。

自分に対して向けられているすがたこそが相手の「真実のすがた」である。自分だけが相手の本心をわかっていて、それ以外は心を偽っている状態であるから、相手が本心をさらけ出せるよう状態に誘導してあげなければならない。はたしてこれは人間とレプリカントの間のみに発生しうる考えだろうか?

登場人物のひとりにみゆきの友人・正美がいる。正美はちょうどみゆきが妹をうしなったときに寄り添っていた人物で、みゆきがレプリカントのことを打ちあけることから信頼の深さがうかがい知れる。しかし正美は当時を知っているがゆえに、目の前で破損した妹をみても動じないみゆきに違和感をつのらせる。レプリカントによってみゆきの心がゆがめられていると判断した正美は、妹想いのみゆきを取りもどすため秘密裏に働きかけをおこなう。

物語の行く末を左右するのは妹の旧友・吉乃だ。もとより今日子と再会したときに違和感を覚え、なんとか姉から引きはなそうと行動していた。いともたやすく今日子は壊れ、追跡してきたみゆきから真実を聞く。「あたしのことも嫌いだったのかな…」。吉乃も今日子をうしなった人間のひとりであり、今日子が消えた理由すら知りえない。今日子そのひとのたった一側面しか知らなかったことを痛感する。
そんな吉乃にチャンスが回ってくる。もしかしたら姉を更生し、今日子を救ってやれるかもしれない。しかし今日子の意志を無視してまで……今日子の最後の心残りがズタズタになってしまうことを恐れて、みゆきを見捨て、今日子をコントロールする。結果としてみゆきは異常者のまま固定され、潰えていく。

『妹・サブスクリプション』の登場人物だれしもが、相手の一側面を優先して、それ以外の分人を切り捨てていく。それは唯一善的な選択をしたと思われる吉乃であっても例外ではない。
本作はロボットを題材にしながら人間関係の根本に迫る、稀代のSF作品だ。




『紅茶の魔女の優雅なる宮廷生活
チートをひた隠す最弱魔導師の窓際ライフ』


『紅茶の魔女の優雅なる宮廷生活
チートをひた隠す最弱魔導師の窓際ライフ 1巻【特典イラスト付き】 (ゼノンコミックス)』
〈漫画:ヨリフジ / 原作:蛙田アメコ(エブリスタ)〉(コアコミックス)


『紅茶の魔女の優雅なる宮廷生活 チートをひた隠す最弱魔導師の窓際ライフ』〈漫画:ヨリフジ / 原作:蛙田アメコ(エブリスタ)〉は全四巻で完結した小説家になろうのコミカライズ作品。
戦後の宮廷で窓際族を維持する魔導師・レミィと、戦争を知らない第一王女・ステラの王宮ガールズラブ・ファンタジー。細分化されたジャンルとしてはチート・スローライフに属する。

いわゆる水系能力最強説の系統にあり、「紅茶をおいしく淹れる能力」で戦中活躍した主人公が宮廷のお飾りポジションで平和を堪能しようとするが、ひょんなことから王女に目をつけられてしまい地位の向上を危ぶむ。しかし王女を狙うカゲや、王女の身が政治に利用されるのを見過ごせず、王女のために矢面に立つことを選択していく。

本作はレミィの意識の移りかわりが丁寧に、段取りよく描写される。
レミィはみずからの意志で窓際族を選択している。宮廷に在中する魔導師たちをあつめた集会に参加せず、能力をひけらかさず、適度にサボって評価を下げる。「紅茶をおいしく淹れる能力」は文字どおり茶しばきにしか使えない低俗な能力とみなされ、重責のある任務にレミィが呼ばれることはそうそうない。
集会に出ないことで宮廷内の情勢に疎く、野心などこれっぽっちも感じさせない。そんな態度が、日々の視線に苛まれていた第一王女・ステラに好感触だったようで、以降お忍びで付きまとわれるようになる。第一王女の寵愛を受けていると知られれば、今より重責のある任務に命じられるかもしれない。だからレミィはステラに冷たくあたるが、根の優しさがにじみでることでよりステラの興味を惹いてしまう。

「第2話 庭園茶会と宮廷魔導師の仕事」
/『紅茶の魔女の優雅なる宮廷生活
チートをひた隠す最弱魔導師の窓際ライフ 1巻【特典イラスト付き】 (ゼノンコミックス)』
〈漫画:ヨリフジ / 原作:蛙田アメコ(エブリスタ)〉(コアミックス)

レミィが平穏な日常をもとめる最大の原因は戦争にある。戦中、孤児であるレミィは軍の魔導師たちにひろわれ、殺しのエキスパートとして戦場を駆けめぐった。「紅茶をおいしく淹れる能力」がささやかな日常のために使われる未来のため、目にした惨状は枚挙にいとまがない。
だからこそステラのような戦争を知らない子どもが、政や内乱のようなきな臭い出来事に利用されるのを見ていられなくなってしまう。ステラに言い寄られるのが嫌なはずなのに、ステラの悲しげな顔を見ると助けずにはいられない。
そうしてズルズルと、窓際族から王女のご友人へ、ご友人から側近へ、側近から恋人へと立場が仰々しくなり、ついには王女の望まれぬ婚約のために国を捨てる覚悟を決める。

主役となる身分差カップルのほかにも『紅茶の魔女』には公認百合カップルがもう一組ある。しかしそれは原作者が言うように「厳密には」百合カップルではない。

「第11話 魔女の初陣と本当の魔法」
/『紅茶の魔女の優雅なる宮廷生活
チートをひた隠す最弱魔導師の窓際ライフ 2巻【特典イラスト付き】 (ゼノンコミックス)』
〈漫画:ヨリフジ / 原作:蛙田アメコ(エブリスタ)〉(コアコミックス)

アリシアは「庭園の魔女」としてレミィとともに窓際族同盟を誓った仲だ。戦中のレミィの活躍を知っており、ともに平和を謳歌するため協力しあっている。
今となっては宮廷中の男性たちから羨望の目をあつめる美女としてすごしているが、戦時下では「ジェミニ」という名が知れた職業軍人だった。厳粛で怜悧なすがたは今とかけ離れており、孤児だったレミィの復讐心にふるえ殺人術を仕込んだのもジェミニの手による。

ジェミニのすがたは中性然としており、「性別不明」という但し書きまでされている。レミィは戦後アリシアを美女としてまなざす男性たちに対しどこか気後れを感じているようでありながら、それでいてアリシアのことを女性扱いしている。
戦時下に能力の平和利用を、平和への思いをレミィに教えこんだのも軍人ジェミニであり、魔女アリシアだった。だからこそレミィとアリシアはともに平和を堪能するとともに、それをゆるがす脅威に対して志をおなじくしている。レミィが自身の立場をなげうって王女を救おうとするすがたに微笑み、アリシアもまた自身の立場をレミィのためにささげる覚悟でいる。


『紅茶の魔女の優雅なる宮廷生活 チートをひた隠す最弱魔導師の窓際ライフ』は一話一話を丁寧に描きながら巻をかさね、全四巻にて決着する。レミィの平穏への執着と、王女への庇護の精神が天秤にかけられ、すこしずつ傾いていく。その土台には平和への願いと少女・ステラへの思慕が根をはっている。すぐれた百合作品だ。


Web小説版は小説家になろうで公開されている。ちなみに書籍版はない。



短評
「友達だった人」「青色のうさぎ」
「ボッチだち」
「免許取るならオートマでいいよ」
「ハムガールの冒険」
「みなみちゃんの恋」
「西の魔法使いと友達」
「きみのことがだいすき」
『致死量の幸福』


良い短編マンガはどんどん記録に残したほうがよいと言われています。


「友達だった人」〈みや〉はコミティア147で頒布され現在はBOOTHAmazon Kindleで購入できる同人短編マンガ。
Twitter(現:X)でゆるくつながりいいねを交わすだけの存在だったフォロワーが余命宣告され、動揺してクソリプを飛ばしてしまう。
「近所の人」よりも近くて、「友達」よりも遠い。その人のプライベートを覗き見ているにもかかわらず、液晶の前には何もしてあげられない何者でもない自分がいて、悔しい。そうした感情が独特のタッチで描きとめられている。そうこうするうちに、はじめてのオフ会が葬式になった。

実はもうTwitterはないらしいです。


「青色のうさぎ」〈みや〉

「青色のうさぎ」〈みや〉はコミティア148で頒布され現在はBOOTHAmazon Kindleで購入できる同人短編マンガ。
今はもう絵を描かなくなった主人公に、コミティアで本を出すことをうながす幼馴染。順当にマンガ家になり身を固めた幼馴染とはちがって、主人公は気ままに生きていて、とらえどころがないように見える。
主人公の人生に自分が居ないように見えるのが悔しくて、同じ舞台に引きずりおろす。絵を描いてくれるのが嬉しいけど苦しい。幼馴染の感情がデカい話だと思って読み、いいねと思った。

実はもう他人のいいね欄は見れないらしいです。

Twitterではなくなったし他人のいいね欄も見れなくなったが、自己出版はKindleではなくBOOTHで買ったほうが作家に還元されることは教えてくれるSNS、X。

久しぶりに毒親とクソ男と村社会が出ない女の友情漫画を見た」←この感想がすべて。
友情が数年数十年後も続いていると嬉しい。

この書きだしでロボット百合SFになることないだろ。
やはり友情が数年数十年後も続いていると嬉しい。

「【短編マンガ】ハムガールの冒険」〈フィビ鳥〉

この書きだしでレズビアン・プロレタリア文学になることないだろ。
その時々の交際相手がいる百合(?)マンガはレア。

実在の仲良い芸能人どうしをベースにして失恋百合マンガにしていいんだ。

今風のキャラデザと話のゆるさがいい友情百合。
こうした絵柄でシリアスな恋愛をやっている百合マンガが多数あるが、ときたま挟まれるギャグシーンを見るたびそっちのほうが面白いんじゃないかと思ってしまう。

「きみのことがだいすき」〈木村恭子〉は恋愛百合短編。2023年12月中旬に発売された『冬の大増刊号 りぼんスペシャル 2024年1月号』(集英社)に掲載されていた。
2024年6月28日~7月25日の期間限定Web公開。りぼん名作ライブラリにて

女どうしの恋愛もディープキスも同性婚合法化への言及もりぼんなら可能!

(限界執筆期間に公開されていたのでどうしようと思っていたが、バズると自分で考える必要がなくなるのでよい)

近年フィクションの長身女性の身長がインフレしていきている(今回は180cm)気もするが、みずからの身長で悩んでいる子がこういった物語を読んで救われるのだと思うと、盛りすぎることはないのだろう。
いや出生時から付きあってる同性パートナー有の身長180cmの女性総理大臣
がいる日本に住みたすぎる。

木村恭子の社会派百合短編集『うちらのはなし 木村恭子デジタル短編集』にはちょこちょこ未収録があったので、次の短編集が待ち遠しい。

(謎の陰謀によってKADOKAWAのサイトがダウンしているのでAmazonのリンク)

『致死量の幸福』〈るぅ1mm〉は『貴女。 百合小説アンソロジー』(実業之日本社)で表紙を描いていたるぅ1mmの短編マンガ集。
六作品中みっつが百合。ふたつはBL。

「目には目を」は異能力によって同級生を殺めてしまった少女の罪をともに背負う話。
「チョークの家」は砂場に描いた間取りのなかで将来の共同生活を語りあう話。
「シェア・ハピ!」は片割れのようにモノをシェアしつづけてきた親友に好きな人が出来てしまう話。
全編とおして、恋人とは幸せも喜びも罪も罰も咎も分けあうものだという作家の恋愛観が良く出ている。

なお、2023年上半期に紹介した、ちゃお掲載の恋愛百合「王子ちゃんの好きな人」は収録されていない。Webで読め!


言うほど毒親とクソ男と村社会は出てきてなくない?




【アニメ】


『わんだふるぷりきゅあ!』


〈わんだふるぷりきゅあ!公式 〉Xより


『わんだふるぷりきゅあ!』〈東映アニメーション〉はTVアニメ「プリキュアシリーズ」〈東映アニメーション〉の21作目。
前作『ひろがるスカイ!プリキュア』〈東映アニメーション〉がシリーズ20作目を記念する作品として、初のレギュラー男性プリキュアなど挑戦的な要素に取りくんでいたことは記憶にあたらしい。
しかし、放送中にシリーズ通算放送回数1000回をむかえる『わんだふるぷりきゅあ!』も、負けず劣らずシリーズ初の要素が取りいれられている。

たとえば『わんだふるぷりきゅあ!』でははじめて純粋な動物がプリキュアになる。さきほどあげた『ひろがるスカイ!プリキュア』の男性プリキュアが鳥から人間になっていたが、これはあくまでもプニバード族という変身能力をそなえたオリジナル種族だからだ。『わんだふるぷりきゅあ!』では飼い犬として飼われているパピヨン犬の「犬飼こむぎ」がプリキュアになるとともに人間に変身し、さらに主人公を務める。
また本作は敵に直接的な攻撃を加えることを避けている。あくまでも暴走した動物型の妖精を止めるという名目で追いかけっこをするだけである。それぞれモチーフとなっている動物の習性を利用し弱らせ浄化するという描写に徹している。
さらにプリキュアシリーズのみならず、この手のアクションアニメで必ずといっていいほど登場する敵組織が今のところすがたを見せていない(妖精を暴走させる誰かしらの声は聞こえてくる)。従来のように味方陣営と敵組織のキャラクターを並行して描くことはせず、物語は味方陣営と妖精(キラリンアニマル)の話に注力される。

わたしたち関係性オタクとしては一番目のペットが人間に変身するという要素と、三番目の味方陣営(と妖精)の描写中心という要素に耳目をひかれる。
三番目は説明不要として、一番目の要素はどのようにして関係性に影響をおよぼすのだろう。端的に言ってしまうと、キャラクターとキャラクターがすでに円熟した関係からスタートし、さらに新しい形態を得たことで相手と新しいことができるようになるという、異種族関係の美味しい部分を啜れるからである。

あたらしい関係性コンテンツがはじまるとき、ほとんどの関係性は初対面か、疎遠な状態からはじまる。関係性が積みかさねられていく過程はわたしたちを興奮させ、いつキスするのか、いつ告白するのかと一喜一憂する時間は至福のひとときだと言えよう。しかしすべてのコンテンツには商業的理由でタイムリミットがあり、納得できる量と質の積みかさねが描写されることは稀で、関係が成就されたあとの描写はボーナス程度にしか得られない。
だからといって最初から関係性が成就されていたり、物語のはやい段階で結ばれるのも考えものだ。円満な関係は物語の流動性を欠き、無理に不和を入れると鑑賞者にストレスがかかってしまう。わたしたちは基本、好きな二人組がケンカしているすがたを見たくない(どの口で?)。

必ずしもそうではないペットや飼い主が多数存在することに留意しつつ、とかくしてペットと飼い主の絆は強固なものになりやすい。
『わんだふるぷりきゅあ!』の主要人物である犬飼こむぎと犬飼いろは、猫屋敷ユキと猫屋敷まゆ。それぞれの関係は、ともに路頭に迷っていた野良犬(猫)を保護するところからはじまっており、物語開始時には肌身離さずと呼べてしまうほど密接な関係になっている。

「第8話 まゆのドキドキ新学期」
/『わんだふるぷりきゅあ!』〈東映アニメーション〉

人間とペットという関係は特殊なもので、ふつう人間どうしではできないことを軽々とやれてしまう。寝食をともにしたり、身体をくっつけあったり、キスをしたり……。四六時中ともにいる関係は恋人よりも濃密な関係かもしれないし、身体的な距離の近さは家族以上かもしれない。

日曜朝から少女どうしでイチャつかせることは不可能だが、少女とペットという建前なら可能。慧眼を覗かせる『わんだふるぷりきゅあ!』は、円熟した関係を出しつつも、停滞した関係は見せない。

主人公・犬飼こむぎは、大好きな犬飼いろはに置いてけぼりにされることを恐れている。こむぎには前の飼い主がいて、何らかの理由で野外に置きざりにされた経験があるからだ。自分にはいろはのような手足がなく、いろはは同じ二足歩行の友達のほうへ行ってしまう。そんな想像ばかりしてため息が止まらない。
ある日暴走した動物(キラリンアニマル)を見たいろはが、こむぎを置いて駆け出していく。こむぎはいろはがすべての動物を愛していて、苦しむすがたを見たくないこと身をもって知っている。いろはがその慈愛のために危険な目にあっているのをみて、こむぎは震えながらも飛びだし、プリキュアになる。
いろはと同じ身体になれたこむぎは、これからいろはと同じ食べ物を食べて、いろはと同じ言葉をしゃべり、いろはと同じ学校に通うことができる。あたらしく可能性に満ちた日々が、関係性に刺激を絶やすことはない。

特に百合好きを奮わせたのは、猫屋敷ユキと猫屋敷まゆの関係だろう。
猫屋敷ユキはある時点からプリキュアとして活動するようになったが、犬飼のふたりや飼い主のまゆにそのことを打ち明けていなかった。
猫はもともと群れない性格だが、こむぎと違って人里離れた場所で生活(生息?)していたユキにとって他の動物とは争うものという意識が強いのか、暴走したキラリンアニマルに対しても殴る蹴るなどで負傷させる闘い方をしている。キラリンアニマルとの遭遇は危険をともなうものであり、犬飼のふたりと仲良くしようとするまゆの意志を無視して接触を絶たせようとする。
一緒にいろんなことをしたがったこむぎと違い、ユキはあらゆる挑戦を辞めさせようとする。愛ゆえの束縛は他の誰でもなくまゆ自身によって「決めつけ」と拒絶され、嫌われてでもユキはまゆを見守りつづける。

その後一悶着あって(その一悶着内のユキの表情がなんとも痛々しい)仲直りするのだが、仲直りしたらしたで人間形態でイチャつきはじめるので本当にすごい。ペットなのでセーフ!

「第21話 まゆとユキのスクールライフ」
/『わんだふるぷりきゅあ!』〈東映アニメーション〉

話は前後するが、ケンカする前、ユキはまゆとのめぐりあわせを滔々と振りかえったのち、関係を「友達」と称していた。感傷的な語りとは裏腹に「友達」というワードチョイスに疑問を呈するファンも多くみられ、かくいうわたしもその一人だった。
本記事で前述したように、『現代思想2024年6月号 特集=〈友情〉の現在』収録の「すべてを「友情」と呼ぶ前に 名づけえないいくつもの関係」〈中村香住・西井開〉では「残余ワード」という概念が紹介されている。名付けられていない雑多なカテゴリーが「友情(友達)」に押しこめられているとの指摘だ。
ユキとまゆの一世一代ともいえる出会いによって築かれた絆は「友達」と呼ぶには大きすぎる関係であり、ペットとして同棲しベッドをともにするほど一蓮托生の仲かつ(人対人の)恋情をともなってない関係を称する言葉の空白を思わせる。「家族」でもいいが、猫に家族という概念はあるのだろうか。後のエピソードでは「パートナー」とも呼称されていたが、個人的には「運命の人」がいちばんしっくりくる。

そんな「運命の猫」と生活をともにする猫屋敷まゆだが、相手が人型になれることを知ってから、相手の身体に顔をうずめて匂いを吸う行為をしていない。
猫屋敷まゆを演じるのが上田麗奈ということもあり、毎回その描写が出てくるたび過去に購入した犬になって上田麗奈に吸われるASMR(微百合)が脳裏によぎっていたのだが、ここ数話は安心して視聴を続けている。声優のASMRは買わないほうがいいよ。

ユキのほうはまんざらでもない様子なので、ペットだからセーフを免罪符にして今後どのようなじゃれ合いが描写されるのか、目が離せない。




『ガールズバンドクライ』


公式X/YouTubeチャンネル登録者3万人記念 PC用壁紙
〈アニメ「ガールズバンドクライ」公式サイト〉より

「バンドってさ。言いたいことが溜まりに溜まってるヤツが、集まってやるものだと思うんだよね」

「第2話 夜行性の生き物3匹」
/『ガールズバンドクライ』〈東映アニメーション〉


わたしたちが物語を……ヒューマンドラマを視聴するとき、キャラクターたちに何をしてほしいと感じるのだろう。
なんてことのない日常生活、人間関係のお手本、 青春の謳歌、栄光の獲得、社会への反抗、禁じられた不道徳の行使。 ……やっぱり恋愛?
『ガールズバンドクライ』〈東映アニメーション〉にはすべてがある。

関係性を意識したフィクションにおいて、なによりも重要な要素となるのは会話だ。相手の気持ちを察したり、自分の気持ちを言葉にしたりと、まず声に出さなければ始まらない。
にもかかわらず世の中のヒューマンドラマや恋愛物語では、ときたま「言葉にできない」だとかいって言葉濁すキャラクターがいる。あるいは言葉や仕草で表現された愛情を、いつまでたっても察せられない朴念仁どもがいる。
加速した情報社会において情報密度や展開速度はなによりも重要で、できることならさっさと思いを伝えあってほしい。そんなわたしたちのために『ガールズバンドクライ』の主人公・井芹仁奈は死力を尽くしてくれる。

井芹仁奈はまず、キレる。決めつけてくる発言にキレる。憧れの存在が夢を諦めようとするすがたにキレる。勝手に悪意を推測してキレる。出会いを台無しにした自分にキレる。
だからといって井芹仁奈は意味不明にわめきちらすことはしない。噴出する言葉には伝えたい思いが凝縮されていて、その声は美しい。だからこそ、憧れのアーティスト・河原木桃香を惹きとめ、ボーカルを任される。

"それ"を主題としないジャンルにおいて、キャラクターが恋愛を匂わせた発言をすると「唐突」といった批判が飛びだすことがある。異性どうしの登場人物ならさほど珍しい描写でもないのに、同性どうしだと途端に違和感が生じてしまうらしい。
井芹仁奈はもともと唐突なことしか言わない。井芹仁奈は視聴者の聞きたいことしか言わない。だからさも当然といった顔で、河原木桃香に告白する。


「第1話 東京ワッショイ」
/『ガールズバンドクライ』〈東映アニメーション〉

2024年春アニメは音楽にまつわる少女たちの物語が多数放送された。そのなかでも『ガールズバンドクライ』は正統派ガールズバンドアニメにあたる。
主人公・井芹仁奈は熊本県出身、17歳の学生……ではなく、高校中退の身にある。関連する不祥事で父親と仲違いし、東京の大学に進むため川崎へ越してきた。
仁奈の特徴はなんといっても衝動のままに行動するところだ。そしていじめられてきた過去や、そのとき自分を庇わなかった父親がいることから、人間を信頼していない。引っ越し初日に寝すごし、電池ぎれで路頭に迷ったとしても、善意で差しのべられた手を警戒してしまう。
一方で、尊敬するアーティストである河原木桃香のゲリラライブには真っ先に駆けつけ、その日のうちに家へあがりこむ。宿なしにもかかわらず桃香の軽口に憤慨し、スマホを忘れたまま飛びだしていく。

河原木桃香。幼なじみ四人で結成し上京してきたガールズバンド・ダイヤモンドダストの元ボーカルで元作曲作詞担当。プロデビューし、アイドルイメージを押し付けられていくなかで離反した彼女にとって、アイドル化される前のほうが良かったと言ってくれる3歳下の仁奈はまぶしく、愛おしくみえる。
桃香にとって仁奈は妹のような存在であり、過去の自分をかさねる相手でもある。だからつい甘やかして、つい軽んじてしまう。

仁奈はずっと桃香の音楽を聴いてきた。自分をいじめてきた相手、教職員による雑な両成敗、自分を庇わない父親。そうしたものから逃げこんだ先に桃香の歌があった。上京したてで右も左もわからない自分を拾ってくれたのも桃香だった。運命だった。音楽の道を指ししめしてくれたのも、すばるという親友とであわせ、仲を取りもってくれたのも桃香だ。
桃香の背中を追って仁奈は急速に成長していく。だからこそ、仁奈をここまで焚きつけてきた桃香が、音楽からも、仁奈からも逃げようとしているのが許せない。ワケ知り顔の年上ぶって現実を見せてくるくせに、純真だったころの自分をかさねて仁奈を閉じこめようとする、その子供扱いが許せない。

「やっぱりわたし、桃香さんが好きです」
「なんだそりゃ」
「決まってるじゃないですか。……告白です」

「第8話 もしも君が泣くならば」
/『ガールズバンドクライ』〈東映アニメーション〉

井芹仁奈はこうして大人になる。大人である証明をする。もう乞い願うだけの子どもじゃない。「付き合ってください」なんて言わない。仁奈と桃香ははじめから一蓮托生の仲だった。なんか記事書くために一から視聴しなおしたら最初からデロ甘でびっくりした。でもそれは姉妹愛のようなものだ。これからはそうじゃない。

「第12話 空がまた暗くなる」
/『ガールズバンドクライ』〈東映アニメーション〉


『ガールズバンドクライ』の3DCGのクオリティはそこかしこで語られている。日本の伝統であるリミテッドアニメーション(1秒8コマ)ではなくフルアニメーション(1秒24コマ)、セルルック(はっきりとした輪郭線と影境界)ではなくイラストルック(顔だけ輪郭線、グラデーションでつけられた影)、モーションキャプチャではなく手作業で再現されたアニメ的表現によるメリハリ。

フルアニメーションでコマ数が増えるのは必ずしも良いことばかりではない。単純に作業量が数倍にもなるし、微細な動きが増えることでモサッとした印象になりやすい。人形のように身体の不変性/連続性に囚われる3DCGは特にそうで、モーションキャプチャでリアルの人間の動きを取りこんでしまうとさらにゴチャついて見せ場がわかりづらくなってしまう。
アニメーションの真髄とは動くことだけではなく"止まる"ことにあるとはよく言ったもので、わたしたちが見慣れている手描きのアニメーションは、視覚的に気持ちよく見れるようバチッと静止したポーズが顕在するし、なめらかに腕を振りまわしているようにみえても実は3,4枚くらいしか描かれていないことが多々ある。

『ガールズバンドクライ』は、モーションキャプチャをベースにしているであろう(もしかしたらしてないかも)わずかな揺れをふくんだ所作と緩急をつけるように、行間を大胆に省略した動作を取りいれている。当然人間はこんな瞬間移動を行えるわけがないので、逐一手作業で修正されているのだろう。
また表情についても崩した表現がおおく、もとの造形を完全に無視した変形や新規パーツによる表情づけも常套手段として用いられている。タメツメも駆使し、旧来の手描きアニメーションというよりもカートゥーンに近い。コミカルで表情豊かな表現が、日常の些細なシーンにまでをも彩る。

さきほど熱っぽく語ったように『ガールズバンドクライ』は「喋りすぎる」アニメだ。井芹仁奈だけでなく、河原木桃香も、優等生ぶった安和すばるも、みなぶちまけたいことを抱えている。そうすると自然に会話シーンが増えていき、画面づくりを担当するスタッフたちの胃に穴があいていく。会話シーンはもっぱら動きがなく、映える画面を作りづらいからだ。

東映アニメーションの分厚すぎるCG班によって『ガールズバンドクライ』の会話シーンは……というかほとんどのシーンは、中遠景/広角で、空間の広さが伝わるように撮られている。諸々のオブジェクトは作りこまれ、くすんだ色彩構成がキマっている。キャラクターはたびたび空間を動きまわり、全身で感情を表現する。
腹を割った感情のぶつかりあいがテーマの『ガールズバンドクライ』にとって会話シーンは省力化するところではない。むしろキャラクターたちのコミュニケーションを数倍魅力的にするため、ありとあらゆる技術が集結されている。


『ガールズバンドクライ』は幸いにも大好評を博し、さまざまな分野からの批評が蓄積されている。なかでもキャラクターたちの動きをダンスとして捉えた視点が面白い。

CGモデルの質の高さと演出の上手さは前提として、モーションの質がすばらしい。1人でもミュージカル/ダンス/カンフーアクション的な動きのモーションが魅力的で、かつ、キャラの身体同士が触れ合ってぶつかるときの処理の自然さがキャラの肉体性を増すとともにそれがまたダンスとしての質感を上げる。

そして人同士ではなく、椅子に座るとか飲み物を持つとかいった「キャラがモノに触れる」動作もまた細やかに描いており、こういうシーンを見ているだけでたのしい。

「〈ダンス〉としての『ガールズバンドクライ』感想」〈kqck〉(note)

百合作品は女性たちの関係性に注目する都合上、男女よりも、男どうしよりも、肉体的なパーソナルスペースがゆるく、ボディランゲージが多い。とはいえ百合アニメはまだ頭数がすくなく、日常的な所作に力をそそいだタイトルはそう多くない。キャラクターひとりならまだしも、ふたりが組みあって動くすがたとなると、十全に描けるアニメーターは限られてくる。
そういった観点みると『ガールズバンドクライ』は口先だけでなく身体でもぶつかりあう描写が多い。まるで鍔迫りあいを行うように重心を押しつけあい、寄りかかり、釣りあいをとる。1秒24コマで描写されるかすかな揺れ表現や、3DCGの物理演算によって服や髪がほどよく遅れて追随し、画面の向こうの重力を、キャラクターたちの骨と筋肉を如実に感じとることができる。


こうした3DCGによる二人以上のバランス表現は『劇場版 ポールプリンセ
ス!!』
〈タツノコプロ〉でも取りくまれていた。


このように『ガールズバンドクライ』は独自の強みをもった百合作品だといえる。
人気作品だと語りたいことは誰かが語ってくれてるし(アニメーション表現についてはこの記事を大いに参考にさせてもらった)、公式がクリップを投稿しているとリンクを貼るだけで何かを語ったつもりになれるので楽だ。

『ガールズバンドクライ』放送終了後に、以前「あの百合作品もすごい! 2023下半期」で取りあげた『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』〈サンジゲン〉との対バンライブが発表された。おなじ3DCGによるガールズバンドアニメであり、似たようなコンセプトをもつ百合アニメだけあって、片方が楽しめたのであればもう片方も楽しめるだろう。両方ともまだ見れてないひとはこれから満ちたりた体験ができるかもしれない。




『響け!ユーフォニアム3』


「ストーリービジュアル 〜青春の価値編〜公開!」
〈TVアニメ『響け!ユーフォニアム3』公式サイト〉より


TVアニメが一期二期あり、総集編をのぞく劇場アニメが三作品とつづいてきたアニメシリーズのTVアニメ第三期『響け!ユーフォニアム3』〈制作:京都アニメーション / 原作:武田綾乃〉。10年つづくアニメシリーズの総決算を語るにあたって、新規向けに語るか視聴者向けに語るかで迷ってしまう。すくなくとも三期だけまだ見れてない人に向かないことはたしかだ。

全13話で原作上下巻をアニメ化するにあたり、アニメ『響け!ユーフォニアム3』は原作から改変された点が多い。なかでも12話は常軌を逸した原作改変があり、賛否両論を巻きおこした。これは原作読者であっても賛否がわかれ、物議に発展した(わたしは原作既読者だが非常に満足している)。

主人公・黄前久美子は吹奏楽部の部長で、一年、二年と大躍進を続けつつも目標の全国大会金賞を達成できない北宇治吹奏楽部とともに成長してきた。自己主張が弱く、それでいて相手の本音を聞きだすことがうまい。どちらかというと口下手なほうだが、必死なすがたを見せられると周囲は絆されてしまう、そんな少女。
お互いに特別と言いあった親友・高坂麗奈とともに、毎朝いの一番に部室にやってくるが、音大進学からプロを見すえる麗奈と違い、久美子はそんな情熱もなく飛びぬけて上手いわけではない。だがもともと層のうすい地味な楽器・ユーフォニアム担当ということもあり、今年の自由曲のソリ(複数人のソロ)を麗奈とともに演奏するのは確実と思われていた。転校してきた三年生でおなじユーフォニアム担当の黒江真由がいなければ。

悲願ともいえる全国大会金賞を確実にするため、ソリをふくめ各大会を突破するたび再オーディションをおこなう。関西大会は黒江真由のソリで突破した。原作では全国大会まえのオーディションで久美子がソリを取りかえし、それで丸くおさまるはずだった。

シリーズ構成の花田十輝が提案し、熟慮した結果、アニメ『響け!ユーフォニアム3』で追加された最終オーディションで主人公・黄前久美子は敗北を喫する。それはアニメシリーズ最後の山場で主人公と親友のソリが演奏されないことを意味した。作中でその裁量をまかされ、決断を下したのは他ならぬ親友の高坂麗奈だった。

「第12話 さいごのソリスト」
/『響け!ユーフォニアム3』
〈制作:京都アニメーション / 原作:武田綾乃〉

高坂麗奈は一年生のとき……TVアニメ一期で、当時三年生だった中世古香織からソロパートを奪う。その年から全国大会金賞を目指し、実力主義に切り替えたばかりの北宇治吹奏楽部にとって当たりまえのように争いとなり、麗奈の味方としてもっとも尽力したのは久美子だ。
久美子は「裏切ったら殺してもいい」「愛の告白だから」とまでいい、麗奈とともに悪役になる覚悟を決めた。このときからふたりの仲は更に強固になり、TVアニメ三期では何度も音楽に嘘をつかないこと、すなわち北宇治の実力主義を貫くことを確認しあっていた。それはふたりの誇りであり、愛の根源でもある。
その積みかさねを裏切って、実力差に反して久美子をソリに選ぶことは、ふたりの絆を侮辱するにふさわしい。だからこそ麗奈はみずからの手によって黄前久美子にとどめを刺した。部員たちが沸きたつお祭りの日にあえて家に誘い、おなじ釜の飯を食べさせ、自宅の楽器で演奏させてまで、久美子に音大進学を勧めようとした麗奈が、演奏者・黄前久美子の最期を直感し、久美子とともに音大進学する未来を切りすてる。ふたりの絆は誇りによって昇華され、進路を違えたとしても特別でありつづける。
みずからの手で久美子との最後の大舞台をなげうってしまった事実に麗奈は泣き崩れ、秘密の場所に久美子を呼びだす。

原作改変により、高坂麗奈の激情は危険な領域にまで達していたといえる。それは黄前久美子役の黒沢ともよも感じていたらしく、あくまで独自解釈を念頭においたうえで「共依存のような異常な関係性」と呼んでいる。
今まで麗奈は久美子を自分と同化させるようなかたちで接してきた。麗奈は自身のエリート音楽家家庭と久美子の一般家庭の違いを理解できておらず、久美子に音大進学の意識がないことを知りつつ押しきろうとする。それは久美子その人を理解しないまま、理想を押しつけている状態だった。
久美子が音大に進む未来はないと断言したとき、麗奈は共通点がなくなり疎遠になっていくのなら、今ここで終わりにしてふたりの絆を残しておきたいとまで言う。そう嘆く麗奈が約束のもとに久美子を裁き、ふたりの絆をより崇高なものにする。非常に重要なシークエンスだったいえる。

黒江真由もまた原作改変によって意匠がかわった人間のひとりだ。
もともと原作では黄前久美子部長を苦しめる舞台装置として徹していた印象がつよく、久美子との和解もなされていなかった。原作において、久美子が真由もまたひとりの少女だった気づくのは、ちょうどTVアニメ三期12話から13話のあいだに発売された原作短編集『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のみんなの話』〈武田綾乃〉の、卒業旅行での一幕となる(という紹介だけで、以下はアニメ版の話なので注意)。

「TVアニメ『響け!ユーフォニアム3』新キービジュアル「黒江真由」&特別映像を公開!」
〈TVアニメ『響け!ユーフォニアム3』公式サイト〉より

黒江真由は強豪校からの転校生であり、黄前久美子部長とおなじ三年生のユーフォニアム奏者だ。実力まで久美子とおなじだが、その志は実力主義ではなく「みんなと楽しく演奏すること」。部の和を保つため久美子にオーディションを辞退する意志を何度もみせ、部を率いる顧問によってソリに選ばれながらも、久美子に対してソリを譲りたいと口にしつづける。
これは強豪校ではなく成りあがり途中の北宇治吹奏楽部にとって悩ましい問題だ。真由の提案を受け入れた結果、全国大会金賞を逃したとなれば何のために実力主義を誓ったかわからなくなってしまう。だからといって真由をソリストに採用すれば、部の人気者である黄前久美子部長のメンツが潰され、部長本人はよくとも周囲からの不満は抑えられない。

TVアニメ三期は小説における「信頼できない語り手」のような演出が多数ほどこされている。
論理だった説明が不得意で、失言がおおく、それでいてなんだかこのひとのために頑張らないといけない気にさせる……そうした人間が部長であり、主人公を務めている都合上、正しさよりも演出で視聴者を納得させるような場面が多々ある。
たとえば三期3話の、部活をボイコットしはじめた一年生たちのもとへ説得しにきたシーン。一年生の少女は言う。重要なのはコンクールメンバーで、初心者までキツい練習をする必要があるのか、辞めようとした子たちを引き止めようとしたがどんどんキツくなっていく、それをみてると悪いことをしている気持ちになる。
それに対し久美子は、高校生活の大半を部活に費やすならやってよかったと思ってほしい(?)、その思いは全員一緒(?)水を差しちゃいけない(?)。部長って多分みんなの気持ちをまとめるためにいる……だから悩みの相談はぜんぶわたしに持ってきてほしい、と応える(おそらくそれも同じような詭弁でたぶらかすのだろう)。水面に水滴が落ち、色に染まっていく。抽象的なカットとともに感銘をうけた少女の瞳が揺れうごく。

「第3話 みずいろプレリュード」
/『響け!ユーフォニアム3』
〈制作:京都アニメーション / 原作:武田綾乃〉

部長・黄前久美子の人望のもとに部員を追従させ、束ねようとする。これは第10話の、黒江真由がソリストになったことで荒れる部をおさめるため、久美子が演説するシーンでも同じだ。黄前久美子部長への信心が高まれば高まるほど、黒江真由の立場は厳しくなっていく。演説によって部は一つになり拍手すら巻きおこるが、真由は消沈するような表情を浮かべている。

黄前久美子部長が美化される一方で、黒江真由は不気味で、久美子自身の苦手意識がにじみ出るように演出される。部の方針とは正反対の意見や、久美子の顔色をうかがうような仕草。ひとつひとつが不協和音のようにすっぱ抜かれ、視聴者に黒江真由への不信感を植えつけていく。
そのかたわらで、真由のまえで久美子と麗奈のソリが確定しているかのように話す後輩や麗奈は、悪どく演出されない。久美子が真由へ投げかける言葉から乖離した周囲の意識はおそろしいほど平坦にながされ、顔をしかめる真由のすがた、やりづらそうにする久美子のすがたばかりが印象づけられていく。

(オーディション前。久美子と真由の食事中)

麗奈 「久美子。食事のあと時間ある?」
久美子「うん、あるけど……」
麗奈 「練習つきあってくれない? ソリのところ確認しておきたいの」
(真由、麗奈の様子をうかがい、伏し目がちになる)

久美子「ああ、うん。いいよ」
(真由、目をそらす)

「第8話 なやめるオスティナート」/『響け!ユーフォニアム3』
〈制作:京都アニメーション / 原作:武田綾乃〉

真由 「わたしが選ばれて嬉しいひとなんて、本当に居るのかな……」
(真由、伏し目がちに目をそらす)

久美子「いるよ!」
真由 「誰?」
(久美子、目を見開く)

久美子「……部員全員」
(真由、ふたたび目をそらす)
(久美子、息が詰まる)

「第6話 ゆらぎのディソナンス」/『響け!ユーフォニアム3』
〈制作:京都アニメーション / 原作:武田綾乃〉

第8話で真由がソリストに選ばれ、部員全員のどよめきが充満する。ソリを譲ろうとする真由にたいし、久美子は「選ばれた以上しっかり吹いてほしい。北宇治が全国金を取るために」と言い、部員全員が嬉しく思わなかったことへの釈明はない。

久美子と真由の微妙な関係は、視聴者の意識によって見方が二分される。そしてほとんどの視聴者は10年ともに歩みつづけてきた久美子の肩をもつ。久美子部長はこんなにもやりづらそうにしている。孤立した真由を異物として認識し、嫌悪感をつのらせるよう誘導されていく。

視聴者すら巻きこんだ逆境のなかでも、黒江真由は久美子に近づきつづけることやめない。その理由は真由の視点に立ってみると予想がつく。
三年生になって強豪校から発展途上の吹奏楽部に転入し、人望のある部長とソリストの座を争うことになってしまう。もともと事を荒立てるような性格ではないし、みんなと楽しく演奏すること第一としているため、部長に席を譲ろうとするが、部長本人から否定される。曰く、「実力主義」「部員はわかってる」というが、部長の言葉に反して自身へのあたりは強くなっていく。かといって手を抜くことも、今ここで吹奏楽部を辞めることも部長は止めようとするだろう。それでも八方ふさがりの状態を打開するには、部の信頼をあつめる黄前久美子に助けを求めるしかない。

黒江真由はずっと黄前久美子に助けてほしかった。全国大会金賞をめざす北宇治吹奏楽部部長ではなく黄前久美子本人と話したかった。だからこそ第12話で、オーディションまえに久美子と己の過去を打ち明けあい、オーディションでソリストに選ばれ身をすくめる自分を久美子が庇ったとき、真由は涙する。

「第12話 さいごのソリスト」
/『響け!ユーフォニアム3』
〈制作:京都アニメーション / 原作:武田綾乃〉

原作ではそもそも最後のソリストオーディションがないため、過去を打ち明けあうことも真由を庇うこともなかった。全体編成のオーディション時に久美子がソリを務めることが決まり、真由の本心と決着がつかないまま本編が終了、短編集へと持ちこされる。TVアニメ三期12話が公開されたとき、原作小説の終わりかたに不満をおぼえていたと話す読者がぽつぽつと現れだしたのを覚えている。なぜならわたしも原作の結末に生煮えな感じをぬぐえずにいたからだ。しかし、原作シリーズの華々しい結末として水を差さずに黙っていた。
主人公が敗北しライバルがソリを務めるという前代未聞の原作改変は、今までコミュニケーションによって相手の心の内に踏みこんでいった黄前久美子らしい解決であり、人間関係を描きつづけた『響け!ユーフォニアム』のテーマを一貫させた。久美子と真由が本心に近いところで話しあっただけでなく、久美子みずから真由を庇うことによって、真由もまた北宇治吹奏楽部の一員として救われたからだ。

大胆な改変によって少女たちの関係性を濃厚に描きだしたTVアニメ『響け!ユーフォニアム3』。ほかにも一歩引いた観察者から黄前久美子信者へとトルクチェンジし、愛する久美子との演奏機会も、尊敬すべき久美子のソリもうしなった後輩・久石奏の激昂も筆舌にしがたいものがある。
しかしこれが文句のつけられない原作改変だったのかと問われると、そうではない。

まず単純に、主人公と親友(というかもうヒロイン)の最後のソリがうしなわれていることだ。もともと全13話構成で話を進めるため、作画の都合もありTVアニメ三期の演奏シーンは少なかった。10年つづくアニメシリーズの最後ということもあり、こればかりは非難を避けられないだろう。おそらく制作側は残念がる層がいることも承知で方針を決めたはずで、そのとおりに嘆くファンたちを誰も諌めることはできない。

百合好きとしては次の懸念がある。

塚本秀一。男性。黄前久美子の幼なじみであり元彼氏。登場人物のなかでもっとも割りを食ったキャラクターだ。
二年生のときに付きあいはじめたふたりは、久美子が部長になることで一時保留として幼なじみの関係に戻っている。
原作どおりであれば相応の積みかさねが描かれ、最後に関係性の行く末はともかく久美子から秀一に好意が伝えられるはずだった。
実際のTVアニメ三期ではあらゆる積みかさねが削除されたうえで、最後のシーンはもちろん無いまま終わり、未来の久美子がプレゼントのヘアピンを持っていることで、なんとかその後の関係が読みとれる程度にまで縮小された。

もとより『響け!ユーフォニアム』シリーズは「クィアベイティング」という批判にさらされつづけてきた。人によってその概念の定義も程度も違うので一概には言えないが、「LGBTをネタして視聴者を騙す行為」を批判する語句だ。英語wikipedia の "Queerbaiting" のページには数少ない例としてもう何年も英語版タイトル『Sound! Euphonium』が書かれている。
このアニメのこのキャラクターは同性愛者なのかそうでないのかという問いが幾千回繰りかえされ、ファンのなかで一意にならないほど曖昧に描かれている。さらに制作側のコメントとして「思春期を表現した」という言葉が放たれ、同性愛者とは簡単に言えないと答えられた。一年生編で麗奈が顧問の男性教師への恋情を示したとき、二年生編で幼なじみの男女の恋愛関係がはじまったときの怒号は言うまでもない。
両性愛者の可能性や、恋人という形式にはまらない愛のかたちはもちろん、そもそも男女関係も思春期の一過性のように描かれていることがスルーされ、同性愛者か否か、このあと女性どうしでくっつくのか、あるいは詐欺なのかはっきりするよう一部から求められてきた。

その結果、黄前久美子と塚本秀一のロマンスは削除され、かわりに高坂麗奈や久石奏から向けられる久美子への感情が、賛否必然の原作改変をしてまでドカ増しされた。特に麗奈の感情は性愛の成分をふくんでいないにもかかわらず、プラトニック・ラブとは言いづらいほどに肥大化している。百合ファンを意識した描写の数々が投下されたのだ(同性愛が明言されてないので煮えきらない部分はある)。

しかしこれは本当に喜んでいい結果なのだろうか。
「クィアベイティング」の元をたどれば(元をたどることが可能なのであれば)同性愛者の可能性が示されたにもかかわらず仄めかしで終わることへの落胆から始まっているはずだ。クィアベイティングと称される作品たちの多くは大多数のスタッフや権利がからむ実写ドラマに集中しており、これは制作者たちが意図してベイトしたのではなく、さまざまな利権関係や因習などによって描写できなかった可能性を大いに秘めている。
『響け!ユーフォニアム』シリーズで黄前久美子と塚本秀一の関係性を楽しみにしていたファンは、部長としての役目を果たすまで、形見として預けられていた恋人関係が取りもどされていく過程と結果をアニメで期待しただろう。しかしそうはならず、全13話のなかで優先順位の低いものとして切り捨てられるに至った。これは偶然にもシリーズになげかけられていた異性恋愛への批判にそって削除されたようにもみえる。

結果として、外部圧力か優先順位によって原作改変してまで一部登場人物の性的指向が検閲されるという、今までマイノリティ側が受けてきた仕打ちをそっくりそのまま返すかたちになってしまった。
この報復を進歩と呼べるだろうか。マイノリティにくらべて男女恋愛は頭数が蓄積されているのだから、今ここに一つしかないアニメ『響け!ユーフォニアム』シリーズで男女関係がオミットされることを受け入れてと言えるだろうか。結局のところ、社会やコミュニティの情勢によっていかなる性的指向であっても不可視化される可能性がある、いびつな構造を保持したまま弱者側が削除されただけではないか。
『響け!ユーフォニアム』シリーズでは百合好きの層が厚く男女関係が排除されるに至った。しかし男女ファンの根強いほかシリーズでは以前として怯えつづけるしかない。またヘテロセクシュアルの流れ弾で不可視化されたバイセクシュアルは、それを望む声が少ないからといって無視すべき存在なのだろうか。

女性どうしの多様で根づよい感情を、ありありと描きだしてくれた『響け!ユーフォニアム』シリーズは、わたしの価値観や好む百合作品の傾向に多大な影響をおよぼした偉大な作品だ。
その一方で『響け!ユーフォニアム3』の裏で涙を飲んだ人々のことを思うと、素直に喜べない気持ちがある。


2019年、『響け!ユーフォニアム3』制作決定報告の1ヶ月後にあの「京都アニメーション放火殺人事件」が起きた。哀悼の意を表するとともに、クリエイターたちが安全で平和な環境下で制作できるよう祈っている。




『ルックバック』



『ルックバック』〈制作:スタジオドリアン / 原作:藤本タツキ〉同名短編マンガの劇場アニメ化作品。
原作は少年ジャンプ+に掲載されるやいなや、1日で250万Viewに到達し、短編マンガながらに宝島社「このマンガがすごい!2022」オトコ編1位を獲得した大傑作(友情死別百合)マンガである。

ふたりの女子小学生マンガ家の出会いと成長、別れを描いた作品であり、同時に「京都精華大学生通り魔殺人事件」や「京都アニメーション放火殺人事件」をモチーフにしているであろう作品でもある(被害者が実在することを忘れないために事件名を明記する。本記事は現実におけるあらゆる傷害行為に反対しています)。そのため原作公開時、映画公開時かかわらずありとあらゆるクリエイターたちが創作魂を奮わせた感想を投稿していた。

わたしも原作公開時には「これはサブカルチャー(マンガ)とハイカルチャー(背景美術)の相剋で、マンガ家として成功していくにつれハイカルチャー側が死んでいく話なんだよな」などとぬかしていたが、今回はそうした視点から距離を置き、あくまで女どうしの関係性にだけ目を向けたい。

アニメというものは当然マンガよりも情報量が多い。
一枚絵のカットが連続し行間を想像でおぎなうマンガとちがって、アニメは時間芸術である以上、行間の内訳、つまりある程度連続した時間が描かれる。
原作では表情がみえず感嘆符なく書かれたセリフであっても、声優の演技によってあたらしい表情が付与される。
日本のマンガはモノクロであり、原作『ルックバック』も例に漏れず、アニメで色付けされてはじめてわかることがある。

わたしがまず原作との違いに震撼したのは、藤野と京本がであう前、藤野と小学校のクラスメイトとの会話だった。

『ルックバック』〈藤本タツキ〉
(集英社)

学年新聞に掲載している四コママンガがウケ、周囲の評価に浸っていた小学四年生の藤野。しかし不登校の京本の作品も掲載されるようになり、その写実絵のうまさに周囲はもちろん藤野自身が衝撃をうける。文武両道に人気があった藤野は絵にすべてを費やすようになる。
六年生にもなって絵を描きつづけている藤野に対し、クラスメイトらしき少女が声をかける。「そろそろ絵描くの卒業した方がいいよ…?」。後日、配布された学年新聞をみて、藤野は六年生になっても埋まらない絵の才能に呆然とし、さきほどの少女を遊びに誘う。

そのときの少女の声色(の、おぼろげな記憶)。


え~ッ💓💓💓 わっ💓 いいよ❗️❗️
藤野ちゃんと遊ぶの久しぶりだ~
😀💓


……?

えっ、藤野のこと好きすぎない!?

エッじゃあ何「絵描くの卒業した方がいい」とか酷いこと言ったのって藤野と遊びたかったからなの!? スポーツも絵も万能で友達も多かったころの藤野ちゃんに戻ってほしい!て思いで勇気出して言ったの!?
さいきん絵に打ちこむ女を奨励する百合や、クラスから浮いてる女を虐める百合、わたしだけの〇〇ちゃんにするためわざとウケない人間にする百合ばっかり読んでたので、そんな(比較的)純粋な感情があるんだと感銘を受けてしまいました……。
何がニクいて劇場アニメ版ではこの発言時の顔が(たしか)映らないんですよね。原作には1コマだけあるんですけど。ぜってー恋する乙女の顔してるもんな~~~~。

まぁそんなクラスメイトちゃんの感慨も虚しく、藤野は京本に寝取られ絵オタクに戻ってしまうのですが(「わたしのほうが先に好きだったのに」?)。

京本の声もいいですね。がっつり訛ってて。すごいふにゃふにゃしてる。原作『ルックバック』のキャラクターたちは基本標準語で描かれているので、声がつくとだいぶ印象が変わる。劇場アニメ版の京本はなんか、声聞いただけで「守護らねば……」という気持ちになってくる。
動きもふにゃふにゃしてて、なんだろう、京本を美少女として描くぞ! という監督・押山清高の強い意志を感じる。それでいて、勇気を出して藤野に話しかけたりするときは身体を丸めて拳をにぎりしめタックルするみたいに迫ってきて……、でも藤野にいきなり抱きつかれるとナヨ……ってなって、関節が固まってない少女の身体がうまく表現できててぇ……(キモ……)。

表情も原作より笑顔の場面が増えてますね。もちろん原作でも京本の笑顔はとろけるようなタッチで、顔アップで描かれることが多かったのですが、人付きあいになれてないことを表すため小コマでは驚いたり焦ったりしているような表情が多かった。劇場アニメではそうした一瞬の表情の前後が継ぎたされるので笑顔でいることが多くなりました。
特に中盤のデートシーンですね。ふたりで描いたマンガが入賞して、賞金で遊びに繰りだすシーン。ここは予告PVなどでもクローズアップされ、大幅に追加、脚色されています。そもそも原作では藤本タツキ特有の一場面一ショットの連続並置で描かれており、遠景からのショットなので表情があまり見えません。

『ルックバック』〈藤本タツキ〉
(集英社)

この横断歩道を渡るシーン。原作ではこの一コマ(といっても一ページ丸々)だけですが、予告PVで振りかえるかぎり、藤野の背中、藤野の見返り、引っぱられる京本の笑顔、そして繋がれた手の強調が入っています。どれも原作にはなかった描写です(よくみると場面も横断歩道から移動している)。

「 劇場アニメ「ルックバック」本予告【6月28日(金)全国公開】」
Youtubeより

スローモーションで映されるひとつひとつのカットが情感にあふれていていいですね。繋がれた手も印象的で、のちに藤野と京本が道を違えるときの手がほどける描写の前置きとしても、百合作品としても筆舌しがたい。
あくまでもここで注目したいのは藤野は背中側から、京本は正面から捉えられていることです。藤野も正面から描かれていればまた違った印象になったでしょう。
また、藤野の背中のカットはまっすぐ中央に(視点の方向に)腕が伸ばされていますが、京本のカットは斜めに腕が伸ばされています。藤野の背中は京本の視界から見ていて、京本の顔は誰でもない視点から見ている。つまり劇場アニメ版としては京本の視界から藤野の背中をみてほしい。自分の家にきた藤野を追いかける京本のシーンも京本の主観です。

どちらかといえば劇場アニメ『ルックバック』は京本に感情移入できるようなかたちで描かれている。京本の感情をありありと映しだして、藤野とすごすこのときが幸福にあふれていることを主張しています。京本の頬に朱が差していることが多く(これは原作から)、まるで恋する乙女のようでもある。
かなりあとのシーンになりますが、京本を殺しにきた犯人を藤野が蹴りとばしたとき、劇場アニメ版京本は笑みを浮かべています。原作は驚いた顔でした。犯人の身体が蹴飛ばされた瞬間なにが起きているのか理解できないはずですから、驚いている顔のほうが妥当でしょう。劇場アニメ版の笑みはまるで蹴飛ばしにきた藤野を待っていたかのような、そんな笑顔です。

恋する乙女のような京本と、前述したクラスメイトは藤野のことが大好きです。劇場アニメ版はまるで藤野を神格化しているようでもあります。

これはなぜか。つまり監督・押山清高は原作『ルックバック』に……藤本タツキに恋をしていたのではないでしょうか。主人公である藤野に藤本タツキを見いだし、京本に自分の気持ちをかさねた。
押山清高は劇場アニメ『ルックバック』の監督であり、脚本であり、キャラクターデザインであり、作画監督であり、絵コンテも原動画も描いています。参加したアニメーターによると半分を監督自身が描いたそうで、尋常ではない熱を感じられる。
公開前コメントでは押山清高が藤本タツキを尊敬し、バケモノ漫画家と言って神格化している様子がうかがえます。同時に藤本タツキも押山清高のことをバケモノアニメーターと称賛している。
制作時には直接各シーンの認識をすりあわせるなど、密接なやり取りをしていたことは想像にたやすい。

これ恋仲じゃないか? 恋仲じゃ……。

つまり……押山清高と藤本タツキは付きあっている……?

押山清高と藤本タツキは付きあっている……。

押山清高と藤本タツキは付きあっている!


「[第61話] ニュースレポーター」
/『チェンソーマン 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)』
〈藤本タツキ〉(集英社)


モノクロマンガからカラーの劇場アニメになったことで、より描写の説得力が増したシーンがある。京本が書店で背景美術の画集をみて、美術学校への進学を決意するシーンだ。
もともと京本はモノクロの背景しか描いていない。学年新聞はもちろんカラーで出すような贅沢な冊子ではないし、京本の部屋に掛けられている絵画もモノクロだ(ったはず。これ違ったら死ぬほど恥ずかしい)。
京本が書店でみた画集は原作だと当然モノクロで、素人目には京本との実力の違いはさほど実感できない。だが劇場アニメ『ルックバック』ではフルカラーの画集なのだ。だからこそ京本が背景美術の美しさに心酔し、涙まじりに藤野との別れを打ち出すシーンに説得力がある。

一方で、各種劇伴や効果音など、特に主題歌が希望に満ちあふれた曲調だったことには違和感をおぼえていた。
というのもわたしは原作『ルックバック』の、特に最後のシーンのことを、起きたことは変えられないという「やるせなさ」を強調する結末だとして読んでいたからだ。あるいはその突きはなしたような終わりかたを気に入っていたか。藤本タツキはあまり効果音を書きこむ作家ではないので、どちらかといえば無音映画を見ている感覚に近い。

haruka nakamura作曲、urara歌唱の「light song」は賛美歌のような曲で、これ自体は非常に美しい。しかしアニメの最後にスタッフロールとともにこれを聴かされていると感情を強制されているように聞こえる(めんどくせ~)。こうした脚色は本編内にも散見されるものであり、さきほどの京本の小話もふくめ、劇場アニメ『ルックバック』はあくまで原作に救われたスタッフたちによるラブコールとでも言うべき作品なのだと思う。

そのへんのひっかかりはありつつも、より少女たちの感情や所作に力を入れられた劇場アニメ『ルックバック』は百合好きにとっても見るに値するアニメだ。追加上映が決定した劇場もあるので、わたしのように一時間未満でおわる映画をみるため往復三時間かけることもない。



原作短編マンガも公開されている。



短評
『『嘘じゃない』MV』
『non-reflection (Official Music Video)』
「好きがレベチ」


今期は百合SFアニメMVがよかった。

たったひとつの冴えたやりかた難民救済! 百合キス◯ 触手百合◎

キャラデザがいい。アンドロイド百合はなんぼあってもいいですからね。London Elektricityみたいな曲調が懐かしくてすき。

萌え萌えデュエットソング OF THE YEAR




【ゲーム】


『Sugar,sugar,sugarcoat』


 『Sugar,sugar,sugarcoat』は、学園が舞台の恋愛シミュレーションノベルゲームです。少女たちと交流を重ね、愛を得ましょう。そしてあなたはその愛を、愛しの悪魔に捧げなければなりません。

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉


【本項はわたしがSteamに投稿したレビューを引用しており、内容に重複があります】

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉は、Steamでリリースされた学園ノベルゲーム。
ミッション系(寄宿舎系)の学園のなかで、攻略キャラクターは3人。それぞれに3つのエンディングがあり、主人公・ヘレナを操作して、少女たちの愛を獲得していく。

そして、ヘレナはその愛を悪魔・マリーに捧げなければならない。

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉

Steamページには軽度な暴力・自殺に関する描写とあり、「悪魔に捧げる」といった文言が不安を煽るが、過度に露悪的な描かれかたはされておらず、繊細な少女たちの悩みに寄りそうかたちで昇華されていく。
また「本作には「女性同士の恋愛を示唆する描写」が含まれます」と各広報で書かれながらも、百合・ガールズラブを全面に推した商品説明にはなっていない。作中でキスシーンが存在しないことからも察せられるように、本作が(同性恋愛もふくめた)普通と呼ばれるロマンスとはちがうものを描いているからだと思われる。

本作の良かった点はふたつ。
・彼女たちの人格と秘められた愛が根底で一貫していること。
 それぞれに独自の人生があり、その経験がもととなって逸脱した愛のかたちが希求されている。奥深くに根ざした人生観は彼女たちの言動や行動にもあらわれており、日常からうかがえる性格と近しいものである。

・彼女たちが己の偏愛を自覚し、反省しながらも葬らないこと。
 本作の登場人物たちは己の内心を俯瞰し、それがもたらす責任と加害についてよく理解している。たとえ恋人をその愛に曝すことがあったとしても、ヒステリックに押しつけることはせず、醒めた表情で己の罪を見つめている。
 それに対峙する主人公の行動は拙いながらも真摯そのものであり、誰ひとりとして否定することがない。
 こうした自省的なトーンと誰ひとり欠けることのない博愛が、むずかしいテーマながらに本作をノンストレスな読み口にしたためており、非常に満足のいくところだった。

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉

伏字はネタバレ感想部分。

プレイヤーが登場人物たちへ感情移入していくにつれ、メタフィクション構造によってゲームとプレイヤーが切り離されていく仕様になっており、一見するとこれは物語体験的に失敗しているように思われる。しかし本作のストーリーは高次元の神によって支配された少女の悲哀にせまるものであり、神であるプレイヤーの手から離れていくことを歓迎すべきなのだろう。
本作のTrueエンドは支配された世界を受け入れたことで結ばれており、そうした視点でみると煮えきらない終わり方だったと言える。どちらかといえば少女たちの関係性を描くためのメタフィクションであり、キャラクターとプレイヤーの関係性についてはさほど真剣に考えられていない。そのため本作のメタフィクション描写はやや冷えた気持ちで受け入れていた。

【レビュー引用終わり】


発売日に秒で投稿したレビューなだけあってめちゃくちゃなこと書いてあるな。キスシーンは(さらっと)あります!

恋と愛の違いについて、恋は相手の都合を無視した気持ちのことで、愛は相手を大切に思う気持ちだとか言われることがある。誰しもが己の欲望を内省し、すんなりと愛の段階へ移行できれば難はない。だが実際のところそれは禁欲であり、満たされぬ渇きに襲われるものである。
『Sugar,sugar,sugarcoat』の少女たちはみな己の気持ちに折りあいをつけようと必死になり、そうして友人たちの前からすがたを消していく。やれやれ系のボーイッシュ・クラリスも、愛され妹系ツインテ・ミシェルも、心のなかに満たされない想いを抱えている。「来年もいっしょにいよーね💓」と誓ったのに、新年度にはもう登校してこない。そういうタイプの女性たちばかりだ。

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉

(個人的にツインテールの妹系キャラはあまり好みではなかった。しかし『Sugar,sugar,sugarcoat』の数あるキャラクターのなかでミシェルが一番気に入った。彼女のお淑やかな言葉遣いや、愛くるしいすがたからは想像もできないほど冷めきった心の内、その温度を反映したスチルなどが理由にあげられる)

わたしたちが恋愛シミュレーションゲームをプレイするとき……攻略対象がいて、攻略対象に愛されたいと思うとき。攻略対象の好きなもの、好きなタイプ、してほしいことを考えたり、調べたりして、それに該当するような選択肢を選ぶ。そうすると攻略対象は喜んで、プレイヤーの分身であるキャラクターと結ばれることになる。
しかし相手の想いがもし破滅的なものだとしたら。もし誰かの望みが透けてみえるチカラが得られたとして、それを満たしつづけることが愛になるのはだろうか?
『Sugar,sugar,sugarcoat』において、マリーは選択肢のヒントを教えてくれる。すべての選択肢は二択で、ヒントは直接的でわかりやすいものばかりだ。そうして正解を選んでいったとしても、ヘレナはノーマルエンドにしかたどり着けない。正解を知ったうえでそれを満たすことを放棄しなければ、先を見ることはできない。

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉

主人公のヘレナは人の痛みがわからない。わからないから、正しくあろうとする。そんな彼女だからこそ、相手の欲望を理解できないとしても相手を愛そうとする。消えようとする相手をつなぎとめることができる。そこにあるのは相互不理解の愛だ。

こうした積みかさねがあるからこそ、ヘレナとマリーの……。これ以上は実際のゲーム体験を通じ、マリーの気持ちを知ったうえで望むべきだろう。

間違いなく百合ノベルゲームの歴史に残る傑作なのだが、日本語にしか対応していないこともあり、レビュー数がいまいち伸び悩んでいるようだ。しかし現状(2024年7月5日閲覧)は好評100%。定価はたったの500円。
あなたも『Sugar,sugar,sugarcoat』をプレイした数少ない人間のうちの一人になろう。

『Sugar,sugar,sugarcoat』〈pankuzufactory〉




『岩倉アリア』


『岩倉アリア』〈MAGES.〉


『岩倉アリア』〈MAGES.〉Switchで発売されたノベルゲーム。
もともと公式Twitterで告知されていたように百合要素を大きなテーマとして内包する作品で、それでいてメインジャンルをサスペンスとする。
1966年が舞台で、庶民の少女が上流階級の館に招かれ、同い年の少女と仲睦まじくなる。それを数十年後の未来から回想するといった流れは『ミーナの行進』〈小川洋子〉を彷彿とさせる。しかしサスペンスというジャンル設定や、ところどころに滲む血生臭さから察せられるように、骨子は類似しながらも『岩倉アリア』には猟奇的、悪趣味、ナンセンスな趣向が認められる。どちらかといえばスリラーと呼ぶのが正しいだろう。

では肝心な百合要素はどうかと問われると、想像以上だったという一言に限る。主人公・北川壱子の眼をとおし、絶世の美少女である岩倉アリアの造形、香り、所作などが色めきたって語られ、昨今の百合マンガの醍醐味ともいえる、少女が少女の身体性に薫陶するさまに途方もない文章量が割かれている。当然、物語の大部分は少女たちの絆のために費やされ、少女たちの絆のために終結する。メインとなる主人公・北川壱子と岩倉アリアの恋愛だけでなく、壱子に年相応の青春を感得させる友人・宮内スイとの友情はもちろん、サブヒロインとしてのロマンスルートも設けられている。

『岩倉アリア』〈MAGES.〉

レズビアン文学や官能小説のような本作がなぜ百合をメインジャンルに湛えなかったのか。それはサスペンスの内実、すなわち男性による性的搾取の数々をみれば俄に推測できる。
北川壱子は暴力をふるう父親と見て見ぬふりをする母親のもとに生まれ(あるいは里親?)、そこから施設や里親を転々とするもまともな扱いはされず、就職先の企業では多数のセクハラに晒され、とてもではないが希望のもてる半生ではない。岩倉アリアは貴族の娘として権力者たちに眼差され、ある種の"もてなし"をほどこす立場にあるし、父親の岩倉周との関係もカットシーンによって含みが演出される。
本作を貫くテーマはフェミニズム・シスターフッドだ。9つあるエンディングのなかには彼女たちが結託し男性の支配から抜けだすエンディングもある。しかしこうした性的搾取の描写は一部の百合好きにとってショッキングなものであり、しばしば非難やキャンセル活動を誘引する。不運なマッチングを回避したい思いから百合ジャンルを名乗らなかったのだろう。

ひろく百合ジャンルを展望してみると、男性による性的搾取をテーマにした百合マンガや百合小説、百合映画は点在するし、非百合雑誌の短編マンガや一般文芸、実写映画などではむしろメジャーなテーマと言ってもよい。フェミニズムの再流行やシスターフッドという語彙が広まるにつれ、男性中心社会に対抗する女性たちの連帯としてシスターフッド特集が組まれることが増え、その目録のなかで男性による性的搾取は必ずといっていいほど扱われる。
逆にみれば、このテーマは手垢がつくほど描かれている。この記事のマンガ短評でも書いたが、「久しぶりに毒親とクソ男と村社会が出ない女の友情漫画を見た」と言われるほど世の中の百合(と呼ばれる)短編マンガは搾取者としての男性や親が描かれることが多いし、女性どうしの絆をうたう一般文芸、とくに翻訳小説はもっぱらこの手の作品で、海外映画についても同じことが言える。

さきほどあげた一部の百合好きによる批判もこうした描写の繰りかえしに起因しており、わたし自身『岩倉アリア』のファーストインプレッションとして「(百合ジャンルとして見たときに)目新しさがない」と感じた面を否定できない。
しかしこれが商業ノベルゲームであることを考慮すると、上記の批判はズレていたと自戒できる。というのも今まで発売されてきた国内商業の百合(と呼ばれる)ノベルゲームでフェミニズムを意識した物語はあまりつくられておらず(寡聞にして、ではある)、こうした厚塗りの、いわば成人向けの潮流ではなくホラー・ミステリ系統のノベルゲーム然とした絵柄の百合ゲームも少なかったからだ(『ファタモルガーナの館』が百合との噂も聞くがプレイできていない)。
『岩倉アリア』は今までノベルゲーム業界では取りあつかわれてこなかった「女性どうしの絆と男性中心社会への反抗」というテーマに全力で取りくんだ作品といえる。間違いなくこれは女性どうしの恋愛、百合作品ではあるが、その源流は百合ジャンルでは周縁に置かれがちな一般文芸や実写映画にある。これが画期的な試みだということはなんとなく察せられよう。

『岩倉アリア』〈MAGES.〉

『岩倉アリア』と題されているが、この作品の主人公は北川壱子でもあって、むしろ岩倉アリアを作品を代表するにふさわしい格から引きずり下ろすような物語である。岩倉アリアは男性たちから信奉され、壱子からも遠い世界の存在として畏敬をあつめている。しかし壱子の目をとおして描かれていく岩倉アリアはむしろ年相応の……年よりも幼くみえてしまうほど……いたずらっぽさをもった少女であり、壱子との関わりをとおして神性から人間になっていく。
一方で壱子も、非人間的なあつかいから一転、上流階級のお眼鏡にかなったことから人間的な生活をあたえられ、岩倉アリアや宮内スイとの関わりのなかで年相応の少女としての意志を抱くようになる。老後を描いた本作のエピローグや回想構造は、ふたりの少女……女性が己の人生を掴みとった証明である。

声優の演技も非常に真にせまっており、性的搾取描写に拒否感が薄いようであればぜひ手にとってみてほしい。




『Baldur's Gate 3』
(2023年の補遺)


『Baldur's Gate 3』〈Larian Studios〉


『Baldur's Gate 3』〈Larian Studios〉は2023年8月にSteamPlayStation 5で発売され、2023年12月末に日本語対応したRPG。
2023年のGame of The Yearに選ばれたものの、まず原典『ダンジョンズ&ドラゴンズ』〈ウィザーズ・オブ・ザ・コースト〉の日本での知名度が低く、いまいち評価に納得できないというゲーマーの声がよく聞こえてくる作品だ。
多大な開発力が注ぎこまれたAAAタイトルということもあり、各レビューサイトではゲーム部分に注目した評価が中心になっているが、思うに本作はキャラゲー(キャラクターを愛でることを重視したゲーム)である。男女4人の主要登場人物がおり、それぞれに魅力的なストーリーが用意されている。プレイヤーはオリジナルのキャラクターを作るか、主要登場人物のどれかを操作して、最大4人の旅のなかで絆を深め、恋愛シミュレーションのようなロマンスも楽しむことができる。

『Baldur's Gate 3』はLGBTQ+フレンドリーな仕様を取っており、オリジナルキャラクターの性別が「男・女・ノンバイナリ」から選べ、ロマンスの相手も男女問わずおこなえるし、同性愛への特別視もない。恋人を人質にとられた女性モブキャラクターの相手が同性だったりと、世界の各地で同性愛を見ることができる。
サブキャラクターで特徴的なのはやはりデイム・エイリンだろうか。彼女は恋人の父親の策略によって自由を奪われている。恋人ともども開放するとプレイヤーに付きまとって協力するようになり、「私の彼女」だとか「愛しの◯◯」だとかあらゆる代名詞で彼女のノロケを話し始める。

デイム・エイリンは彼女への愛情か義父への復讐のふたつしか無いようにみえるほど一直線な性格をしているが、『Baldur's Gate 3』に登場する女性キャラクターたちはみな大型犬のように純粋だ。
たとえば主要登場人物のひとりであるカーラックはとある理由で心臓が地獄の炉になっており、高い体温から人と触れあうことができない。悪魔のような見た目とは裏腹に「ふたたび人と触れあうこと」を目的として旅する彼女は気さくで童心にあふれており、心臓にかかわる勢力を目にすると怒りで我を忘れてしまうこともある。

『Baldur's Gate 3』〈Larian Studios〉

物語のプロローグで同行することになるレイゼルとシャドウハートも例に漏れない。
レイゼルは「ギスヤンキ」という多元世界を股にかける種族であり、ほかのギスヤンキと同じように種族の長を信奉し、ほか種族のことを劣等種族として見ている。当然ヤバい種族として認知されている。
シャドウハートは「シャー」という女神を信奉しており、ある任務によって記憶が抹消されている。シャーの信徒たちは痛みを神の贈りものとして受容し、最終的にシャーのために自我を捨てることを誉れとしている。当然ヤバい宗教として認知されている。
のっぴきならない理由で協力関係になるものの、お互いがお互いのことを罵りあい、とてもではないが仲間と呼べるような距離感ではない。よりにもよって、レイゼルが種族の長に命じられている目標とシャドウハートが神に命じられている目標が同一のものであり、ともに旅する仲でありながらお互いを牽制しあうようなレスバトルが繰りひろげられる。

しかしストーリーを進めることで、レイゼルは種族の長を、シャドウハートは宗教を疑問視するようになり、今まで信じていたものが間違っていたという境遇を通じ、徐々に互いを認めあう仲間になっていく。

『Baldur's Gate 3』〈Larian Studios〉

そうしてふたりは幸せなキスを……と言いたいのだが、『Baldur's Gate 3』はあくまでも主人公とのロマンスを重視しており、好きなキャラクターどうしをキスさせあうようなシステムはない。ゲーム開始時にレイゼルかシャドウハートをプレイヤーキャラとして選んでいれば可能だが、オリジナルキャラクターを採用できるのはプレイヤーキャラのみであり、二者択一の状態にある。
わたしはといえば、オリジナルキャラクターとして詩人でパワー系のハーフオーク♀というナリで始めたにもかかわらず、もっぱらレイゼルとシャドウハートの仲を言葉と音楽で中和させるという苦労人みたいな立ちまわりをさせられた。ガールズバンドアニメか? バンドアニメの主人公に常識人はいない。

そんなことを言ってたらパッチノートでがっつりレイゼルとシャドウハートのキスシーンがサムネイルとして選ばれていた。需要を理解している! でもなんか記事内で見れないんですけど!  これってベイティングですか?


Girls of The Year受賞作品『Baldur's Gate 3』は8500円からお求めいただけます。左右の罵りあいに挟まれる気分を味わおう。



短評
『未解決事件は終わらせないといけないから』
『奇癒ダンジョン』
『TO:NORTH』
『ステータス確認探偵』
『クレーのうさぎのぬいぐるみ』


『未解決事件は終わらせないといけないから』〈Somi〉

『未解決事件は終わらせないといけないから』〈Somi〉Steamで発売されたミステリ・パズル・アドベンチャー。
少女・犀華が行方不明になり、解決の糸口が見つからないまま未解決事件になって十数年。過去の記憶の断片を整理しながら、事件の真相を突きとめていく。わかっているのは、この事件にかかわる誰もが嘘をついているということだけ。

『未解決事件は終わらせないといけないから』はあくまでパズルゲームであり、バラバラになった証言を正しい時間軸にならべかえることで、また新しい情報が追加されるというサイクルが主体になっている。複数の視点から犀華や犀華の家族になにがあったのかが語られる形式なため、言うほど百合要素を体験できるタイミングがない。
しかし物語からは仄かにシスターフッドの色香を感じられる部分があり、個人的には女性特有の悩み(フェミニズム)や女性たちの結託を描いた作品として受けとった。韓国フェミニズム短編集でもしばしば見かける題材であり、日本の小説だがおなじく上半期に刊行されたシスターフッド小説『カフネ』〈阿部暁子〉でも片鱗がみられる。
より偏屈なオタクとして展望すると、真相が明らかになりつつある中盤からかの暗黒おねロリマンガ家・伊藤ハチの波動を感じずにはいられなかった。これ暗黒おねロリじゃん!と察することで推理が進めていくかなり邪な探偵ムーブをした。この文章を読むことであなたも暗黒おねロリをベースに推理を進める探偵になってください。

『【創作漫画】姉の秘密【百合】』
〈伊藤ハチ〉

パズルゲーム部分がミステリのトリックや登場人物の心理と深くシンクロし、作品全体の調和が堪能できる『未解決事件は終わらせないといけないから』はSteamの最高評価である「圧倒的好評」を頂いている。100周して未解決事件解決のエキスパートになろう。

『奇癒ダンジョン』〈Bread On Board〉
(GCORES PUBLISHING)

『奇癒ダンジョン』〈Bread On Board〉Steamで公開されたパズル・アドベンチャー。「キグウダンジョン」と読む。無料です。
中国のゲームジャム「BOOOM CHALLENGE」でユーザー人気1位を獲得し、Steamでも最高評価の「圧倒的好評」を頂いている。1時間程度で終わるので感想を読むよりやったほうが早いともっぱらのウワサがある。

新米勇者と元傭兵の治療術師がダンジョンを攻略しにきたが、とある理由でふたりとも記憶をうしなっている。利き手の使いわけで攻略していく戦闘のあとには、倒すか浄化するか見逃すかの3択があり、選択肢によって3つのエンディングに分岐する。戦闘は既定数あって、進行していくにつれふたりの記憶や世界の仕組みがあきらかになっていく。

百合ジャンルとしては友情百合に該当するが、どちらかというとメルヘンでほんわかしたタイプのカップリングになる。わたしがしばしば記事で紹介している児童文学などが好きなひとなら特に気にいるはずだ。

〈VODKAdemo?〉より

『TO:NORTH』〈realkey〉itch.ioで公開されたアドベンチャー。またしても無料
本作の登場人物はみな性別を特定させない描きかたをされているが、これが百合だと嬉しいし女性的な要素も多めなので友情百合だと思います。わたしがそう判断した。

ゲームボーイ調のアドベンチャーで、ノースという登場人物から命令をうけ方向キーによってキャラクターを操作していくが、絶対に南(下)へ行くことはできない。できないというかめちゃくちゃ怒られる。
ノースはなにかに怯えているようで、どうしても最北端に行かなければならないという。道中にはあたりさわりのないオブジェクトやNPCが多数配置されているが、「南」を向くことで画面が一変し、NPCや新規オブジェクトからことの背景が語られていく。
序盤から早々と明かされるようにこれは現実の世界ではなく、物語内物語としてSFチックな世界観になっているだけで、現代日本を生きる人間の話だ。
ノースには強い友情を感じさせる人間がいて、その人間に対する罪の意識がノースを駆りたてている。

作者のネタバレあとがきで「ゲームのシステムと物語がコンセプト上で密接にくっついているやつ」と語られているように、やはり感想文ではなく実際にゲームをプレイしたほうがはるかに良い体験ができるはず。スマホでもできるし昼休みにやれ!

『ステータス確認探偵』〈風切羽〉

『ステータス確認探偵』〈風切羽〉BOOTHふりーむ!で公開されたミステリアドベンチャー。圧倒的無料
登場人物のステータスが確認できる、人を倒すと経験値が獲得できる、回復中はエフェクトで光る、インベントリとアイテムはグリッド式で整理が必要、などなどゲームあるあるを活かした画期的な推理ゲーム。

百合要素はほとんどなく、主人公と補佐役が夫婦割の恩恵を受けるために同性婚している程度で、そちらには愛をささやきあうような掛けあいもない。しかしトリックを明かしていくうちに隠れていたレズビアンカップルが判明する仕組みがあり、諸々のゲーム体験をふくめて面白さがあった。

作者の風切羽氏はミステリ作家「榊林銘」としても活躍しているようで、おなじく上半期に刊行されたミステリ小説『毒入り火刑法廷』〈榊林銘〉も百合要素があるらしい。興味をもった方は読むかプレイしてみるといいだろう。

『クレーのうさぎのぬいぐるみ』〈赤瞳大白猫〉

『クレーのうさぎのぬいぐるみ』〈赤瞳大白猫〉は2020年にSteamで発売されたホラーアドベンチャー。原題は『喵可莉的兔玩偶』で、2024年の3月から5月あたりにさらっと日本語対応された(ニュースもパッチノートもないので本当に気づけない)。

百合ジャンルとしてはヤンデレと姉妹百合に該当し、恋愛要素はないが強い絆が楽しめる。
一方注意が必要な表現として頻出するスプラッタ、軽度のホラー、NTR、深刻なパンデミック(ペスト)と黒化した死体がある。萌え萌えネコミミ美少女にあわせる題材が黒死病なことあるんだ。

ストーリーはけっこう複雑で、後日談DLCや続編のアクション『にゃるるファイト!』〈赤瞳大白猫 / 猫尾巴制作组〉をプレイしないと全貌が把握できない。興味がある方はこちらも検討してみよう。




雑記


大大大遅刻により語れることがない。統計作業はほそぼそと続けている。

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