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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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あの百合作品もすごい! 2022

原則として(単行本が)2022年内に発売された作品を対象とする。
うち、続刊が重ねられていないものを優先的にあげていく(おおよそ3巻以内)。
(記事のカバーイラストはなかでもお気に入りの『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』より借用)

『彼女。 百合小説アンソロジー』/「百合である値打ちもない」



百合とは窃視の文化だ。
それは対象を一方的に鑑賞するよこしまな眼差しで構成されている。

フィクションにおいて美男美女しか描かれない問題は百合にかぎる話ではないものの、美しさが重視されやすい女性という性を複数かかえる都合か、あるいは百合という名がもつ美しさの印象をともない、当ジャンルは鑑賞対象にもとめる美の水準が高い。
(アニメにくわしい人間であれば背景のモブですら美少女しか登場しない百合アニメをみたことがあるかもしれない)

2022年初頭に出版された『彼女。 百合小説アンソロジー』において作家・斜線堂有紀が書く「百合である値打ちもない」は、そのジャンル傾向を自覚的にとらえている。

それは女性プロゲーマーふたりによる配信者コンビを主軸とした作品だ。
しかしふたりの容姿は釣りあわず、片方は美人で片方は普通未満とされている。

 乃枝の顔は明らかに引き攣っていた。隠しごとが出来ない人間だ。彼女が感じた動揺や怒り、そして悲しみが如実に伝わってきて苦しくなる。
 乃枝がウインドウを閉じる直前に表示されていたコメントを反芻する。

 >ノエの隣にいるとママユのブスさが際立って悲惨
 >顔でかすぎ。ノエとどんだけ違うの

斜線堂有紀「百合である値打ちもない」

普段からゲーム配信(とくにFPSジャンル)を見慣れている人間であれば、そのリスナーがもつ冷笑的な態度を否定することはむずかしいかもしれない。
男性プロゲーマーですら容姿を揶揄される環境で、女性プロゲーマーにたいする審美のコメントはときに嵐のようにもなる。

容姿に劣る女性プロゲーマーはそれら観測者のあざけるようなまなざし、なによりも相方から向けられる感情にいたたまれず、整形という手段に乗りだす。

このテーマを扱うにあたって作者がえらんだ配信者文化という舞台は適切だったというほかないだろう。
配信者と視聴者という関係は百合ジャンルがもつ一方向的なまなざしをほどよく仮託される。
視聴者にとって配信者とは「コンテンツ」であり、それがおなじ次元に生きる人間であってもフィクションのように弄ぶことをよしとする。
配信画面という額縁をとおすことによってふたりはまさしく美術品であり、その美醜を品評する行為は隔たりによって支持され、加速する。

また、容姿がすぐれているほうの女性プロゲーマーは相方の容姿について言及を避けるような素ぶりがみえるものの、好意を告げることになんの躊躇もない。
これも舞台設定の巧が奏しているといえよう。
ゲーマー同士ゲームをつうじて親しくなり、顔を知らぬまま交流をすすめていく過程は、上記の言及を真実らしくする。

この作品の真髄は結末にある。

「だって真々柚が整形したら、みんなの言葉が変わったじゃん! 乃枝は真々柚の顔がどんな顔でも好きだし、全然愛は変わんないよ? だから、……だから、周りが認めてくれる方がいい! 周りがいいカップルだって認めてくれる顔がいい!」

同上

「真々柚のこと好きだよ。ずっと好き。ねえ、誰からも認められなくていいって言えなくてごめん。乃枝と真々柚がお似合いだって、そう言われたくて、だから、整形してくれてありがとうって、言うようになっちゃってごめん」

同上

鑑賞者のまなざしのなかで相方個人の好意は無力だ。
容姿なんて関係ない。そんな想いをもっているにもかかわらず、ふたりで生きていくために、容姿先行の世界へ順応することに感謝の言葉をいいあらわさずにはいられない。

ふたりの生きざまが社会によってねじ曲げられながら、それでいて幸福をつかんだかのようにみえる……こうしたエンディングをメリーバッドエンドのひとつとしてとらえることができる。

日本における女性同性愛の文化は1910年代の心中事件によって世に知らしめられた。
抑圧されつづけてきた同性愛においてメリーバッドエンドは悲しいまでに相性がよく、古今東西の百合作品でその結末がかたどられてきた。

ともすればこの作品は、メリーバッドエンドの結末をとることによってまさしく「百合である値打ちがついた」といってしまえるだろう。

「……私達は、百合でいる値打ちがあるんだ! ざまーみろだ! 私は、私は乃枝と絵になるんだ! 幸せになるんだ!」

斜線堂有紀「百合である値打ちもない」




『N/A』



学生およびそれ以下の年齢にたいしてよく発される言葉がある。
「今はまだなにものでもない存在」というあまいささやきだ。
しかしこの世界を認識する生命である以上、「なにものでもない存在」でいることは困難をきわめる。

年森瑛『N/A』を百合作品として紹介するのは実態に即していない。
主人公・松井まどかがボーイッシュな見た目で女子校の王子としてたてまつられているのは、彼女がそのジェンダーロールをのぞんだからではない。
「ただ股から血が出るのが嫌なだけ」。意図的にゆがめられた生理現象の副産物なのだ。

 まどかは、ただ股から血が出るのが嫌なだけで、みんなのように嫌々言いつつも毎月やり過ごすことができなかっただけで、美しいとか、汚いとかは、どうでもよかった。

年森瑛『N/A』

本作品のあらすじとして、同性の恋人の存在がしばしば宣伝された。
が、内実としては空虚さが押しだされている。

 どうせ今日も帰る頃には話の大半を忘れている。忘れてしまうような時間が過ぎていく。覚えていられないくらい楽しく過ごしていたならよかったのに。まどかはうみちゃんのことをほとんど知らず、ただうみちゃんを形作る輪郭の、実際どうだか分からないおぼろげな線をたより付き合っているだけだった。

同上

『N/A』はふわふわとした小説だ。
これは悪口ではなく、なにものでもない、自己がはっきりしていないころの独白をうまく抱きとめているといえる。
生理をとめる理由に「血が出るのが嫌」以上の説明が出されることはないし、主人公が恋人関係のかわりにもとめる「かけがえのない他人」という属性も具体例があるとはいえない。

本作品の趣向を以下の一文から曲解することができる。

いっそ犬になりたかった。オスとメスの判別もつかない落書きみたいな絵柄の、本当に犬なのかも判断できない毛むくじゃらの生物として人々の間を行き交って暮らしたかった。でもまどかはこうして親指だけを素早く動かせてしまうので、犬になれそうにない。

同上

すなわち、性を中心とし血をもって生きる「生物」になりたくないのではないか?
上記引用内の「生物」とは性も血も存在しないファンタジーの概念なのではないか?

ともすれば同性間といえども恋人関係がそぐわないのも納得できる。
うみちゃんは主人公の性的魅力にひかれてつきあいはじめたからだ。
「血が出るのが嫌」とは自身が血をもつ生物であること/性をもつ生物になっていくことを否定するための行為なのではないだろうか。

作品全体をとりまくふわふわとした……真綿のような閉塞感/無力感は、まさしく具体的な道すじをあたえられなかった思春期をうまく形容している。
近年で周知がすすんできた低用量ピルなどが登場しないことはむしろ、そういった雰囲気をかもしだすためにあえて取りいれられなかった可能性もある。

本作品はともすれば雲をつかむような話でもあり、万人におすすめできる小説ではない。
反恋愛主義な主張をとりながら、むしろ主人公に手痛いしっぺがえしをぶつけるような自罰的態度もそれに輪をかけている。

下世話なことをいえば、同性愛への理解がすすみ同性同士の幸福な物語がふえたいまでは、苦味を欲している自分を否定できなくなっている。
というわけで、珍味としてあつかいたい。




『回顧 冬虫カイコ作品集』/「ふたりの色目」



大見出しでしめした「ふたりの色目」(『回顧 冬虫カイコ作品集』収録)とは上記Tweetのマンガである……それとはまったく関係ない話を最初にやります。


2021年、ある百合作品が(個人的に)大きなインパクトをのこした。
PDFにして502ページにおよぶ博士論文に掲載されたオリジナルの百合マンガである。

マンガ『はじめてのおつかい』は、同著者による博士論文『現代マンガにおける「かわいいキャラクター」の分析と創作』において量的研究によりみちびきだされた「かわいいキャラクター像」と「かわいい要素が最も少ないキャラクター像」による百合マンガだ。
単独のキャラクターのみを対象として「かわいい」要素の調査をおこなったのち、ストーリーマンガによる文脈づけ、ふたりのキャラクターによる相互作用などを調査する目的で製作されたものとうかがえる。

上記論文は前半部で「かわいい」研究のおおまかな俯瞰図をしめし、後半部はマンガにおける「かわいい」キャラクター像をさぐるべく量的研究がなされている。
唐突にさしこまれる百合マンガのみならず、直接百合文化を名ざしする筆致や「きらら系」をはじめとする周縁ワードの提示など、ところどころに百合文化へ目くばせをするような仕草が散見される。

論文内で「かわいい」文化のルーツとして戦前の高等女学校制度、それにともなう少女雑誌文化などがあげられているように、そのルーツは百合文化のそれと重なる部分がおおく、それらは女性間のコミュニティにおいて醸造されてきた。
また2000年代の「かわいい」文化の変遷として『まんがタイムきらら』などに代表される萌え4コママンガがあげられているように、その発達の仕方についてもいくつか類似点をみつけることができるだろう。
「かわいい」文化へのまなざしを題材にするならば、百合マンガという形式は適任であるといってもよい。

これらの知識を前提とすると、大見出しの作品はロジカルに構成されていることがわかる。

冬虫カイコ「ふたりの色目」

『回顧 冬虫カイコ作品集』は全編をとおして女性同士の(暗い面をおおいにふくむ)絆を中心とした短編集であり、前時代的な風習に抑圧される女性たちをえがいている。
例にもれず「ふたりの色目」も百合マンガとなる。

それは「かわいい」という語彙がもつ多面性をピックアップした作品になっている。
「かわいい」がもつ複数の意味は先行研究によってしばしば指摘され、古語や他言語と複数の単語で対照されることがおおい。

その点で老齢の古文教師というキャラクターデザインは的確といえる。
現代語と古語の対訳にくわしいのはもちろん、(作中の年代はあかされていないが)いまの時代で老齢といえば「かわいい」文化の原点、戦前の女学校制度にちかしい人間だからだ。

「かわいい」とは対象を「弱々しい」「無害なもの」と認識することでうまれる感情であり、コミュニティ間で感情を共有すること目的にくりかえされるチャントでもある。
物語序盤で忌避感をしめされるように、それはホモソーシャル的ななれあいを強化する意図をふくむ。
近代の「かわいい」を複数の古語で理解したいまでも、老人は過去の経験をぬぐえずにいる。

「かわいい」は近年めざましく変容した語彙であり、古典はもちろん20世紀のそれらとも微妙にことなるニュアンスをふくむ。
論文によれば、「かわいい」のネット検索数は2012年~2016年を期に急激に上昇した。
近年では英語圏の「kawaii」などでみられるように、それ自体が独特のファッション/アート・スタイルをさししめすものにもなっている。
老人の対になるキャラクターがファッションに興味のある若者であるのも合点がいく。

このように「ふたりの色目」は「かわいい」文化研究を翻案して構成されていることがわかる。
上記論文が公開された時期と「ふたりの色目」が公開された時期はおおよそ一年ほどの差であり、冬虫カイコが直接参考にした可能性も十分にあるだろう。

もちろんこうした先行研究での目くばせがあるので誰でもかける、とか野暮なことをいうためにかいつまんだのではない。
作家の着想を追いながらそれをまとめあげた手腕を称賛したい、淡白なきもちだ。

同上




『ポラリスは消えない』



嶋水えけ『ポラリスは消えない』は死んだアイドルのなりかわりをする百合マンガだ。

嶋水えけ『ポラリスは消えない』

類似作品(あるかどうかはともかく)とちがうところは、それが破滅願望ともとれる狂気によってうごかされていることだろう。
アイドルの死去は衆目の知るところであるにもかかわらず、故人のすがたで路上ゲリラライブ、ネット配信、果ては元メンバーの生放送ラジオに突撃する。
それはほとんど……無敵の人によるテロ行為といってしまってもよいのではないか?

百合文脈であれば心中・後追い自殺、および対象との合一化願望は華々しくあつかわれてきた題材である。
対象の名やすがたを借りた状態でおこなうテロ行為は、死すれども記録が生きつづける情報化社会においてもっとも現実的な融合方法といえるだろう。

『ポラリスは消えない』で特筆すべき点、それは男子高校生とのW主人公になっていることだ。

狂気をまとう主人公との橋渡し役に、一般的な価値観をもつキャラクターを視点として採用するのは推奨される行為であり、めずらしくない。
しかしセンセーショナルな題材において女性同士の組みあわせは、その共感能力の高さから狂気の伝播をおこしやすい。

嶋水えけは百合専門誌『百合姫』でも読切の掲載があった百合マンガ家だ。
生粋の百合作家であればそのような共鳴も想定できたはずだ。
であればもっと遠い属性……女性的な感情を理解しえないような存在が必要になってくる。

一部百合愛好家において男性は忌避される属性だ。
男主人公が存在する本作品を百合とみとめない人間もすくなくない。
百合作家が男主人公を採用するにいたるまで、どのような葛藤が想像できるだろう。
『ポラリスは消えない』の男主人公は、百合作家が百合を考えぬいたうえでうまれた最適解なのではないか?

同上より抜粋
「消えちゃえばいい」。彼女は自分自身をそうとらえている。




『デバヤシ・フロム・ユニバース』



この記事は女性の美醜、ルッキズムの話からはじまった。
すべての女性が他人から容姿をジャッジされる星のもとに生まれているのであれば、衆目をあつめながらにして容姿端麗を重視されない(むしろ個性的であるほどよい)女性お笑い芸人の道は、まさしくちがう惑星の話と呼べるのではないか。

神崎タタミ『デバヤシ・フロム・ユニバース』

神崎タタミ『デバヤシ・フロム・ユニバース』の主人公・文塚祝は作品内でしめされているとおりイカれた女芸人だ。
みずからの人生を笑いについやし、元相方とのケンカ別れに離別よりも漫才ができなくなることを危惧する。たとえ命の危機を前にしてもボケることをやめない。
お笑い星人の文塚がホンモノの宇宙人を相方にもつことによって相対的に人間性をたしかにする……そんな百合である。(よりイカれ具合が明確になっただけにもみえるが)

宇宙人をまじえることで各キャラクターの笑いにたいする情熱を引きだしていく本作だが、あまり知名度が高いとはいえない。
これはおそらくターゲット設定の問題とおもわれる。
というのも百合マンガと呼ぶにはあまりにも主人公の狂気に比重がおかれており、週刊少年ジャンプでしばしば掲載されるようなカルチャー系少年マンガとしては百合マンガ然としすぎているからだ。

とはいえ本記事は百合を紹介すると銘うっているので、最新2巻から以下のシーンを抜粋したい。
芸人の道をあきらめ、一般女性として生きていくことをきめた元相方とのやりとりだ。

同上

式のあいさつとして元相方にしかわからないネタを披露することで信頼関係をノスタルジーににじませるシーンだが、おもえば元相方は学生時代からやばい女であったのは自覚したうえで振りまわされていたわけで、都度DV夫のようなやさしさにほだされていたんだろうな、と裏読みできそうな一幕でもあった。

同上




『妖精のおきゃくさま』



人間と異種族のひみつの関係。日常のほのぼのとした交流。
それらを描くマンガ作品は枚挙にいとまがない。
そして共通の弱点をもつ。
ひみつの関係である以上、クローズドな、拡張性に問題がある舞台になりやすく、日常ものである以上、ハラハラドキドキさせる展開を望まれてない(そういった先入観があるため展開させづらい)のだ。

脇田茜『妖精のおきゃくさま』はバランス感覚にすぐれたマンガだ。

脇田茜『妖精のおきゃくさま』

異文化交流という名目から洋裁という題材をマニアックになりすぎない距離であつかい、あくまでふたりの共同作業というかたちで初心のよろこびに立ちかえっていく。
その背景には種族・妖精の因習などがかげりをみせるものの、一話完結としてライトなよみくちにおさまる範囲で展開されている。

しかし本作は日常を消化していく作品にとどまらなかった。
洋裁店の作業部屋に閉じられていた世界が一転、妖精が外部の小学生ふたりに捕縛されてしまうのである。
2巻からは毎話クリフハンガー的なヒキが用意され、作品の非凡さがあきらかになっていく。

同上

……と、ここまでかいたところで2巻の最後に「Epilogue」としるされていることに気がついてしまった。
ようは2巻完結のマンガらしい。
わたしはいまとてもかなしくなっています。

最終話にむけて物語を加速させる作品はよくみられるものの、本作の秀逸さがそこなわれることはない。
ふたりの小学生はともに周囲からは浮きこぼれる個性をもち、おなじ境遇をもつ妖精とともにドラマティックに展開していく。
その根底には作者の洋裁への愛情、若々しい個性への庇護のきもちをみてとれるだろう。
(本記事でさきにあげた『回顧 冬虫カイコ作品集』/「ふたりの色目」との共通点もおおくみられる作品だ。メッシュの入ったキャラデザに同時代性をかんじる)

いってしまうと2巻完結に気づいた時点で取りさげるかなやんでしまった。
完成度が高いがゆえに紋切り型の褒めことばしか書けないのもむずかしい。
「感想が書けない」という理由で掲載をやめてしまうのはもったいない、陳腐の文面をひきかえにしてでも知ってほしい作品である、と結論にたどりついたのでこのようなかたちをとった。

オススメです。




『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』


【終末百合音声】イルミラージュ・ソーダ 〜終わる世界と夏の夢〜【CV_奥野香耶】


ASMRブームによるバイノーラル録音の一般化はボイスドラマにおおきな影響をあたえた。
キャラ×キャラの対話劇ではなくキャラクターが聞き手に話しかける形式への移行、リアルさの重視によるBGM・非現実的非バイノーラルなSEの廃止。
ASMR中心の作品がおおくを占め、旧形式のボイスドラマはもはや片手で数えられる程度にしかリリースされない。
(あるいは少数だったボイスドラマをボイスドラマ風ASMRが覆いつくしたのかもしれない)

『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』はサークル「SukeraSono」による同人音声作品だ。
エスペラント語がまなべる百合ノベルゲーム『ことのはアムリラート』で有名な「SukeraSparo」の音声作品専門レーベルで、バイノーラル録音を利用したキャラ×聞き手の百合ボイスドラマを多数リリースしている。

では本作品もバイノーラルボイスドラマなのか……その予想は最初の音声ファイルで裏切られることになる。

「01_Introduction:泡沫の蜃気楼」はウィスパーボイス、ソーダの開封音を皮切りにはじまるアンビエント・ミュージックだ。
個々のサウンドはASMRでよく耳にするような素材であるものの、それらが響きあうことでボイスドラマとしては場違いなメロディを構成している。

昨今のボイスドラマではBGMが撤廃されていると述べた。それにつきOPなども簡単なタイトルコール、あるいは存在しないことがおおく、このようなオリジナルの、しかも本格的な音楽が設けられているのはめずらしい。
さらに一般的なアンビエントと異なる点として、曲中のウィスパーボイスがなんらかの意思/人格をもって聞き手に語りかけていることがあげられる。

【終末百合音声】のラベルを確認しよう。購入したフォルダには「記録音声」とつづられたあやしい音声ファイルが6つ。そのあとには謎のモールス信号で名づけられた音声ファイルが6つつづいている。

これらは現実らしさが重視されるバイノーラル音声作品としても、SukeraSonoのほか作品とも質感を異にする。

ASMRへの目くばせ、ボイスドラマとしてのストーリー性、高い品質で練りあげられた5分間のアンビエントは現実と異質な作品世界をつなぐ重要なトラックのひとつになっている。

先にいってしまえば、本作はボイスドラマながらに巷の音楽評論家から好評をうけ、上半期のベストアルバムとしてあげる人間も確認できる。
もちろん後述する作品全体の「しかけ」をふくめての評価だとおもわれるが、その多くは「01_Introduction:泡沫の蜃気楼」がASMR/ボイスドラマ/アンビエントそれぞれの要素を高い水準で融合させていることに由来する、といっても過言ではない。

イントロでとやかくいうのはここまでにして、本編に入る……までに参照したい作品がある。
「百合」と「アンビエント」の組みあわせでピンとくるひともいるかもしれない。

劇場版アニメ『リズと青い鳥』だ。

『響け! ユーフォニアム』シリーズのスピンオフとして公開され、その画づくりの繊細さ、こまかすぎて伝わらない演出の完成度によってカルト的人気をえた『リズと青い鳥』は、じっさいの学校内で録音された環境音によるアンビエントを劇伴とする。
SEともBGMともつかないような曖昧さをもちながら、ときにキャラクターの会話/仕草/感情に呼応するようひびくアンビエントは、映像とのシンクロ率から高い評価が散見されるだろう。
主役ふたりを見まもるような引きの構図、学校用品の鳴動するようなどよめき……「壁になりたい」という百合オタクの思想を体現した……かはともかく、後世の百合作品に多大な影響をあたえている。

なぜここで参照したかといえば、『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』のドラマパートがSEともBGMともつかないのような、会話に呼応するアンビエントで彩られているからである。
これはバイノーラルボイスドラマでは非常にめずらしい。
ASMRとして聴くことを目的とした発されたモノの音(耳かきや水音)とは異なり、あとづけされたような現実味のないSEは没入感を阻害する。

しかし本作がボイスドラマとして異色なことはもう十分わかっているはずだ。
となれば、キャラクターが話しているだけで謎の重低音が聴こえたり、ノイズのようななにかが聴こえてもおかしくない。
なにせ舞台は「世界の終わり」、終末なのだから。

もっともらしい与太話をする。
1882年、エティエンヌ=ジュール・マレーによって連続写真撮影機が開発された。のちの映画撮影機の原型である。

エティエンヌ=ジュール・マレーの写真(1890-91)

いままでの静止画とも現代の動画ともちがう、一枚におさめられた「動き」の記録にある疑問が浮かびあがる。
いわゆる静止画ではなくこの写真の溶けた「動き」こそがわたしたちの眼にうつっているほんとうの姿なのでは?

マルセル・デュシャン『階段を降りる裸体No.2』(1912)
デュシャンは連続写真に影響をうけ、「動き」を一枚にとらえようとした。

この疑問を聴覚にも転用しよう。

ある状態ではふつうな印象だった曲が、落ちこんでいるときに聴いたらすばらしく胸をうたれた経験はないか。
おなじ楽曲であっても自宅で聴く場合とドライブのお供にする場合、ライブ現地で楽しむ場合では大きく異なって聴こえるのではないか。
あるいは、日本人であればほとんどの人間がセミの大合唱をあびる。そこから急に静かな空間へ移動したとき、脳内にセミの声が残響する感覚はないだろうか。

世界の終末という場で、アオハル的な体験がともなうのであれば、本作のように拡張された聴覚体験こそより現実に準拠した聴こえかたなのではないか?

こんなことをいうとイロモノに聞こえるかもしれないが、本作は現実的な音に対してもこだわりが随所にみられる。
サイダーの炭酸音やガラス玉の音、屋内プールの反響音、なかでも水中に飛びこんだ際の処理に関しては抜きんでたものがある。
超現実を再現するにあたって現実をおろそかに扱っていない点も作品の評価をたしかにする所以である。

ここまでが本編のドラマパート、「記録音声」と名のつく6つのファイルのおおまかな評価だ。

おそらくもっとも興味をひかれるであろう謎のモールス信号で名づけられた6つの音声ファイルについてだが……いってしまうと轟音のノイズ音声になる。
ノイズである。音楽とかではなく。

このパートは『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』でもっとも重要なパートであり、もっとも前提知識を必須とするパートでもある。

『The Caretaker』という音楽プロジェクトをご存知だろうか。
アーティストについての説明は(わたしもよく知らないので)省くが、「記憶障害」をテーマにした6つのアルバムだ。
各アルバムは同じ音楽の繰りかえしであり、アルバムが進むにつれ劣化していき、最後はノイズまみれになる。

『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』の『The Caretaker』オマージュは明確で、本編ではしばしば「記憶」が言及されることもそうだが(ファイル名は『記録音声』だし)、音のぬけたドビュッシーの『月の庭』(?)がながれるシーンなどにもみてとれる。
また本編後のノイズ群には賛美歌のようなものがながれる一節があり、これも『The Caretaker』の結末を意識したものとおもわれる。

ド直球のネタバレになるのだが、このノイズ群のどこかにドラマパートのつづきがある。
本編ドラマパートの結末は、キャラクターが世界の真実にふれるにつれノイズがフェードインしていき、「わたしのこと、みつけて」と残して消えていく。
聞き手は本編後に用意されたノイズパートを聞きわけ、文字通り彼女を探しだすことになる。

音声作品は受動的な表現形式だ。
聞き手はあくまで作品を視聴することしかできない。
本作品は「さがす」という能動的な体験に取りくんだ点でも先鋭的といえる。

もちろん近年の音声作品では選択肢的なパートわけや2周目用の音声などを用意している作品はよくみられる。
だが「終末百合」という世界観のもと、複数の実験的なこころみにコンテクストを接続していった『イルミラージュ・ソーダ ~終わる世界と夏の夢~』は多大な評価に値するだろう。
前半で述べたように、本作品をベストアルバムとしてあげる人間がおおいのも納得の出来である。




その他/気になった作品


『ぼっち・ざ・ろっく!』



わたしはアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』を語る言葉を持ちあわせていない。
この作品の感想は「とても・アニメが・すごかった」で事足りてしまう。じっさいにとてもすごいアニメなので、実態に即している。

際立っていたのは最終回の構成だろう。
本来トリとして任せられるはずのライブシーンは序盤でおわり、ピロートーク(意味深)のような楽器店でのやりとりや、家族がカゲから音楽活動を応援していたことなどがあらわされ、一話との対比(ギターをかつぐシーン)も相まりながら、後藤ひとりがひとりでないことを明示する最終回になっている。
作品コンセプトの徹底、すなわち後藤ひとりの孤独を主軸とする名采配であったといえる。

顕著な点としてライブシーンのこまかいやりとり(カップ酒を手にとる後藤をみて尺をかせぐ山田と伊地知のアイコンタクト。およびそれが時間差であきらかになるアニメVerとフルVerの曲の差)や楽器店のやりとり(ギターをながめる後藤をみて楽しそうだと解釈できる伊地知。演奏したいきもちを汲んで解散を提案できる山田)があげられる。
これらはすべてアニメオリジナルの演出となる。(親から広告収入を渡されるシーンも原作では父親だけだったが、アニメでは母親も描写されている)

アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の成功は製作陣が原作のおよぼない点に自覚的だったことにつきるだろう。

原作『ぼっち・ざ・ろっく!』は個人の意見としていってしまうとおもしろい作品ではない。
音楽マンガの宿命として音が存在しないのはもちろんのこと、4コママンガである以上、視覚面でのメリハリをつけることもむずかしい。
作品が後藤ひとりの奇行のもとにたもたれている都合、画一的な展開になりやすくマンネリ感が避けられない。

文化祭後は後藤だよりだった点をかえりみ、バンドメンバー各位の掘りさげが多くみられるようになっている。
しかしそれは作品の特質を失いかねない。
後藤ひとりの人間性が克服され、最低限文化的な生活を営めるようになるにつれ、陰キャの奇行をおもしろおかしく描く作品コンセプトがむずかしくなっていくからだ。
現状では、奇行にかわるユーモアの樹立もバンドマンガとしてのドラマティックな演出もできないまま、5巻まで蛇行してしまっている感想をぬぐえない。

もしアニメ二期があるのであれば、一期以上の再構築を必要とするだろう。




『きたない君がいちばんかわいい』



まにお『きたない君がいちばんかわいい』のことを曲解していた。
一巻をよんだ時点で……これはさまざまな異常性癖をグルメマンガ的並置でやっていく作品なのだと勝手に結論づけていた。
結果として、商業の場で出版されたことに意義がある、描いた(出した)人間が讃えられる作品に着地したのではないかとおもう。
この記事で再三にわたって持ちだしている百合心中のお手本のような結末になった。

ところで最終巻の表紙は主役ふたりならんでドレス姿を披露している。
おもうに、これは一種の尊厳凌辱だ。

まにお『きたない君がいちばんかわいい』

解説のため例によって与太話をするのだが、「レズSM」について主観で話そう。
noteで書いていいのかわからないような内容になるのでよみ飛ばされることを前提としている。

いちおう「レズSM」の受容史について学術的な言説がないか調べてはいたのだが、1970年代~1980年代の英語圏でフェミニズム的観点からレズSMの研究が盛んだったことだけわかった。
あくまでSM趣味をもつ当事者たちのうったえが中心であり、参照したいレズSMポルノについての情報はあまりえられない。
というわけで以下はなんの根拠もない話である。

ポルノにおけるSM(ここでは縄による緊縛を想定している)は本来あるべき凹凸の代替、転じて力関係のメタファーではないかという考察だ。
ポルノがポルノとして鑑賞者をよろこばせるには、刺激をあたえているものと刺激をあたられているもの、すなわち力の流れを明確にする必要がある。
それは棒と穴がそろわない凹凹同士でより顕著に用いられるのではないだろうか?

わたしたち(デカい主語)が現実の人間たちを撮影したレズビアンポルノを想像すると、なんとなくSMモノが多いような気がする。
(大手ポルノビデオ販売サイトなどで検索してみたが、全体・男性同士と女性同士で比較するとほんのすこしだけSMの件数が多いような気がした。ただしタグづけされてないがその傾向がある作品も存在するためたしかとはいえない)
有名な作品として最古の18禁美少女アニメ『くりぃむレモン』シリーズの「エスカレーション」らがあげられる。
以下は近年復刊したノベライズ。かなりハードめ。

ようは「女性同性愛フィクションの文脈でSMが出ると、支配と服従を描く作品が多い(多かった)イメージがある」といったことを述べたい。

うってかわって。
近年の言説でおもしろいものがあった。
BLマンガと百合マンガの表紙の比較だ。

記事内で言及されている『「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して―』はこちらでよめる。

重要なのは「BLマンガの表紙にくらべて百合マンガの表紙は権力関係が希薄である」「主体・客体がなく二者が対等に描かれる傾向にある」という点だ。

SMポルノは「支配と服従」を明確にする。
なんか女性同士のポルノビデオだとSMチックなものが多い気がする。
しかし最近の百合マンガは「対等」であることがトレンドらしい。(もちろん表紙=内容と直接つなげて考えてよいかどうかはわからない)

主観的すぎる前提をこさえて『きたない君がいちばんかわいい』をよんでいく。

同上

物語は黒髪・瀬崎愛吏と白髪・花邑ひなこを中心とする。
愛吏は外面を気にする人間であり、わがままを満たす都合のよい道具としてひなこをいじめている。
ひなこは愛吏に依存しており、特殊なプレイを受けいれることで関係を保とうとしている。

全体の傾向として、瀬崎愛吏はつながりのなかで自分が一番であること、支配的であることを第一とする性格だ。
対して花邑ひなこは愛吏と特別な関係をもとめているだけであり、要求に応じることで独占欲を満たすことはあっても自身が上位に立つことを目的とはしていない。
ここに「支配」と「対等」のちがいを裏読みできる。

なんやかんやあって、ふたりはもうあとがなさそうな感じなので心中する運びとなった。
(全編をとおしてそうだが『きたない君がいちばんかわいい』では大人の存在が希薄だ。まるで作品自体が大人を信頼せずつっぱねているようにもみえる)

愛吏がふたりならんで入水心中を提案するが、これはためらいが生じて失敗する。
愛吏の本性である「支配」がふたりならんで死ぬ=対等であることを許さない。
結果、都合のよい道具である花邑ひなこに命じるかたちで息をひきとる。

同上

一方、花邑ひなこは死んだ相方をかかえて雪中で行き倒れるかたちを再現した。
なによりも「対等」であることを明示する死にざまだ。

同上

本項前半のうさんくさい話をおもいだそう。
レズビアンポルノにおいてSMは「支配と服従」を明確にするための道具だった。
しかし昨今の百合作品(の表紙)はなによりも「対等」であることを特徴とする。
『きたない君がいちばんかわいい』最終巻、ふたりが対等にならべられる表紙は、「レズSMの文脈=支配」を「百合文脈=対等」が覆いかくす勝利宣言であり、瀬崎愛吏の尊厳凌辱にほかならないのである。

よっていまも、わたしは『きたない君がいちばんかわいい』を曲解している。




『霧尾ファンクラブ』



朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』という小説がある。
桐島は出てこない。

サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』という戯曲がある。
ゴドーは出てこない。

武田綾乃『その日、朱音は空を飛んだ』という微百合小説がある。
朱音は出て……くる。ちょっとだけ。

地球のお魚ぽんちゃん『霧尾ファンクラブ』において「霧尾」という男は脇役にすぎない。

男を中心としてアメリカンクラッカーのように女と女がド突きあったなら、それはもう百合と呼んでしまって差しつかえないのではないか?
かのルネ・ジラールいわく「三角関係はライバル同士のつながりがもっとも色濃い」(曲解)。
というわけで「霧男」は脇役にすぎず、顔をえがかれるに値しない。

地球のお魚ぽんちゃん『霧尾ファンクラブ』

ちなみにわたしが勝手に百合だとかいってるのではなく、現に作中で匂わせるような描写が多々ある。
片方は男にぞっこんだが、片方はむしろ相方と一緒にいるために男に惚れたフリをしているようにもみえる。

ここで重要なのは、どちらが惚れたフリをしているかである。
作中で匂わせ描写が多いのは白髪・染谷波のほうだが、黒髪・三好藍美の脳に銀魂がつまったかのような挙動もうさんくさい。
むしろ三好藍美のほうが相方との時間をつくるために惚れたフリをしているのでは?
あるいは両方……?

同上より抜粋のうえ並置(本来はページをまたぐため)




むすび


本文で取りあげようとおもってやめた作品はたくさんある。
『ブスなんて言わないで』と『推しの肌が荒れた』は『彼女。 百合小説アンソロジー』/「百合である値打ちもない」とならんで百合×ルッキズム作品として語るつもりだった。
エロコスプレイヤーの生き様にせまる『全部君のせいだ』ももしかしたらつなげられるかもしれない。

とはいえ、よい作品をあげることよりも論が先に立ってしまっては元も子もないので無しの方向に。

2022年はマンガを読むことに忙しく、明日ちゃんにはじまってぼっちちゃんでおわるアニメスケジュールもあり小説をよむヒマがほとんど取れなかった。
『グレイス・イヤー: 少女たちの聖域』は『ジーンブライド』や『シャドーハウス』とともによむべき小説だろう。
ディストピア百合SFはめざましく、『殺し屋やめたい!』なども『咲-saki-』の万能iPS細胞に対するカウンターとしておもしろい記述があった。
レズビアン間の虐待を描いた『イン・ザ・ドリームハウス』も興味深くある。

2023年1月15日は『塩とコインと元カノと――シャドウライフ』(原題『Shadow Life』)が出版される。
高齢バイセクシャルが死神とやりあう話で元カノ要素はうすいらしい。が、海外で高い評価をうけているグラフィックノベルでありチェックを要する。

2月7日は『百合小説コレクション wiz』が出版される。
新人/ベテラン、リアル/ファンタジーが入りみだれる作家陣だが、ダークなテイストで一応調和をとっているのだろうか。アンソロジーとして攻めた配色でおもしろい。

ここで『リコリス・リコイル』についてふれておきたい。
女ふたりで回していた前半と異なり、後半は男たちの想いが飛びかう様相を呈した。
最終回では、錦木千束にとって井ノ上たきなは「大切な人たち」のうちのひとりにすぎず、ともすればミカ・真島・吉松シンジとともに「錦木千束に狂わされた人間たち」のひとりとしてまとめられかねない描写がされている。

ところで、わたしはアサウラ作品を『バニラ A sweet partner』しかよんだことがない。
この二作品の共通点として「社会に翻弄される少女ふたり」と「いびつな社会の責任をとろうとする男ふたり」が出てくるのだが、ここでひとつの懸念が生じる。
かぎられた受容体験から邪推して、上記二項がアサウラ作品の根底にあるのであれば、どこまでいっても百合は社会に翻弄される側にしかなれず、『リコリス・リコイル』のように百合が「物語」に絡めないことを宿命づけられているのではないか。

『リコリス・リコイル』は管理された社会に欺瞞を匂わせるかたちでスタートしたものの、主役ふたりが社会構造にたいして疑問を呈する描写はなされていない。
そもそも少女に「社会」を動かす力などないと決めきったうえで物語がつくられていないだろうか。
これはフェミニズム的批判とかではなく、単に百合で感動したいオタクの妄言である。
というわけで2月頭に期待したい。

ほかのひとの記事をよんでおもいだした作品を添付し、筆をおく。

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