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あの百合作品もすごい! 2023上半期

原則として、2023年下半期に発売された作品を対象とする。
書籍であれば、続刊がかさねられていないもの(5巻以内を目安)を優先的にあげていく。

(サムネイルは『火山の娘』〈Gamera Games〉よりお借りしました)

下半期はこっち。




『百合小説コレクション wiz』
『零合 百合総合文芸誌』


「百合」とはなにか。

1970年代に男性同性愛専門雑誌『薔薇族』を創刊した伊藤文學は、女性同性愛にたいし「ナルシシズム」の意味あいで「百合族」と名づけた。

しかし氏が想定していた「百合」と市井の「百合」は少々食いちがう。
「ナルシシズム」よりも聖母マリアの象徴をにおわせるこの語彙は「純潔」や「処女性」を惹起させ、奇しくもそれ以前から女性同性愛風のフィクションにみいだされていた「精神的な愛」というイメージと合致する。

女性同性愛に根ざしながら、それでいて性的ではないようなニュアンスをかもす百合は、直接的に性愛・恋愛を指示されていない諸作品までをも包括しながら、拡大をつづけていく。
その起源の曖昧さから、個々の解釈を尊重すべきという風潮がうまれたことも一要因であった。

かくして百合は、マクロな視点でみれば「女性同士の特別な関係性」としか言いあらわせないようなジャンルにまで成長したが、その定義のしなおしによって、あるいは人間の「愛」という感情の蒙昧さによって、さらに深淵の関係性にまで食指がのばされていく。
嫉妬、憎悪、劣等感、殺意。人間が他者へむける感情のほとばしり。その負の側面までをも抱えこみ、まさしく女性同士の関係性を探索する荒野として、ジャンル「百合」はひらかれつつある。


そんなこんなで「百合小説の"今"」を喧伝する奇怪なアンソロジー2篇が、同時期に商業出版されるのも必然なのであった。

河出書房新社から出版された『百合小説コレクション wiz』。
百合作家たちによってあらたに立ちあげられた出版社・零合舎による『零合: 百合総合文芸誌』。
ともにジャンル「百合」の多義性を追求するアンソロジーであり、示しあわせたかのように類似をみせる。

性愛・恋愛とは到底むすびつかないような迂遠な関係性、あるいは関係性をも疑わしいなにか。ジャンルの定番である「日本・学生」という舞台設定から乖離した異国情緒・ファンタジー。
ジャンルの限界をためすかのような著作が軒をつらねていくなかで、先鋭さは似かよった批判をも呼びこむことになる。

ひとつは、先鋭をうたうあまりにギミック重視と受けとられかねない小説が2篇にみられたことだ。
従来の(あるいは従来とされている)「百合」から逸脱するテーマと短編小説というフォーマットが作家心をくすぐり、どれほど百合から離れているか、あるいは技巧に凝っているかを秤にかけてしまう。

本記事の「あの百合作品もすごい!」という胡乱な企画もしばしば陥りがちではあるが、ジャンルの定番からかけ離れたところであってもなお輝きつづける「女性同士の関係性」を紹介・解題することが主目的であり、道程と目的をとりちがえてしまっては本末転倒になる。
もちろん、作品集のスパイスとしてそういった著作をとりいれることもままある話ではあるが、2篇にしめる該当作品のわりあいが「スパイス」におさまったかどうかはおおくの感想・批評・レビューをとおして知ることとなろう。

もうひとつは、制作側と受容者との「百合」定義のミスマッチ。それらが引きおこす低評価レビューだ。
さきほども述べたように個々の「百合」解釈はちがう。
「百合とレズはちがう」や「男性的な性格なので女じゃない」「男がはさまってるので百合じゃない」などの排他思想。あるいは本記事の「女性同士の関係性を百合とする」先進思想は、個人の嗜好としておさめられているうちは認められるはずだが、対外を是正する杓子としてふるわれてしまえば、本人の想定をおおきくこえる数の勢力と(しばしば「百合」外の思想とも)対立しかねない。

不運なのは、そうして下された低評価レビュー(「これは百合じゃないので星1です」など)が、おおくのレビュー機能をもつネット書店でそれなりの影響力をもつことだ。
最大手のAmazonでは、通報機能はあるもののレビューにたいするコメント、あるいは低評価ボタンなどのシステムがない。
人気作であればノイジーマイノリティとして埋もれていく見当違いのレビューも、辺境の意欲作にとっては大打撃を受けてしまう。
こうしたコア層以外が退けられかねないシステムは、ジャンル「百合」の曖昧な部分に魅力を感じている層や、小説の出版不況においてなお発信しつづける制作側にとっても、頭痛のタネのようだ。

(個人的には、自身の信条をしめしたうえでその視点から分析された批判は尊重されるべきと考えるが、かのインド映画をめぐって暴力的な描写が苦手な人間からレビューした記事が炎上したことを鑑みると、市井はそうではないのだろうか……と不安になったりした)


些事はどうあれ、本記事の「百合」観にそぐうアンソロジーが商業出版されたことは喜ばしい。

うち、個別にレビューしたい著作として『百合小説コレクション wiz』から「選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい」〈斜線堂有紀〉と「運命」〈深緑野分〉をピックアップしたが、これ以外の収録作はもちろん、『零合: 百合総合文芸誌』にもすぐれた百合作品がある。……のだが、電子レンタルサービスのKindle unlimitedを解約してしまったために『零合』の諸作品はおぼろげな記憶にとどまっている程度である(ほんとうに申し訳ない……)。
とはいえ、なかでも『躯駆罹彾㣔記』〈伊島糸雨〉はポストヒューマン(新人類)もののSFとして、言ってしまえば中華風の『宝石の国』〈市川春子〉として鮮烈な印象をのこした。
坂崎かおるは『wiz』『零合』両篇に参加した唯一の作家だが、『零合』収録の『あーちゃんはかあいそうでかあいい』は子ども・大人と時代をまたぎながらつながりを取りもどすふたりの女性の話として、あるいは境界知能、女性へのマイクロアグレッションの話として好印象だった(たぶん……そんな話だったような……)。

『百合小説コレクション wiz』のほうで特筆すべきは「魔術師の恋その他の物語(Love of the bewitcher and other stories.)」〈南木義隆〉で、現代に生きのこった魔女とその弟子が社会と折りあいをつけながらもふたたび惹かれあっていくストーリーに感銘をうけた。
『魔女の子供はやってこない』〈矢部嵩〉などに類似する話ではあるが、グロテスク寄りではなく軽快なゴシックファンタジーに着飾られており、より万人にすすめられる作品であろう(『ウェンズデー』や『HELLSING』〈平野耕太〉も彷彿とさせる)。


「選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい」
(おまけ:『回樹』)


百合は同性愛をあつかったジャンルである。しかしそのかたわらで、当事者たちのためのジャンルとは言いきれない土壌を育んできた。
そのジャンルが指示する媒体はもっぱら「二次元」と称される非実在フィクションであり、どちらかといえば「美少女萌え」とでも言うようなフェティッシュが核をなしている。
当事者たちの声、あるいは当事者たちをとりまく諸問題を啓発する役割をもたないまま、(非)当事者や男女など鑑賞者の属性をとわずに「女性同士の特別な関係」を消費することだけを目的とする。
すなわち、無法地帯。

百合文化は襟をただし、当事者たちのためのジャンルとして生まれかわるべきか。あるいはそうすべきではないか。
フィクションにおける「政治的正しさ」をめぐる言説は、フィクションの影響力をどれほど見積もっているかで賛否がわかれる。が、現代の技術水準ではフィクションの波及効果を追跡・特定することのおおくはかなわず、もっぱら想像ベースでことを語るしかない。
そうして今日も、アニメをみて買ったギターにホコリをまとわせながら、フィクションが影響をあたえることはないなどと放言する人間があとをたたない。

それはともかくとして。

無法地帯か、政治的正しさか。百合文化を風刺するように「選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい」〈斜線堂有紀〉は女性カップルを対立させる。

松本那由多。東京大学教育学部心理学コース卒。日本史担当で公民権運動もおしえる塾講師。同性の恋人を溺愛している。趣味はネトフリをみることと恋人とイチャイチャすること。選挙に行く気がない。行ったとウソをつく。熱心な恋人からLGBT系イベントにさそわれても行かない。のらりくらりの詭弁で恋人を言い負かす。なあなあで同性婚できたらいいな~とはおもうもののやはり選挙には行かない。散々論破したうえでやっぱり恋人のことがすき。でも行かない。

…………………………。

2021年、中国で流行するある思想が反響を呼んだ。
通称「寝そべり族」という。
「家を買わない、車を買わない、恋愛しない、結婚しない、子供を作らない、消費は低水準」をモットーに、資本主義社会の競争とは身をおくライフスタイル、あるいはその抗議的思想だ。
大学進学率が上昇し、経済成長率が低下した現代、厳しい就職活動のさきで待つのは長拘束薄給で昇給のみえない労働。SNSが敷衍され、玉石混交のなかでありありとみせつけられる成功者との差。
そうした競争社会に人生の意義を設定しないことで、心身の安寧を確保する。
彼らの寝そべりは鋼の意志をもっている。

しかし那由多に確固たる意志はない。
一人称で垂れながされる独白に信念を語るような熱さはなく、ただ漫然と、へらへらと、詭弁につぐ詭弁が地の文をかけめぐる。

 私は政治的なことは尚更パートナーに強要するべきじゃないとか、そうして強要する中で私の持っていた信条とかがひっそり捻じ曲げられているとは考えないの? と言うことで、恵恋を黙らせる。

(中略)

 でも、私の心の中には特に高尚なものは無く、単に「政治的なツイートとかフォロワーに見せたくないんだわ」という、薄らぼんやりした感情だけがある。

「選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい」〈斜線堂有紀〉
/『百合小説コレクション wiz』
(河出書房新社)

うがった読解を展開するならば、那由多のバックストーリーから解釈をひねりだせるだろう。
昔から地頭がよく、なんとなくで東大教育学部に入ることができた那由多。日本を代表する難関大学だけあって、勉強漬けでようやく合格にありつけた人間から、地頭がいいうえに好き好んで勉学をむさぼる狂人まで存在する。
そうしたヒエラルキーのなかで、「なんとなくで生きている自分」を維持することだけが自身の人生を肯定する唯一の手立てになった。
それらを地の文で自覚することができないのは、無意識のうちに見ないふりをしているからだ。

そうして人格に一貫性をみいだしたとしても、泥に泥を塗るだけになってしまう。

わたしは本項の冒頭に書いた無法地帯VS政治的正しさの対立を前提にして読んだので、一時期無料公開されていた本作へのコメントが、意外にも選挙に行かない人間への怒りで占められていたことにおどろいた。
まあたしかにニュートラルな感想はそうなるのかもしれないが、それならなぜ選挙に行かない人間を裁くような物語ではなく、行かない人間の思考を羅列するような一人称小説にしたのかがひっかかる。

斜線堂有紀のことを人間のめんどくさい部分が大好きな作家だと認識しているので、以下のような推測をした。

つまり、これは”あまり性格がよくない”女性へのフェティッシュを第一とした作品だ。
とりわけ、「相応の能力と立場あるにもかかわらず、まじめに人生を生きる気がないためまわりの熱意ある人間たちから侮辱にとられてしまう女性」へのフェティッシュだ。

なんらかの事柄にたいして熱心に活動する人間がいる。おなじ志をもつ隣人らとともに、能力の多寡や努力の方向性はともかく全力をつくすことを誉れと信じてうたがわない。
集団のほどちかいところに、集団のどの人よりも能力と立場をもつ人間があらわれた。しかし、まるで前進する気もなく悠々自適に寝そべっている。
活動家たちにとってまたとない逸材を逃すわけもなく、あらゆる手で説得しようとこころみるが、能力のちがいによってたやすくあしらわれてしまう。
おおよそおなじ人間とはおもえない思考回路をもつ寝仏を活動家たちはうとましく、いじらしく、意識しつづけてしまう(あれ!?急に関係性になってきた!?)。

そんな類型あるのか? とおもうかもしれないが、意外にもこの手のキャラクターをこのんで登場させる百合作家がいる。
『響け! ユーフォニアム』シリーズで有名な武田綾乃だ。
部内でトップクラスの実力をもつのに辞めようとする先輩、プロ級の腕前があるはずなのにまわりに合わせている先輩、年功序列を気にして一軍の席をあけわたそうとする後輩。
そして2024年に放映されるTVアニメ版『ユーフォ』3年生編では実力のあるエンジョイ勢が善意で部内をひっかきまわしていく。

わたしはこの小説(「選挙に絶対行きたくない」)を読むまえに、ちょうど年初頭の百合アニメ『もういっぽん!』をみて、全国トップの実力がありながら親友と青春をすごすために弱小の高校/異種目に転向する姿勢にたいへん感動していたのだが……。
上述の類型を再確認したことで、もしTVアニメ版『響け! ユーフォニアム』3年生編が2023年上半期に放映される世界線があればどうなっていたんだろうか? と妄想にふるえたりした。


……………………。


こんなのでは感想にならないので、場をかりて斜線堂有紀の単行本『回樹』にもふれておこう。
SF短編小説6作品のうち、表題作「回樹」とその続編「回祭」が百合だ。

書籍全体をつらぬくテーマは「死してすら朽ちない生者をいましめる概念」だろうか?
人間の死体が朽ちも腐りもしなくなり、宇宙葬が一般的になった世界。
骨にタトゥーをのこす文化が発展し、言霊を発しはじめた世界。
「作品の魂」が有限であることがわかり、過去の名作を抹消しなければいけなくなった世界。

「回樹」「回祭」に登場する回樹は人間の死体をとりこみ、それにたいする愛情の対象を自身にうつりかわらせる樹状物体だ。
愛人の死体をささげれば、回樹が愛人そのものであるかのように幻覚し愛をもささげてしまう。
しかし転化がなされる閾値は曖昧で、一定以下とみなされれば転移はおこらない。さながら真の愛情を査定するかのように回樹はふるまう。

「百合」は女性同性愛から発展した(かのようにみえる)ジャンルだが、その「愛」の実態はいまなお不明瞭だ。
斜線堂有紀の描く関係性はどれも闇をかかえているが、回樹の供物が死体でなければならない以上、「回樹」も「回祭」も「死」が介在する関係である。

感情のほとばしり、その負の側面に傾倒した女性同士の関係性ははたして「真の愛情」なのか?
ぜひ『回樹』を手にとって確認してみてほしい。
(『百合小説コレクション wiz』『零合: 百合総合文芸誌』はすでに手のなかにあるはずだろう)

 回樹はとても冷静に全てを判定していた。およそ数値に変換出来ないはずの愛というものを、綺麗により分けることが出来る唯一のものだった。
 それこそが、律の求めているものだった。

「回樹」/『回樹』
〈斜線堂有紀〉
(早川書房)


「運命」


人間の心理には「キュートアグレッション」というバグ(?)がある。
かわいい動物やかわいい児童をみたとき、心臓がぎゅっと刺激されて歯を食いしばりたくなるあの感覚だ。
つよい感情が生じたさいに平衡を保とうとする防衛反応、あるいは分泌される脳内物質の作用など、さまざまな推測がなされているが、ともかく人々はその感覚の虜になって、転載された動物動画で休日をつぶしたりする。

また、人間が対象の幼さを判定する心理機能のことを「ベビースキーマ」という。
まるい輪郭。顔のひくい位置についたおおきい目。おおきい頭。
俗に萌え絵・アニメ絵・美少女イラストといわれる画風はこれを刺激するために特化されている。

一般に「百合」をうたった作品はこうしたタッチで描かれたマンガ・アニメ作品であり、たいていの場合、少女と少女がかわいらしい行動をしている。
であるとすれば、「百合」とは少女と少女によってキュートアグレッションを惹きおこすことを目的としたジャンルといっても過言ではない(ほんとうに?)。

恋愛をとりあつかったフィクションが数おおく存在するなかで、女性同士のものにかぎってこのような人間心理の欠陥をしばく作用があるなら、とある問題がわたしたちのまえに立ちはだかるだろう。
キュートアグレッションを得るためインスタントに女性同士の恋愛が成就され、たとえ支離滅裂であったとしても、キュートアグレッションが得られるために一定の評価がついてしまう。

すなわち、恋愛のかけひき・積みかさねが十分でないまま、なんらかの強制力によって恋人同士になってしまう問題が常態化する。

(ひとによっては『アネモネは熱を帯びる』〈桜木蓮〉を想起するかもしれない。受験に失敗した少女が、原因の女の子を好きになることで克服しようとする百合マンガで、友だちからではなく恋人からはじめるところに強制力をにじませる。しかしこれは誤りで、おなじように克服してきたモノコトにたいする愛着の意味の「好き」を、はじめて人へむけてしまったためになんか恋人っぽくなってきてバグるようすが描かれている)


メタフィクションの名手・深緑野分は「運命」でその事象を批判する。

「塔には女がいるんだ。私たちとそう変わらない年の。お前はそいつを救いに行く」
「……はあ? 何で私が?」

(中略)

「そうした方がいい。ちなみにその女を救うと、異次元へ通じる影の入り口が閉じるそうだ。つまり世界が救われる」

「運命」〈深緑野分〉/『百合小説コレクション wiz』
(河出書房新社)


「運命」は破綻する物語を登場人物からみたメタフィクション短編だ。
記憶喪失の少女・繭は、おなじく記憶喪失の少女・瑠子のみちびきによって、塔にとらわている「美月」を助けにいかなければならない。
どうやら繭と美月は恋人同士らしい。が、繭本人に心あたりはなく、脳内に浮かびあがってくる過去も、どこか他人の感情のようにおもわれる。
それは美月と対面したとしてもかわらない。むしろ水先案内の瑠子のほうに惹かれている。美月もおなじように、繭にたいして他人行儀にふるまう。お互いに「趣味じゃない」と意気投合する。

ここから「運命」はわき目もふらずにメタ展開をまくしたてていく。
空中に「作者」が浮かびあがり、巨人を使役してふたりを物理的にくっつかせる。物語がおもいどおりにならない「作者」の焦りが登場人物にまで伝播する。
物語が瓦解し、崩壊していく世界のなかで繭は瑠子とむすばれることをえらぶ。

あざといまでのメタフィクションに言葉はいらないだろう。
「選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい」と「運命」はそれぞれ『百合小説コレクション wiz』の巻頭・巻末をかざる作品だ。
前者はジャンル「百合」の政治性にまつわる話を、後者は即物的な恋愛成就を批判している(と、わたしはおもっている)。
もしそれが真なのであれば、アンソロジーの編集者がジャンル「百合」についてどこまで思索をめぐらせているのか……その批評性をうががうことができよう。




『週に一度クラスメイトを買う話 ~ふたりの時間、言い訳の五千円~』



世界綱引きあってるうちにキスしててほしい連合。


……?


世界綱引きあってるうちにキスしててほしい連合とは。


どこまで身銭をきれるか。どこまで素性をあかせるか。人間関係のそれは親密さによって左右される。
ある程度の気の知れた知人にたいして無償奉仕をおこなうことはむずかしい。今日おごったから次おごってね、という貸し借りが前提で、友人関係において無償や度のすぎた奉仕はそれ相応の見かえりを相手に負わせる行為となる。
素性をあかすこともおなじように、伝えられたプロフィールを前にしてあなたはわたしとどうつきあいますか?という問いかけであって、重すぎる内情や過去は関係をゆがませる重石となる。

わたしたちが赤の他人にたいして、たとえば道ゆくひとの落としものをひろったり、待合室でとなりの人と身のうえ話をできるのは、いわば貸し借りのルールが存在しないからできる行為だ。
もし、後日落としものの礼に訪問されてしまえば貸し借りの概念がにわかに色めきたち、わたしたちを戸惑わせることとなるだろう。

こうした貸し借りの一回一回のレートをさだめるのは親密さだ。
知人。友人。親友。恋人。家族。ひとによっては家族でも素性をあかせなかったり、そもそも一直線上にならばせること自体がうたがわしかったりするが、ともあれ親しさの度あいによって一度に取引できる重さはかわっていく。

親密さをすすめるにあたって単純に回数をかさねたりするのも有効だが、今のレートをこえる値をかけることで相手に気づかせる、あるいは直接申告することも考えられるだろう。
後者のふたつはさきにレートを踏みこえた側として相応の落ち度をかぶることとなり、素性をあかしたのであれば自身のナリ/手の内をあかすことにもつながって、その対人関係で下手にまわってしまうことを避けられない。
有利を保ったまま関係をすすめたいのであれば、さきに相手が「踏みこえる側」になるよううまく手をうつ必要がある。

そうしておたがい自分の陣地に引きずりこむために……まるで綱引きのように引っぱりあってるうちに距離が縮まっていき……いつのまにか相手の唇のやわらかさを知ってしまう。

それが世界綱引きあってるうちにキスしててほしい連合の理念だ。

(なお、これはコントロールよりの話であり、おたがい相手へ踏みいっていくうちにキスしてしまうアグロな試合運びもある。『できそこないの姫君たち』〈アジイチ〉がそうだ)


『週に一度クラスメイトを買う話 ~ふたりの時間、言い訳の五千円~』〈著者:羽田宇佐 / イラスト:U35〉でベットされるのは、題名どおり五千円。
ほしくないわけではないが、なにかを代償にもらうなら心もとない金額。存在の耐えられないほどではない重さが、ふたりのレートをあぶり出していく。

「……まあ、いいか。暇つぶしに、一回五千円で命令きいてあげる。休みの日は無理だけど、放課後なら」
 そっちが成り行きなら、こっちも成り行きだ。
 エロ漫画を読まされるのは避けたいけれど、命令ごっこの上限はその辺りのようだし、少しくらい付き合うのも悪くない。
 宮城という人間にも興味がある。
 この変な子が私になにを命令するのか知りたい。それに、本気で嫌なことがあれば五千円を突き返せばいい。

「第2話 宮城は今日も私に五千円を渡す」
/『週に一度クラスメイトを買う話 ~ふたりの時間、言い訳の五千円~ (ファンタジア文庫)』
〈著者:羽田宇佐 / イラスト:U35〉
(KADOKAWA)


五千円はまさに手綱だ。
放課後、一回五千円で自室までつきあい命令をきく。カーストのちがうふたりのあいだに渡されたこの取引は、五千円という尺度をもってして、お互いがこの関係性をどれほどに見積もっているかを明示する。
これは五千円に耐えるおこないか、あるいはそうでないか。あらゆるおこないが試行され、その流動/進展が鑑賞者の眼前に数値化される。

カギとなるのがふたりのクラスカーストだ。
五千円を差しだす側・宮城志緒里は目立たない女子グループの人間であり、おなじクラスで色をふりまく上位カーストの女子らを快くおもっていない。
ある日、本屋でクラス上位の仙台葉月へ恩をうったことにつけこみ、僻みを満たそうとする。
しかし、仙台はまわりにあわせることで上位からふりおとされまいとしている日常に疲弊しており、宮城のぶしつけな態度につられてぶっきらぼうにふるまうその時間をむしろ心地よくおもっている。
宮城もまた、へんてこな命令をぶつけられながらも満更ではなさそうな仙台にうろたえ、感情の行きさきにとまどいながら、仙台から感じる謎のトキメキに翻弄される。

おたがい敵対心からはじまっているがその実、自室でごろごろしあうこの時間が気にいっている。しかし紛いなりにもおたがい立場が上であることをしめしたいがために、自分から今の契約関係をあらため友人になろうとは言えない。
そうして五千円でおこなえる/うけいれられる命令の強弱をちらつかせながら、相手がさきに口外するよう牽制しあう。

なまじ支配を明確にするために、最初の命令がよこしまな、肉体的なものであったのが運の尽きだったのだろう。
意地を張りあいながら綱引きをつづけていくうちに、奇妙ななりゆきで唇にたどりついてしまう。

わたしたち百合好きは常日頃から「関係性」だのとわめき散らしているが、じっさいのところ世の中にあふれている「関係性」は事務的だ。
契約者、雇用主。お客様とスタッフ。あるいは講師と生徒など。
金銭を仲介としてむすばれた「関係性」に私情をもちこむことはおおくの場合禁則として釘さされてる。

『週クラ』はその金銭関係に乗じることで……「カーストのちがうクラスメイト」という関係から金銭関係をつうじて……肉体関係へとダイレクトに着地する。
もしかしたら知人・友人・親友・恋人という関係性を一直線上にならべることは間違いなのではないか? 体面上はいがみ合う仲であっても、恋愛・性愛につながりうるのではないか? そうした疑問をかっさらうかのような飛躍を『週クラ』はみせてくれる。 

2巻で提示された「友達ごっこ」への違和感は、ふたりの関係性の特殊さを物語るものだ。
思春期特有の他者の身体への興味をすくいあげるように、おたがいが接触を試しあう。
そうした秘めごとの共犯関係を、かけ引きのともなったエンターテイメントとして昇華する。それが本作品の評価につながっているのだろう。




『どれほど似ているか』


近年、翻訳出版がつづく韓国クィアSF小説のひとつ。
さて、ネタバレ厳禁系の作品を紹介するには? 木を隠すなら森か?

『どれほど似ているか』〈著者:キム・ボヨン / 翻訳:斎藤真理子〉は10の短編をまとめた短編集だが、ひとによって百合とよべる作品の数はかわる。
元々はひとつだった母子のまじわり。過去・未来のわたしとの会合。言葉の枷から外れた非言語的なつながり。
『秘密の森の、その向こう』〈セリーヌ・シアマ〉に百合を感じたあなたなら気に入るかもしれない。

で、ある一作品にかなり衝撃をうけて、そのサブジャンルの歴代トップを更新する勢いだったのだが、名指しすることすらネタバレになってしまうだろう。
というわけで、たぶんこういうひとならおすすめできるんじゃないか? などと条件をてきとうに書きつらねておく。

・ギミック重視の小説が好き。
・固定観念をゆさぶる作品が好き。
・ドールズフロントライン/NIKKEが好き。
・感情は不要。
・人間になりたい。




『泣き虫スマッシュ!』


児童文庫というレギュレーションはむずかしい。
うがった展開はつかえない。文量もひかえめでないといけない。できるかぎり普遍的で、対象年齢に身近な舞台で、それでいておもしろい。
削ぎおとされていく素材のなかできわだつのは物語の骨子。どれだけ無駄なくうつくしく構成できるか。

第10回つばさ文庫小説賞《金賞》受賞作『泣き虫スマッシュ!』〈著者:平河ゆうき / イラスト:むっしゅ〉は一点のよどみもない、凝縮されたスポ根バディ小説だ。
背がひくいもののフットワークで全国レベルの活躍をしてきた大鳥奈央と、バドミントン未経験者ながら小6にして173cmの長身をもつ日下部ことり。
切磋琢磨しながら全国をめざす王道ストーリーが展開されていき……。

「勝手に話を進めないでっ! スポーツはもういやなの! みんな、勝手に期待してきて!

(中略)

「野球のときも、バレーのときも! ミスしたら『あんなに背が高いのに』って言われて、がんばったら『背が高くてずるい』って! みんな勝手だよ、勝手、勝手、勝手っ!」

「4 あたしの勝手なのかも」
/『泣き虫スマッシュ! がけっぷちのバドミントンペア、はじまる!? (角川つばさ文庫)』
〈著者:平河ゆうき / イラスト:むっしゅ〉
(KADOKAWA)


アレ!?なんかちがうな!?



見えかたのちがい。意見のちがい。あなたとわたしはちがうけれど。
『泣き虫スマッシュ!』はあらゆる「違い」を真摯に編みこんでいく。

大鳥奈央にはともにダブルスをたたかう仲間がいた。小学生のシングルス全国大会を五連覇する鶴巻千里という相方が。
バドミントンをはじめたときから親友のふたりだが、実力の差は誰がみてもあきらかであり、周囲からはもちろん、奈央の親、そして千里本人から「奈央じゃなくてもかわらない」と言われてしまう。
両親の離婚(別居?)によって東京をはなれた奈央は、千里をみかえすためにあたらしいパートナーをさがしはじめるが、よりにもよってその矛先を、身長だけで……すなわち自身の総合的な能力ではなく身長という一点で代替可能な存在として……えらばれてきてしまった日下部ことりにむけてしまう。

代替可能な存在。自身をいましめてきたその言葉をふりかざしてしまった奈央は、自分自身を知ってもらうために試合へ招待する。

この物語を牽引するのは大鳥奈央のつたなさ/あやうさだ。
自身がうけた心のない言葉を他者にむけてしまう。試合に負けてへこむ下級生をおいこむような発言もしてしまう。
ことりとともにオリンピックの動画をみるときも、自身が背のちいさい日本人選手ばかりに目がむいてしまうのにたいして、ことりが注目するのは背のたかい外国人選手だ。
ふたりのライバルとして対比される双子キャラは同一性の暗示だが、ことりはふたりのちがいを見抜けるのにたいし、奈央はそうではない。

そうした視野のせまさが訝しまれてはじめて、千里とのやりとりに疑問が生じる。
なぜシングルスではなくダブルスでみかえすことをえらんだ? 自信のなさ、自己承認の仮託、あるいは他力本願ではないか。そして、おもわせぶりな態度をとる千里はほんとうに「誰でもよかった」のか?

ある種のぐらつきが訴求力を発揮し、物語へと没入させる。
そうしてつづく2巻では、勝ちたい一心でことりを利用する点が指摘された。「勝ちたい」と「楽しみたい」のちがいが穿たれる。
元相方のあたらしいパートナーへツバつけにきたことりのもとへ訪問する千里の意図もあいまり、「部活動」へのむきあい方を問うスポ根バディものが好きなわたしにとって目がはなせない。



おまけ。巻末の著者・イラストレーター紹介ページ。


『泣き虫スマッシュ! がけっぷちのバドミントンペア、はじまる!? (角川つばさ文庫)』
〈著者:平河ゆうき / イラスト:むっしゅ〉
(KADOKAWA)




わたしが児童文庫で紹介されるわけないじゃん、ムリムリ!
(ムリだった!?)






『ガレキ!-造形乙女の放課後-』


「第2話 再会!」/『ガレキ!-造形乙女の放課後-(1) (サンデーGXコミックス)』
〈ヨゲンメ〉
(小学館)


フィギュアの祭典・ワンダーフェスティバルには当日版権というシステムがある。
二次創作造形物をもちこむにあたって必要な許諾申請を簡略化し、会期内のみ展示・販売を可能とする許諾制度だ。
これによって同人誌などより著作権の「おめこぼし」がきびしいとされる立体物であっても、同好の士と取引することが可能になる。

しかしこれには詳細な制限がついており、前金予約・後日発送などはもちろんのこと、再販においても再度申請が必要で跳ねのけられる懸念があるなど一筋縄ではいかない。
つまり、会期内に売りきれなければ不良在庫としてかかえることを余儀なくされる。
イラスト・マンガや文字媒体のようにインターネットで共有が容易なそれらとちがい、立体で手元にあることが重要な造形物だが、二次創作活動をつづけていくのはいばらの道といえるだろう。

裏をかえせば、まさしく一品モノ、自分だけの宝物として相応の価値がある。
『ガレキ!-造形乙女の放課後-』〈ヨゲンメ〉はガレージキット(少数生産可能な組みたて式模型)の特質を青春物語へ還元する。

源真白、高校二年生。将棋部、バドミントン部、バレー部、ソフトボール部のピンチヒッターで活躍するが自身は帰宅部。暗所で微細なパーツを探しあつめる集中力と動作性、気になったアニメをその日の夜に一気見する行動力、そして2万円程度はかるく出せるお財布をもつ。
しかし、だからこそ、全力で打ちこめるものがなにもない。
簡単に勝ちとれてしまう達成感が、友人たちのキラキラとおなじなのかがわからない。


「第1話 まっしろの出会い」
/『ガレキ!-造形乙女の放課後-(1) (サンデーGXコミックス)』
〈ヨゲンメ〉
(小学館)

「なければ作ればいいんですよ」(第1話)。
「世界でたったひとつの自分だけのフィギュアが作れるんです」(第2話)。
引っこしてきた白髪美少女の、ガレージキットへのめりこむ横顔にただならぬトキメキをおぼえる(結局顔!?)。

こうして熱意と根気をもって世界にひとつだけをつくりだす行為が、「打ちこめるもの」として青春と絡みあっていくわけだが、絵画などの身近な芸術で置換可能なのではないか? という問いが生じる。
しかし造形物の特殊性と、源真白がなにをみてなにをつくるのか、なにがほしかったのかに注目すればおのずと答えがわかるはずだ。

模型の美学的知見を聞きかじったところによれば、模型とは立体物でありながら「窓」でもあるそうだ。
たとえば、わたしたちがガンダムのプラモデル、ガンプラをさわるとき、そこにはその機体への思い出、すなわちアニメの記憶やおなじファンとの交流、あるいは親にはじめてガンプラを買ってもらったときの気持ちが思いおこされる。
(わたしは小学生のころ、ハンブラビのプラモデルがほしくて買ってもらったところ、接着剤が必要な旧式でタンスのこやしにした記憶が根づよい)

立体物は二次元的な絵画とはちがい、手にとって360度から観察でき、まわりの小物やライティングによってさまざまな表情をみせる。可動域のある模型なら原作のポーズをかたどることもあるだろう。
そうして模型はわたしたちの世界の物理現象と地つづきな状態で接続されながら、さまざまな思い出が組みたてられた「窓」として独自のメディア性をはなつ。

真白の創作の方向性は以下のページに代表される。

「第8話 オーブン・イン!」
/『ガレキ!-造形乙女の放課後-(2) (サンデーGXコミックス)』
〈ヨゲンメ〉
(小学館)

ふたりの主人公(この作品にかぎってはヒロインと主人公のおもむきがつよいが)が過去に相対していたことしめすシーンだが、重要なのはふたりの造形物のちがいだ。
白髪美少女・模鳥雛瑚の作品はうさ耳のキャラクターであり、空想の産物だ(かぐや姫のモチーフだろうか? 雛瑚の両親は海外へいってしまっているのでそうした展開の示唆?)。

たいして真白の作品はイルカ。これは彼女が水族館でみたそのすがたを模している。
真白は雛瑚から買いとったガレージキットを作りあげていくうちに、雛瑚の作例とおなじようなカラーリングにすることに引っかかりをおぼえる。
「世界のひとつだけ」の意味を模索するような逡巡のなか、雛瑚とランニング中にみつけた朝焼けの色へたどりつく。
これらは真白が写実、思い出の焼き止めを志向していることをあらわしているのだろう。

現実世界と地つづきの「手にとどく」かたちとして、真白の経験した思い出が組みあわさっていく。空虚さになげいていた彼女に青春が存在することの証明として、凝縮された時間がトロフィーにかたどられている。
かくして源真白はガレージキット(模型)に出会わなければならなかった。

(それでいて雛瑚自身に惚れているような部分が『ガレキ!』の百合作品としてのよさなのだが)




『靴の向くまま』


人それぞれの顔があるように、わたしたちの足のかたちは十人十色だ。
足長。足幅。足囲。たとえ数値がおなじでも、指のつき方、アーチの弧が一致することはない。
それなのにわたしたちは、足長0.5mm単位のおおざっぱな鋳型に履きつぶされることをよしとしている。

人間の足は柔軟にできており、あわない靴を履きつづけていれば靴のかたちに歪んでしまう。
なかでも、子どもの足はひときわ繊細でありながら成長がはやい。
一年間で1cm足長がのびる学童のために、親は適切な靴をつど買いあたえなければならない。が、経済面やコミュニケーションの問題から履行できる家庭はかぎられている。
機能不全家庭のなかで生きづらさを押しあたえられた子どもたちは、その窮屈さをうったえることもかなわず、だましだまし歩きつづけることしかできない。

『靴の向くまま』〈みやびあきの〉は新人オーダーメイド靴職人の視点をとおして、そうした問題によりそっていく。

「1足目」/『靴の向くまま(1) (モーニングコミックス)』
〈みやびあきの〉
(講談社)

一見して、『靴の向くまま』は靴職人の主人公を軸にしながら、話単位で入れかわる顧客たちのなやみを解決していく物語のようにおもえる。
しかし一話で親子のズレに気づかされた少女が意外にも出ずっぱりで……同級生の女の子までもが登場し、靴工房のとなりに住んでいることがあかされたりする。

みやびあきのは『まんがタイムきらら』系列での連載や『コミック百合姫』刊行のアンソロジーで短編掲載のある作家であり、つちかわれた女性同士のつながりにそって物語は進行していく。

「百合」というよりも「シスターフッド」にちかいかもしれない。
新人靴職人は迷える少女を教えみちびく存在になれるのか。
今後の動向に注目したい。




『わたしの夢が覚めるまで』


親戚にひとりはいる。なにをしているのか、働いているのかわからない。独身のおじおば。
わたしたち(どういう集団?)の高齢化にともなって、それらの正体がわたしたち自身であったことがあかされつつある(誰によって?)。

しかしそれを証明するすべはない。
もう死んでしまったから。


『わたしの夢が覚めるまで』〈ながしまひろみ〉の主人公は、大好きだった、死んでしまった叔母と同い年になってから、安眠を得ることができない。
死んだ人間がでてくる夢は、はたしてどんな意味をもつのだろう。

死んだ女性に想いを馳せる百合マンガは2020年前後の流行りであり、ある程度の数がまとまっている。
『マイ・ブロークン・マリコ』〈平庫ワカ〉の激情はおおくの人間に火を灯した。
わたしのベスト百合作品のひとつ『春とみどり』〈深海紺〉は青春への強烈なノスタルジーをきざみながら、身辺整理をへて、名前のつけられない関係を祝福した。
『違国日記』〈ヤマシタトモコ〉は類まれな言語センスで姉妹の確執をつまみあげていく。
『ヒラエスの旅路の果て』〈鎌谷悠希〉は百合とよべるほど描写があるわけではないが、ある知見をわたしたちにもたらしてくれた。

Hiraeth.
ヒラエス。
もう戻れない場所への郷愁。

「第10話 酔っぱらいの夢」/『わたしの夢が覚めるまで』
〈ながしまひろみ〉
(KADOKAWA)

『わたしの夢が覚めるまで』はおおくの類似作品らとちがい、ふわふわとしたトーンにつつまれている。
熱帯夜。丑三つ時のまどろみのなかで徐々にあかされていく間柄。
叔母とおなじ歳になりおなじように独身のまま生きている自分と、その周辺の人間たち。
主張らしき主張もなく淡々と日常が繰りかえされていくなかで、やわらかな比喩たちとともに叔母の死の真相にせまっていく……とおもいきや、ふんわりとした印象で物語はおわりをむかえる。

こうした(ここちよい、という意味でも)薄ぼんやりとした物語はむしろ鑑賞者の人生を反映させる鏡として意味をみいだされていくものだが、あくまで作品内で完結できる解釈をのべるなら、夢をつうじてあかされていく叔母の真意は真意ではなく、主人公の願望を抽出したものと言えるだろう。

あこがれの叔母が事故で亡くなったことをうけいれたくない。叔母のライフスタイルをおっている自分を否定されたくない。きっと叔母もわたしが今感じている不安のなかで魔が差してしまったのかもしれない。
”もしも”の願望はおなじように叔母を慕うひととともに、真実そのもののように昇華される。そうして、夢に叔母がでてくることはなくなっていく。

死者は黙してかたらず。生者の想いを押しつけられ、忘れさられていく。
わたしたちはそうしなければ生きていけないのかもしれない。




『言葉の獣』


言葉は伝えるためにある。
本当にそうだろうか?
もし言葉がそれだけで自立できるかたちで存在していたら、わたしたちはその野生に圧倒されて思いを伝えあうこと適わなかったのではないか。
あるいは言葉の修飾を……詩情、感情を切りすてて、ぶっきらぼうに伝えはなつためだけに飼いならしたのではなかったか。

『言葉の獣』〈鯨庭〉で描かれる言葉は、「獣」のすがたをしている。

「第2話 お前を消費したい」/『言葉の獣 1 (torch comics)』
〈鯨庭〉
(リイド社)


わたしたちがつかう言葉はパターン化され、定形から外れた言葉づかいをすることはままない。
敬語がそのもっともたる例で、わたしたちの心のうちをそっくりそぎ落とし、コミュニケーションにちょうどいいかたちで取り繕う。
その真意にたどりつくためには発せられた言葉の些細な毛並みを……音や文脈から考察していくしかない。

共感覚者・東雲のみる言葉は野生そのものであり、身体が名をあらわすように架空の獣のすがたをとる。
人間の手によって家畜化されていないそれはひとびとの感情をダイレクトに表現し、東雲という少女の死生観をゆがめてしまうのに十分だった。

東雲の世界に同調し、詩への憧憬からともに探索していく薬研(やっけん)(虎のすがたをしているが同級生の少女だ)は根っからの詩人であり、Twitterをつうじて同好の士とたわむれている。
あくまでコミュニケーションのための形態をした言葉の世界で生きてきた薬研と、そうではない東雲は、その視野のちがいによって志向をたがえていく。

架空生物をスケッチしているだけの東雲にとって、「獣」はそこにいてあたりまえのものであり、そもそも作家を志しているわけではない。あらゆる言葉がむき出しのままぶつけられていく世界において交流をのぞむべくもなく、作品は廃棄され、自己消去の欲望をたずさえている。
それは薬研にとって理解できないものとしてうつる。その感覚がなによりもわかりあえないことを表象する。

架空生物をめぐる哲学的探求の本作はそうして、死生観のちがいを軸に駆動していく。

いかにも衒学的な雰囲気を漂わせる『言葉の獣』だが、やっていることは女子学生ふたりがTwitterにうちこむ部活動ものの支流であるので、やたらとインターネット映えするコマがおおい。そうした楽しみかたもあるだろう。
(というかインターネット映えを作家自身意図しているのもあるだろう)
(『山月記』〈中島敦〉の引用もまたTwitterらしい)

「第2話 お前を消費したい」/『言葉の獣 1 (torch comics)』
〈鯨庭〉
(リイド社)


個人的な好みをいうと、北園克衛や小笠原鳥類などが好きなわたしにとって、言葉本来の価値を模索するさいにかたちや音(実験詩)といったアプローチがなされていないのが意外だったりする。

詩の生物化とあって、小林銅蟲による小笠原鳥類の詩のマンガ化なども連想したのだが。




『リライアンス』


いいツイート


教室のもの静かな彼女に目を惹かれてしまう。
読書家のわたしよりもむずかしい本を読みこなす彼女のことが。
あの子が養護教諭とむきあうそのときだけ、表情がいつになく険しくなる。
きっと弱みをにぎられているにちがいない。
わたしが救ってあげなくては……。

「メサイア・コンプレックス」という言葉がある。
劣等感を感じる人間が、ほかの人間へ手助けをほどこすことで、その穴を埋めようとする。
あの子を教えみちびき、数歩先をあるくことで、わたしが遅れをとっていないと証明したい。

『リライアンス』〈水谷フーカ〉第一巻は、劣等感と焦燥感、偽善によって駆動されていく百合マンガとして、つづきものでありながらひとつの完成をみせる。

「第7話」/『リライアンス 1 (楽園コミックス)』
〈水谷フーカ〉
(白泉社)


作品のきわだつ点は静謐と焦燥の切りかえだ。
ベースは主人公の肥大化した自意識があふれだすように独白がつらねられ、その滑稽さを演出する。
対比されるのは、ヒロインと養護教諭の会合をのぞいてしまったときの異質感。セリフが徹底的に省かれ、主人公が理解しえない世界であることを強調する。

わたしたちはしばしば、百合作品にむかって「壁になりたい」などの妄言を言いはなつ。そもそもわたしたちは作品外の鑑賞者であって、作品内の建材になろうなどはおこがましい。
しかし、彼女たちの秘めごとをのぞいてしまった作品内の人間たちはどうだろう? みてはいけないものをみてしまったときに、もの言わぬ壁になれるだろうか。
『リライアンス』の主人公をつらぬくいたたまれなさは、わたしたちそれとは比較にならないほど真摯で悲痛な「壁になりたい」という叫びになる。
彼女は目撃者になってしまったがために、ほかならぬ物語の証人として……ころがりおちる愚者として、主人公の格を背負わされている。
巻末の展開をへて、主人公の苦難がどのような結末にいたるのか。見守っていきたい。

ちなみに、これは作者・水谷フーカの過去作『14歳の恋』(メインは男女だが百合もあるそうだ)のスピンオフらしい。
過去作を読んでいなくてもたのしめる……というより、過去作を知らずに『リライアンス』をさきに読めたことを幸せにおもうだろう。




『SAN値直葬!闇バイト』


あらゆる百合の類型ができったように思える令和の年。
しかし世の中には女性同士の関係性にありがちなものであっても、いまだに日の目をみることがない関係性がいくつかある。

それが「連鎖堕ち」だ。


……真面目な話です。

連鎖堕ちとは、何らかの形で「堕ちた」人物Aが別の人物Bを自分と同様に「堕とす」というように、「堕ち」の連鎖が起きている展開を示す言葉である。性質上、投稿作品のかなりの割合をR-18作品が占める。

連鎖堕ち (れんさおち)とは【ピクシブ百科事典】
(ピクシブ百科事典)

補足として「堕ちる」とはたいていの場合、善性の人間が悪性の人間に堕ちてしまうことをさしている。単体では「悪堕ち」「闇堕ち」などといわれている。

「投稿作品のかなりの割合をR-18作品が占める」とあるように、まぁ~R-18作品の常として女性同士で堕ちていくケースがおおい。というよりほとんどそうだ。
しかしこれは成人向け作品にかぎったシチュエーションではなく、おもに善悪がはっきりしたヒーロー(ヒロイン)ものだったり、オカルト/ホラー作品でもみられたりする。
なかでもオカルトは女性との親和がつよいらしく、国内外でその手のフィクション、いわば密教的なつながりもつ女学生たちが描かれている(気がする)。
記事末尾の「『are you listening? アー・ユー・リスニング』
『衒学始終相談』」の項にもつながってくる話だが、女性同士のシンパシーにはいまだに「百合」のひとつとして俎上にあがってきていない関係性があるのかもしれない。

(「連鎖堕ち」「カルト堕ち」の例として、『ピクニックatハンギング・ロック』『夜の姉妹団』とか……。わたしはホラーがマジで苦手なのでその方面にくわしくないが、『キャビン』はアメリカの映画ながら日本の9歳の少女たちが円陣をくんで霊を除霊するシーンが描かれているらしく、「こっくりさん」などの黒魔術になれ親しむ少女たちのすがたを彷彿とさせる。

りぼんで連載中の一話完結ホラーマンガ『絶叫学園』シリーズはちょくちょく百合っぽい話がでてくるが「これでずっと一緒だよ」といったアプローチがおおいので助かっている。なんの話?

「授業70 「ワタシの友達」」/『絶叫学級 転生 16 (りぼんマスコットコミックス)』
〈いしかわえみ〉
(集英社)


昨年Youtubeで公開された百合ボイスドラマ『私の教祖さま』などを参照するのもいいかもしれない。

今日も 愛していただけますか?

私はそれに、小さく頷く。
それは 儀式の始まりの合図だ
だって アイネは 教祖さまだから

【オリジナル百合ボイスドラマ】『私の教祖さま』(CV:蒔田つぐみ・佐藤みゆ希・中上育実)
(Youtube)
文言は『【作品紹介MV】私の教祖さま【百合ボイスドラマ】』より


オカルト系ではなく裏社会系をあたってみるのもいいだろう。『地元最高!』〈usagi〉とか……。
最悪『ニンジャスレイヤー』シリーズの女学校回に救いをもとめてもよい。

そんなこんなで『SAN値直葬!闇バイト』〈ムクロメ〉は「連鎖堕ち」を戯画化する。

『SAN値直葬!闇バイト 1巻 (まんがタイムKRコミックス)』
〈ムクロメ〉
(芳文社)


『SAN値直葬!闇バイト』はクトゥルフ系の百合?マンガだ。
クトゥルフ神話についてそう解説はいらないだろう。オカルト・宇宙的恐怖を基調とした架空の神話であり、複数の作家によって発展されたシェアード・ユニバースだ。

この手の作品として先達にあがるのが諸星大二郎の『栞と紙魚子』だ。
クトゥルフ神話をホラーではなく放埒なギャグマンガとして描き、そのかたわらで栞と紙魚子の友情をおっていく。斬新な取りあわせは後世からみてもめざましい。
しかしギャグにふりきるあまりホラーが陳腐化され、本質をうしなっているようにもみえる。これはホラーとなんらかのジャンルを組みあわせた作品にありがちな失敗であり、逆にホラー要素が手にあまりすぎ、物語が尻ぎれトンボにおわってしまうこともある(百合作品でいえば『惑星クローゼット』〈つばな〉や『君が肉になっても』〈とこみち〉など)。

『闇バイト』のバランス感覚は天才的といってもよい。ギャグを基調としながら、画面構成の妙をいかしてホラーを演出し、それらがなじみある勧善懲悪様式のバトル・アクションによって普遍的なカタルシスに処理されていく。
さながらクマやサメのように、ホラーを人間とって親しみやすく手にとりやすい「ぬいぐるみ」としてエンタメ化する。

『SAN値直葬!闇バイト 1巻 (まんがタイムKRコミックス)』
〈ムクロメ〉
(芳文社)

さりとて『闇バイト』がホラーの側面をないがしろにすることはない。さきほどもいった画面のインパクトはもちろん、金ほしさに世界の裏側へちかづく若者への代償、あるいは巻頭の、本編の大部分と類似しながら「堕ち」ていく奇妙なプロローグなどにより、ところどころで深淵がみつめかえしてくる。

クトゥルフ神話を題材にしたクトゥルフ神話TRPGでは、俗に「SAN値」とよばれるパラメータが存在する。
この世のものとはおもえない神話生物との遭遇、魔術の習得・使用などにより減少していき、簡単に修復されることはない。
どれほどシナリオをくぐり抜けてきたプレイヤーキャラクター(探索者)であっても、いずれはSAN値0の「永久的発狂」、常軌を逸した狂人、神話生物の信奉者として探索不能になっていく。

1巻の時点でかなりの災厄にみまわれている『闇バイト』の主役ふたりが、どこまで正気を保ち、うしなっていくのか。今後も目がはなせない。

(ところで著者のムクロメ氏はながらく『アイドルマスター シンデレラガールズ』の二次創作をしており、pixivにて拝見することができるのだが、おもに描かれるのは「浅利七海」と「ライラ」というキャラクターだ。このふたりは原作でも独特の雰囲気/世界観をもっており、氏の不思議ちゃん/電波少女/教祖さまへの愛着をみいだすことができる。『闇バイト』とのふんわりとした共通点が感じとれる。)




『ふつつかな悪女ではございますが ~雛宮蝶鼠とりかえ伝~』
(コミカライズ)


原作未読。ここで指示するのはすべてコミカライズ版。


第一章完結巻『ふつつかな悪女』第4巻の発売日は2022年12月28日。
う~ん、2023年!


正直この作品をわざわざ紹介する必要はあるのか?となんどもなやんだ。
1巻のAmazon評価数は2700件(2023年6月21日しらべ)。
そんじょそこらの人気作では(アニメ化作品ですら)太刀うちできない評判だ。
しかしこの作品が百合であることを喧伝する人間はあまりいないので……(もしかしたら原作小説のつづきは百合ではなくなっていくのだろうか?)恥をしのんでわめきちらそう。

『ふつつかな悪女ではございますが ~雛宮蝶鼠とりかえ伝~』第一章(1~4巻)は、嫉妬が愛慕にかわる百合、愛慕が嫉妬にかわる瞬間を描ききった百合マンガである、と。


『ふつつかな悪女ではございますが ~雛宮蝶鼠とりかえ伝~』
〈コミック:尾羊英 / 原作:中村颯希 / キャラクター原案:ゆき哉〉

(タイトルと著者欄がながすぎる作品をスムーズに紹介するには?)


百合(あるいは恋愛)において鑑賞者の情動へ働きかけるクリシェはいくつかある。
告白、キスなどがわかりやすいが、恋におちるとき・恋を自覚するときもそのひとつだ。
百合(恋愛)マンガにおいてふたりが結実することなど前提も前提であり、ほとんどの場合、彼女たちがどのようにして自身の感情を理解、吐露していくかに注目がおかれている。

もし仮に、嫉妬などの負の感情が……相手をつよくおもうきもちが……愛情にちかいものであると気づいたとき、どれほどのカタルシスが鑑賞者にもたらされるのだろうか。

もっとも愛される少女と、もっとも蔑まれる少女の入れかわりをつうじて、『ふつつかな悪女』は女と女の激情をいともたやすく転化していく。

「十一話 慧月、見破られる」
/『ふつつかな悪女ではございますが ~雛宮蝶鼠とりかえ伝~ 3巻 (ZERO-SUMコミックス)』
〈コミック:尾羊英 / 原作:中村颯希 / キャラクター原案:ゆき哉〉
(一迅社)


中国の後宮、女の園。ひとりの王の下に敷かれる序列・上下関係。すなわち感情の宝庫。
次代の后妃候補、序列最下位が最上位をつきとばし、呪術によって魂が入れかわる。

しかし最上位が最上位たるゆえんは、虚弱なカラダを克己するためにつちわれた忍耐力と処世術によるものであり、牢獄においやられたとて画竜点睛欠くことはない。
最下位の御身になげかけられる怨恨をつぎつぎと籠絡していく手管は、病床にふせる仇敵の心すらもほだしていく。

嫉妬はもっともあこがれにちかい感情だ。
なにもないわたしとちがって、あの子はなにもかも恵まれている。あの子にうまれれば誰だってしあわせになれる。それは表面上の幻想で、たとえ身体を入れかえたとしても誰かになることなどできやしない。
あなたはわたしになれないけど、わたしはあなたを愛することができる。そうして受けとめられる愛は甘美なまでに残酷だ。

そうした愛慕への転化のうらで、嫉妬へと滴りおちていく謀略が張りめぐらされる。
いちおう後宮ものなんで男女恋愛もけっこうあるけど女と女の感情がすごすぎてそれどころじゃないぞ!
女どもの憎愛劇を刮目せよ。


新章『ふつつかな悪女』第5巻は2023年6月30日発売!
う~ん、下半期!




「王子ちゃんの好きな人」


つよい思想


へー、ちゃおで百合。
今年のちゃおは『2人はS×S』〈くまき絵里〉や『黒百合ミステリー』〈阿南まゆき〉となにかと百合にチカラいれてるなぁ。

これも女の子どうしの特別な関係をうたったやつかな?


「王子ちゃんの好きな人」
〈るぅ1mm〉
(ちゃおランド)


エーッ、ガチ恋愛!?


(注:短編マンガ)


フィクションの王子キャラが好きな女の子と、好きがこうじて王子キャラそのものを体現してしまった女の子。
おなじ「好き」を宿したものどうし、仲むつまじくむすばれる。
ちゃおデラックスでは女装した男の子が男の子を堕とすマンガも連載してるし、女の子どうしの恋愛もあっていいよね~。
めでたしめでたし。

そうおもうなら、俊英・るぅ1mmの恐ろしさを知らないのだろう。
氏のバランス感覚は絶妙で、「王子ちゃんの好きな人」はわずかなひっかかりをのこしながらハッピーエンドを印象づけた。

氏の代表作はやはり『怪獣くん』だ。
暴力をふるってしまったがために「怪獣」と揶揄される男の子のもとに、怪獣と人間のハーフである女の子が転校してくる(おまえの母ちゃんすげえな!)。
より重度の異端が編入されることでいじめの矛先がかわる事象や、運動会を成功させたいがために暴走してしまうクリシェが、人間と亜人という概念によって明白にされる。

さらに参照するなら、百合マンガの「あさみちゃんのなくしもの」が的確だろう。
気になるあの子はなんでももってる。
空虚さ、所有欲。なんでももってるあの子からぬすむことで、間接的に感情が同化されていく。
こぼれおちたあの子の破片、のこされたぬくもり、はじきだされた愛情が傀儡になって立ちあがる。

「あさみちゃんのなくしもの」
〈るぅ1mm〉
「友達の物を盗ってしまう女の子の話」(@twi_sirius)


まだ未文化で衝動的な子どもたちの感情。
それがひきおこす尊さといましめの両極を、鮮烈に表現せしめるたしかな画面構成力。
鋭敏な作家性をもってして、「王子ちゃんの好きな人」はなにを言わんとしているか。


「だって自分の気持ちをまっすぐに伝えられる…
北大路くんが好きなことも
今も
姫子くんはすごいよ」

「王子ちゃんの好きな人」
〈るぅ1mm〉
(ちゃおランド)

姫子が気持ちをまっすぐに伝えたことはない。
失恋した王子ちゃんのまえで涙をながしてしまうシーンですら、「だって…!」のあとにことばをつづけることができない。

少女マンガの作法にしたがって、モノローグが頻繁にもちいられる本作。
姫子の発言とモノローグが一致したことは、18ページの「すごくうれしい」(うれしいに決まってるよ――…)だけであり、後半にいけばいくほど並置されたセリフとの齟齬がおおきくなっていく。

彼女がモノローグを口にすることはない。

「王子ちゃんの好きな人」
〈るぅ1mm〉
(ちゃおランド)

「王子様にお姫様と呼んでもらえる自分になりたい」とは言うが、王子様が誰をさすかは明言しない(そして王子のイメージは個人を特定できないかたちで想起されている)。
「(王子ちゃんの好きな人は私がいい)」というきもちが、さも姫子個人で完結しているファッション表現かのように表明されていく。
「なりたい自分」という概念が、自分だけではなく王子ちゃんをも巻きこんだツガイの問題であることを、王子ちゃんは知らないまま礼賛する。

王子ちゃんがワンピースを着てきたあの日、発されなかったことばのつづき、目減りしたモノローグが、この関係のウィークポイントだ。
はたしてこれは純粋な愛情か?


「王子ちゃんの好きな人」は、おしゃれをすることや、人を好きになることについて子どもの目線になって描いてみました。
ふたりの恋心がどうなるのか、もちろん大人の俯瞰的な目線でも楽しめると思います!
ぜひ楽しんでいただけたら嬉しいです!

「王子ちゃんの好きな人【百合漫画】」
〈るぅ1mm〉
(note)
太字は引用者の注釈




「Know Your Heart / Tacitly【Official Music Video】」



2014年に「日本アニメ(ーター)見本市」で公開された『ME!ME!ME!』が大ブレイクし、はや9年。
ミュージックビデオにアニメを採用する文化はまたたく間に定着し、いまではすっかりおなじみとなっている。
2022年には「【Ado】風のゆくえ(ウタ from ONE PIECE FILM RED)」や「ずっと真夜中でいいのに。『綺羅キラー (feat. Mori Calliope)』MV (ZUTOMAYO – Kira Killer)」などの高い評価をうける百合アニメMVが多数リリースされた(個人的な推しはディストピアSFショートアニメ『R O U N D 1 | Alien Stage』だ)。

2023年3月付近、複数のアーティストから百合アニメMVが怒涛のようにリリースされ、すべてのアニメMVが百合になる(女装百合もちょこちょこあってうれしい)。
YOASOBI「海のまにまに」Official Music Video」が筆頭格だが、ほかにも百合人魚姫の「「先日はロマンス feat. suis from ヨルシカ」Music Video」、ウテナ風の「【ちな×クリープハイプ】『でたらめな世界のメロドラマ』/♪「凛と」/TOHO animation ミュージックフィルムズ」などがある。

そのなかでもひときわ目を惹いたのが本項表題の「Know Your Heart / Tacitly【Official Music Video】」だ。


重要なエッセンスは冒頭のTweetにあつめられているので参考にしてほしい(氏の単独制作らしい)。
一人称の独特な構図、キッチュなフレームレートのおばけ表現、そして年ごろの少女特有の体重移動をものの見事に表現し、青春のエモさを鑑賞者に錯覚させる。
昨年放送された百合アニメ『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』にも類似する、キャラクターの生命感がありありと感じられるアニメーションとなっている。


ところで、シンガー・TacitlyはNTTのプロデュースするバーチャルアーティストらしく、本楽曲もNTTドコモとのタイアップによるものらしい。

わたしは2020年にリリースされたNTTドコモの百合アニメCMにいつまでたっても心をとらわれている。
上田麗奈による語りが付与されたCMは何パターンかあったのだが、いまではネットから消去されたためにこれしかのこっていない。諸行無常。




その他/気になった作品



『春夏秋冬代行者 春の舞』
(コミカライズ)


小説作品をマンガ化するさい、もっとも枷となるのはなにか。
わたしたち単行本派(デカい主語)が作品を購入するにあたり、「一巻」という最小単位はつよい影響力をもつ。
世界観の提示、キャラクター紹介、テーマの敷衍、今後の展開。
いかにして鑑賞者を作品にひきこみ、逐次出版される続刊を「読者」として買いつづけてもらうか。
制作者にとって「一巻」とは鑑賞者の手にすべりこませることができる一単位であり、「読者」にしたてあげる一セットアップとして緻密にねりあげられている。

しかし小説一巻がマンガ一巻でおぎなえるほどの尺でなければどうなる?
起承転結に完成された小説一巻をマンガ三巻ぶんに分割しなければならないとすれば?(現実にほとんどのコミカライズはそうだ)
わたしたちは「起」しかない一巻をみて「読者」になれるだろうか?

『春夏秋冬代行者 春の舞』〈漫画:小松田なっぱ / 原作:暁佳奈 / キャラクターデザイン:スオウ〉はそれらの制限を如実にうけてしまったコミカライズとなる。

「第1話」/『春夏秋冬代行者 春の舞 1 (花とゆめコミックス) 』
〈漫画:小松田なっぱ / 原作:暁佳奈 / キャラクターデザイン:スオウ〉
(白泉社)


本シリーズは現代日本が舞台ではあるが、特殊な世界システムによって運用されている。したがって、最序盤で説明されなければならない特記事項が数おおく存在する。
原作とコミカライズを読んだうえで最低条件を書きだすなら、以下のようになる。

  • 舞台は(地名が置きかえられた)現代日本。

  • 月日の経過によって季節が入れかわらず、神によって四季それぞれにえらばれた「代行者」が儀式をおこなうことで周囲一帯に季節がもたらされる。

  • 各「代行者」ひとりに護衛官がひとり存在し、身辺の世話から命を賭した警護までをも専念する。

  • 「代行者」の業務の内実は秘匿され、一般人の目にふれてはならない。

  • なんらかの事件によって春の代行者は10年間業務を放棄せざるをえない状態になっていた。そのため、ここ10年春がない状態で運用されている(夏→秋→冬→夏のサイクル)。

  • 物語は10年ぶりに春の代行者が春を顕現させるところからはじまる。

  • 本来は代行者の業務を管理・補佐する行政機関「四季庁」のもとで儀式をとりおこなうが、春の主従はペアのみで行動しており、なんらかの理由で追われている。

エッ、多すぎ……!?

いや意外となんとかなるか? 小説家になろう作品のコミカライズでよくみられるように、一話のほとんどを説明回にすればなんとかなりそうだが……。

しかしコミカライズ版『春夏秋冬代行者』はそのような方法をとらず、もっとも四季システムの利害が伝わるであろうシーンから出発する。
(電子版なので前後するが)原作小説であれば冒頭からすすんで45ページほど、いわゆる第一村人発見イベントだ。

第一村人・なずなは「ハル」を知らない。齢12歳であり、10年間「ハル」がおとずれなかったことの重大さを体現する。
なんらかの理由でひとり雪山をのぼるうちに春主従とであい、親しくなっていくうちに、母親の墓の雪かきをするために行動していたことをあきらかにする。
幼子の気持ちに心をうたれた春主従は儀式によって春を顕現し、雪をかき消すとともに、なずなは幼少期の記憶、母親とみた「春」の記憶を思いだす。

たしかにこれは一話として最高のツカミかもしれない。しかしおおきな構造的欠陥がひそんでいる。
それは第一村人・なずなの行動が「なぜ?」をかさねるかたちで、謎が徐々にあきらかになっていくかたちで描かれているからだ。

この少女はだれ?主人公?モブ? なぜ雪山にのぼる? なぜソリをもっている? なぜハルを知らない? なぜ雪かきをしにいく? どこへ? なぜ大人に不信感をいだいている? 案内された場所はなに?

第一村人にまつわる「なぜ?」の連鎖と、上述の特記事項の説明(「この作品はどういう話でどういう設定?」)、それらが一話に押しこめられる。
鑑賞者はふたつのクエスチョンの連鎖をうまく噛みくだきながら物語についていかなければならない。が、それができる人間はほんのひと握りだろう。

情報が錯綜するなかで、重要だが省かざるをえなかったくだりもある。
たとえば、一話の舞台は沖縄(作中では「竜宮」)であり、かつ積雪している。これは春が10年おとずれなかったために季節のバランスが崩れたからだ。
そして第一村人・なずなの家系は、リゾート地・沖縄の観光業によって収入をえており、その寒冷化の影響によって少なからず打撃をうけた。母親の死去は仕事のかえりとされているが、のっぴきならない本業のために割りましされた労働がなければ……と推測することもやぶさかではない。
すなわち、なずな一家はなにからなにまで、10年間顕現されなかった季節の被害をうけている……。その事実がコミカライズではとりこぼされている。

しかし、これらはコミカライズ担当の不手際というよりかは、冒頭にあげた尺の問題がおおくを占めているのだろう。『春夏秋冬代行者』の特記事項は膨大であり、かつ一話としてキャッチーな話構成にしたてるのは容易ではない。

コミカライズ版のよい点として、一話の結末部分があげられる。

「第1話」/『春夏秋冬代行者 春の舞 1 (花とゆめコミックス) 』
〈漫画:小松田なっぱ / 原作:暁佳奈 / キャラクターデザイン:スオウ〉
(白泉社)

「だって私のせいで 雛菊様が 死んで しまったのだから」は原作小説では「お前のせいで、『雛菊様』は死んだんだぞ。」であり、およそ66ページに書かれている。
たいして「春は無事 此処に います」は原作小説ではおよそ127ページに書かれている。
つまり、ページめくりをはさんで明暗がひっくりかえるこの描写はコミカライズ版ではじめて隣接・対比されている。

ハートフルな話のながれから一転してダークな過去がほのめかされ、ほかならぬ従者・姫鷹さくらによって主・花葉雛菊が死んでしまったと嘯かれる。しかしページをめくれば、現人神の威光をその身にやどした雛菊の姿が明示され、第一話が終了する。
原作小説では存在しなかった強烈なヒキは、コミカライズにあたって関係者たちが努力をおこたらなかった証左だ。

『春夏秋冬代行者』ではこのようにして、疑問符を引きだすかたちで徐々に物語っていく手法が全編をとおしてもちいられている。
コミカライズ第一巻ではその後、補遺&オリジナルストーリーの逃避行デート回(!?)がはさまれ、春主従にただならぬ遺恨をのこす冬主従話で巻をおえる。
そのあいだにばらまかれたクエスチョンは、とてもではないが列挙できない数だ。
ここでもやはり、尺の差が問題になるだろう。

小説本であれば一巻の序盤にナゾを提示しておき、気になった読者は読みすすめることで、終盤にある程度の回答がえられるだろう。
事実、原作小説『春夏秋冬代行者』第一巻はそうであり、かつ物語のおおまかなながれ、起承転結の転の部分までふくまれている。

しかしマンガ本一巻の尺ではナゾをふりまく工程で精一杯であり、気になった読者は連載か続刊の発売までやきもきした状態で待たなければならない。
皮肉なことに、読者を読みすすませるために配置した不明瞭な気持ちが、つづきが公開されるまでに霧散、あるいは不明瞭な物語としてマイナスの購買意欲にかわってしまうことも少なくない。

またコミカライズ版『春夏秋冬代行者』第一巻は、前半が春主従の人助けであり、後半は冬主従の人助けでおわる。こうして切りとられることで、ある誤解が生じてしまう。
「つまりこの物語は現人神たちが人々を救っていくハートフルストーリーなのだろうなあ」という誤解だ。

ここで原作者の前作の話をしよう。
それは『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というタイトルだ。かの京都アニメーションによってアニメ化され、繊細な映像美でおおくのアニメファンを感動のうずに巻きこんだ人気作である。
しかし原作小説からアニメ化されるさいに、オミットされた(描かれなかった)要素がある。
それは戦闘人形・ヴァイオレットの超人的身体能力、愛用の戦斧、そして戦闘シーンだ。
退役した戦闘人形・ヴァイオレットが人間たちと暮らすなかで「愛」を理解していく、感動的なアニメのそれとはほど遠いバトル・アクションが原作小説では描かれている。
冗談まじりに退役軍人の話になぞらえて「ランボー」と評するファンもいたりする。

というわけで、『春夏秋冬代行者』もご多分に漏れずドンパチやりはじめる。
繊細な女性同士の話です……みたいなはじまり方から物語は飛躍していき、四季が人間の手で運用されるならとうぜん快くおもわない人間たちもいるだろう、との考証でテロリストの襲撃が活発化、あろうことか国家権力VSテロリストのクライム・サスペンス・ムービーのようなノリでクライマックスがおとずれる。
これも原作小説であれば、一巻のむすびに鏑矢と言わんばかりのブチこみがあるので予測可能だ。


そんなこんなでコミカライズのむずかしさを語ったが、それは逆に弁護してでも読んでほしい作品ということだ。
本記事は百合作品を紹介する記事なので、とうぜん百合関係の尊さに目をむける。

代行者・花葉雛菊と護衛官・姫鷹さくらの見どころ。それはズブズブの共依存 生死のはざま、その両極からむすばれあった関係性であることだ。

雛菊は存在から忌み子のようであり、代行者にえらばれたあとも一族からよくおもわれていなかった(代行者はその血族のなかの子どもから無作為でえらばれるため、学校や病院までそなえた四季ごとの「里」で暮らしている)。
そして物語序盤であかされるように、「賊(反四季組織)」によって誘拐され、行方をくらますことになる。
とある理由によって、春の里からは早々に捜索を打ちきられ、監禁状態でおよそ10年間の責め苦にあう。
幼いながらに雛菊自身も一族に見捨てられていることを察し、自死が解放をちらつかせるなかで、自身をしたってくれた姫鷹さくらと冬主従のために生へしがみつき、長い年月をへてかえり咲く。

さくらは護衛官の名門でありながらワケありの子であり、おなじくよくおもわれていなかった代行者・雛菊と仲よくなったことから護衛官としての利用価値をみいだされ、一族にその存在を認知されるようになった。
死に自由の道があった雛菊とは対称的に、雛菊が誘拐されることで、一族からの追放、世界システムからの解放、自由がもたらされる。
しかしさくらは自由よりも大事なものがあった。そうして約10年ものあいだ、単身で雛菊をさがしつづける。

追放であれ死であれ自由の道を示唆されていたふたりが、お互いをおもう心によって世界システムの供物になることをえらぶ。そこに『春夏秋冬代行者』の尊さがある。

またそのような紆余曲折があってひねくれてしまった姫鷹さくらの人間性も注目にあたいする。
雛菊に存在価値のすべてをゆだねるさくらにとって、ふたりを見捨てた世界への怒りが行動理念のおおくを占めている。その炎を絶やさないために憎しみを保持しつづける必要があり、雛菊への過保護に発展している。
自身の存在意義をたしかめるために、ほかならぬ雛菊にむかって自身への愛のことばをねだってしまうすがたに、少女さくらの脆さと儚さを感じとることができるだろう。

また原作小説の話となるが、その特徴として囃したてるような地の文があげられる。弁舌つくした長回しは作品の心へ訴えかけるチカラにもつながっており、もはやナレーターのキャラクター性までにじみでてくるほどだが、コミカライズでは泣く泣く削ぎおとされるしかない。
姫鷹さくらは作中キャラのなかでも多弁であり、見開きを埋めつくすような長台詞もしばしばもちいられる(例として『駈込み訴え』〈太宰治〉があるが、百合好きには「しまむらの刃」〈入間人間〉といったほうが適切か?)。

――わたしの神様。
 頭の中で、鐘が鳴った。辛く苦しい日々を、今日という日の為に生きてきたと確信した。
 この少女神への忠誠心は本物だと、今、この瞬間再確認できた。
――病める時も、健やかなる時も。
 義務感とは違う。
――喜びの時も、悲しみの時も。
 使命感とは言い難い。
――富める時も、貧しき時も。
 しいて言うならば、これは運命で。
――貴方を守り、貴方を敬い。
 真実のところ、これは信仰で。
――貴方を慰め、貴方を助け。
 そして信仰を捧げるべき相手は正に神で。
――命ある限り、貴方の為に戦うことを誓う。
 殉教出来なかったあの時を挽回する機会がいま与えられているのだ。
 だから何だってする。何故ならこれは信仰だから。
「雛菊様……今度さくらが雛菊様を守れない時は、さくらが死ぬ時です」
――十年前、貴方を助け出せなかった罪を背負って、いつか死ぬ。

「それが、さくらの幸せです」

「第一章 春の代行者 花葉雛菊」/『春夏秋冬代行者 春の舞 上 (電撃文庫)』
〈著者:暁佳奈 / イラスト:スオウ〉
(KADOKAWA)


また、夏の主従も百合的にみのがせない。
むしろはこの双子姉妹はわたしの好みにクリーンヒットし、二週間ほどもがき苦しんだほどだ。

理知的で責任感のつよい姉と、天真爛漫な妹。
さて、代行者にえらばれたのはどちらだろう?

夏主従がほかの四季とちがうところは、その世界システムをとりおこなうことになんの矜持ももちあわせていないことだ。

代行者はその四季の里の血族、幼少から成人までの人間より無作為にえらばれる。えらばれたが最後、死ぬまで一生四季をめぐらせる神としてまっとうしなければならない(生前退位などない)。
また、死んだ瞬間つぎの代行者が補充されるため、代行者にえらばれたからといって里内の地位がよくなるどころか、内部のものからすげかえられる危険性がつきまとう。
そして、四季をめぐらせてほしくない過激派からのテロ行為に日夜おびやかされる(冬は顕著)。

ひどない?

そのため、おおくの家系はわが子が選出されないよう神に祈るしかない。

双子姉妹もまた、片割れが選出されないように祈っていた。

そうして。
なぜわたしじゃなくてあの子がえらばれたのか。
なぜあの子じゃなくてわたしがえらばれたのか。
両親ですら見分けがつかないわたしたちのなにが、神の選定をわけたのか。
夏の双子主従は、無慈悲な世界システムを呪う。

代行者にえらばれなかった姉は罪滅ぼしとして護衛官に。
代行者にえらばれてしまった妹は姉のためだけに「夏」を顕現する。
自らにおわせられた役目の腹癒せかのように、姉をもとめて離さない。
妹の束縛に、えらばれなかったものの罪の重さに、姉は窒息する。


わたしの好みの類型に「天真爛漫な妹をコンプレックスにおもう理知的な姉」というのがある。
たとえば『東方project』の「古明地姉妹(おもに二次創作で)」。
たとえば『BanG Dream!』の「氷川姉妹」。
あるいは小川未明の『灰色の姉と桃色の妹』。

陰気な姉は、少時は妹のことを忘れることができなかった。たとえ気質は異っていても、そして、こうしているところすら、別々であっても、妹のことを忘れることができなかった。それは、快活な妹にとっては、迷惑にこそ思われるが、すこしもありがたくないばかりでなく、できるものなら永久に、姉から別れてしまいたいと思ったこともあります。

『灰色の姉と桃色の妹』
〈著者:小川未明 / 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 / 校正:江村秀之〉
(青空文庫)


マリー=ジュリエット・オルガ・"リリ"・ブーランジェとナディア・ブーランジェのWikipedia文学はわたしのお気に入りのひとつだ。

ナディアがローマ大賞で準優勝した時、パリ音楽院に入学してから10年の月日が流れていた。リリは入学からわずか1年ほどで、地滑り的大勝でローマ大賞を制したのである。姉妹の父エルネストが1900年に没したことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのであるが、今度はリリが1918年に急逝すると、ナディアは作曲の筆を折ったのだった。リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていた。

「ナディア・ブーランジェ - Wikipedia」
(Wikipedia)
太字は本記事の注釈

(最近だと『婚約者は、私の妹に恋をする』〈漫画:ましろ / 原作:はなぶさ / キャラクター原案:宵マチ〉が非百合だがこの手の作品で気に入っている。
あとは『異世界おもてなしご飯』〈漫画:目玉焼き / 原作:忍丸 / キャラクター原案:ゆき哉〉(微百合)か。)

そうした類型の到達点として『春夏秋冬代行者』は比類のないほとばしりをみせる。

 同じ顔をした双子の女の子。大勢の幸せの為に自分の幸せを捨てさせられた女の子。
 その子を神様として奮い立たせるのがあやめの役目だった。
『お姉ちゃんが言うから夏をあげる』
 あやめは夏が来る度に苦しくなる。
――瑠璃。
『他の人にはあげたくない』
 自分の罪と対面したかのような気持ちになるからだ。
――瑠璃、やめて。
『お姉ちゃん、夏を見せてって言って』
――ごめんね瑠璃、嘘をついていたの。
 妹の姿をした神様は、あやめの罪そのものだった。
『お姉ちゃん、大好き』
――瑠璃、大好きだよ。
 でも本当はこう言いたい。言ってしまいたい。


「第一章 夏の代行者護衛官 葉桜あやめ」/『春夏秋冬代行者 夏の舞 上 (電撃文庫)』
〈著者:暁佳奈 / イラスト:スオウ〉
(KADOKAWA)

夏の姉妹がおたがいをどのように想い、どのような物語を描くのか。
あなたの目でたしかめていただきたい。

注意事項として『春夏秋冬代行者』シリーズは女性同士の関係性であってもたいていは異性愛が闖入する。
しかし男どもは男同士でまたズブズブの共依存をかもし出しており、むしろ頭数としてはBLのほうがおおい。
『夏の舞』でお出しされる怒涛のおにショタラッシュにふるえろ。

どちらかといえば虐待など精神的苦痛をにじませる描写がおおいことのほうが大事だろう。
特に原作では文体もあいまって精神に訴えかけるチカラがつよい。
とはいえ、ここ最近でも特におすすめしたい作品のひとつだ。

ちなみに、同時連載している『春夏秋冬代行者 百歌百葉』〈作画:浅見百合子 / 原作:暁佳奈 /キャラクター原案:スオウ〉は本編終了後の補遺をマンガ化している。
本編のネタバレしかないので注意したい。




『ピエタとトランジ』
(コミカライズ)


まだ死体埋めで疲弊してるの?
時代は世界を埋める百合!
全自動で埋めろ!


『ピエタとトランジ』原作は芥川賞作家・藤野可織によるサスペンス?小説で巷ではシスターフッド作品としてうけいれられている。
一般文芸のなかでもハードボイルド風の文体で、キャラクターの荒々しい口調もあいまり百合小説とよぶには荒涼さがつよい。
講談社によって出版された単行本『ピエタとトランジ <完全版>』の挿絵は『beautiful place』『女子攻兵』など劇画タッチのマンガを描く松本次郎であり、やはり上述の印象を強化している。


少年誌風の少女マンガ雑誌・月刊コミックジーンで連載中のコミカライズ版『ピエタとトランジ』は百合作家・キスガエによって手がけられており、全体の印象がいわゆる「百合漫画」っぽくアレンジされている。
単行本一巻のあとがきで言及されているように、原作者の厚意がうかがいしれる。
これは藤野可織が大学院で美学芸術学をまなんだことにも由来するのだろう。「漫画と小説では表現の仕方も読者層も違う」(コミカライズ第一巻あとがき)メディウムスペシフィシティの精神だ。

「第3話 高校教師飛び降り事件」/『ピエタとトランジ』
〈漫画:キスガエ / 原作:藤野可織〉
(KADOKAWA)


本作のあらすじとしてはこうだ。
頭脳明晰だが殺人事件をひきおこす体質のトランジと、その能力に巻きこまれない(自身が加害者/被害者にならない)ピエタ。
高校を卒業するころには全校生徒が半数以下まで減少するほどの異常環境で、ふたりは人生を生きとおす。
この手のジャンルでは時間のながれが独特で、50歳以降の壮齢~老人期が原作小説のおおよそ1/3から1/2をしめる。一種の高齢百合といってもいいだろう。
トランジににまつわるアレコレが拡大し、人間社会が立ち行かなくなったとしてもともに寄りそい存在を肯定しあう。それが『ピエタとトランジ』の醍醐味だ。

で、本編とはそんなに関係ない話なのだが……。
コミカライズ版『ピエタとトランジ』はKADOKAWAが運営するコミックポータルサイト「Comicwalker」に掲載されている。といっても一話だけだが。

このサイトは制作側からタグづけがされており、「百合」タグにかなりの作品が登録されている。が、『ピエタとトランジ』はそうではない。
「女子バディ」「シスターフッド」「ロマンシス」。公開当時はそれぞれ該当作が『ピエタとトランジ』一作品だけのタグだった。
(いまでは「シスターフッド」にコミカライズ版『蝶と帝国』〈漫画:箕田海道 / 原作:南木義隆 / キャラクター原案:shirone〉が登録されている)

で、それらのタグをみるとフェミニズム的主張のつよい作品なのか? と訝しむかもしれないが(原作者の制作意図はそうだ)、作中のふたりは自分自身の人生を全うしているだけであり、なにかしらの意図を表明しよう、などの行為をとることはない。
ふたりは腐れ縁のような関係で、ありのままの生を享受しており、「バディ」の定義に値するかもあやしく、「シスターフッド」あるいはその派生の「ロマンシス(友情+シスターフッド)」と評される作品としてはめずらしい。
(ありのままの生を享受できないのが女性の生きづらさである、ともいえる)

どちらかといえばトランジの体質によって世界が侵されていく「アポカリプス」「パンデミック」作品といってもいいだろう。

個人的にお気に入りの作品で、コミカライズの質も高く、ぜひ老後のふたりをみてみたい、という意志で紹介しておく。




『火山の娘』


『火山の娘』
〈Gamera Games〉


父親になって娘をそだてるゲーム。
Steamでも名だたる名作しか得られない「圧倒的に好評」(500件以上のレビューで95%以上が好評)をいただくヤバいやつ。
6月下旬、いきなり日本語に対応しこの記事の進捗をハチャメチャにした張本人。

なんと同性とむすばれる(親友・恋人)エンドが12個くらいあるらしい。
服屋の娘や公衆浴場のおばさんとのルートも存在。いますぐ父になれ!
なんか男がめっちゃよりついてくるけど娘はやりません面しとけ!


初回クリアはポリアモリー百合エンドでした。洗脳教育最高!


Steamの百合ゲーは昨年11月末にリリースされたこっちもなかなかの評判らしい。
日本語非対応、英語で22万文字。こっちの開発元の作品が日本語化されたことはない(たぶん)。




『お兄ちゃんはおしまい!』
(TS百合は存在できるか?)


「TS百合」。
あらゆる場を一瞬で焦土にできる呪文だ。
性転換にまつわるフィクション作品(得てして男性から女性への変化が中心だ)の総称「TSF」(トランス・セクシュアル・フィクション)と「百合」の合成であるこのジャンルは、もはや口にするだけでわざわいを引きおこすことから禁句とされる。
この記事の目次をみて、この作品名をみたとき、少なからず戦慄がはしった人間もおおいだろう。

しかし「TS百合」がいかにして存在し、いかにして存在できないのか。それを論理的に説明できる人間はそうおおくない。
本来ならばTSFアニメが大量に放送されていた2023年冬アニメの時期に間にあわせるべきだったが、あろうことかタイミングをのがしてしまっていた「TS百合論」にここでかるくふれておく。

(『お兄ちゃんはおしまい!』本編の感想ですか? 原作は「TSF」というジャンルをR-18から引きはがしたことに意義があるとおもっている。ので、スタッフの手つきがいやらしかったアニメは解釈ちがいかも……とだけ)


前提として、「TS百合」を論じるまえに「百合」の定義をたしかめなければならない。しかしこれはあたりまえのように不可能である。
女性同性愛だとか女性同士の関係性うんちゃらのまえに、フィクションにおいて「女性」がなにであるかを統一できないからだ。

ジェンダーなどの後発的に付与される属性とことなり、現実世界であれば生物学的性にもとづき、医学的知見から性を確定することができる(性分化疾患のことは浅学でありご容赦ねがいたい)。
しかしことフィクションにおいてはそうではない。フィクションに生身の身体は存在せず、なにかしらの模倣であることを余儀なくされるからだ(ドラマ・演劇などであっても、役者の性や種族とちがうものを演じることがある)。
わたしたちが普段よく目にするフィクションの性は、いずれかの性を逸脱しない平均的特徴の集合体であり、どこまでいっても「らしさ」でしかない。

ここに、作品内あるいは作者から女性と明言されているが、きわめて男性的な身体的特徴/内面的特徴をもつキャラクターがいるとする。
さて、これはほんとうに「女性」か?

これが第一の分水嶺となる。
フィクションの性を判別するさいに、作者の提示した性別を尊重するか、それともキャラクターの特徴をみて判断するかのちがいだ。
もちろん性別によって判断がかわる人間がいてもよいだろう。作者の提示した男性がほんとうに「男性」かどうかは気にしないが、女性が「女性」かどうかは提示かつ特徴が合致してないと認めない、といった意見だ。
また、どこまで異性的特徴を有していたら提示された性でないと判断するかもひとによってかわる。

発展して、ジャンル「百合」であつかう「女性」の範囲も問題となる。
ふだん百合でない作品をみるさいに、女性キャラクターの女性性にあまり目をむけることはないが、ジャンル「百合」にかぎっては、そこで関係をむすぶ「女性」ふたりの提示と特徴が一致してないといけない、といったひともいる。
それは、男性が提示されてるものの女性的な特徴をもつキャラクターはもちろん、ボーイッシュキャラクターが片側以上をしめる関係性をジャンル「百合」と認めないかもしれない。
わたしのように、作家によって女性と提示されているか特徴が女性的であれば「百合」たりうるとする悪食な人間もいるだろう。
これが第二の分水嶺だ。

ここからはジャンル「百合」の定義の話になってくるので「TS百合」うんぬんから外れるかもしれない。
わたしたちはジャンル「百合」の範疇をきめるときになにかとその射程のことを論じがちだ。恋愛/性愛こそが「百合」であって、友愛などは「百合」ではない、というふうに。
しかしそれ以外の条件を設置する人間もいるだろう。たとえば若者むけのキャラクターイラストでなければ「百合」ではないとする人間や、キャラクターの年齢が一般的な学生とおなじ齢でなければならないとする人間、キャラクターの性的志向がレズビアンでなければならないとする人間も。ややこしいのは逆に「レズ」は「百合」ではないとつっぱねる人間もいることだ。
ともかく、第三の分水嶺はジャンル「百合」の定義となる。条件といってもいいかもしれない。ここがいちばんむずかしい。

そして最後の分水嶺は「百合作品」が「百合もある作品」ではなく「百合をメインとした作品」になる尺度だ。
たとえば、主人公と(副)主人公が「女性」同士の作品がある。このふたりはつよくむすばれあっている(ようにみえる)。
しかし作品全体のエピソードをならべてみたとき、このふたりの関係性に焦点をあてている時間が意外にもすくない。前半は濃密に描いていたが、後半になってふたりの関係性以外のテーマ描写に終始してしまっている、などだ。
こういったケースにおいてどれほどの時間を関係性にあてれば「百合作品」(百合がメインの作品、あるいはそういった指示を内包して「これは百合だ」)とよんでもいいのか、その閾値はひとによってかわる。
もしかしたら、おわりよければすべてよし、と最後に関係性の終着点が描かれれば満足する人間もいるかもしれない。

「TS百合作品」が実在するとして、その内実は「TSF」要素と「百合」要素にわけられる。
もしTSF要素がおおく百合要素が一定以下しか描かれていないのであれば、ひとによっては「TS作品」であり「百合作品」ではないかもしれない。
百合要素がおおくTSF要素が一定以下の場合もそうだ。
あるいは「TS百合」に独自の美学・シチュエーションがあって、それをみたしてなければ「TS百合」ではないとする人間もいるだろう。

『お兄ちゃんはおしまい!』と同期のアニメ作品である『転生王女と天才令嬢の魔法革命』〈鴉ぴえろ〉は作家がTSF愛好家であり、かつ主人公の前世の性別を確定していないこともあって(不明ではなくどちらかに決めていない。すなわち100%「女性」ではない)、これを「TS作品」であり「百合作品」ではないとする派閥が存在する。
しかし『転生王女と天才令嬢の魔法革命』の物語内ではTSF要素、たとえば前世が男性であることにおわせるような描写は目立っておらず、これを「TS作品」とすることはおおくにとって十分でないだろう(女性しか好きになれないのは男性的特徴? 解釈はひとそれぞれだ)。

また『お兄ちゃんはおしまい!』が「TSF」かつ「百合」が十分に描かれている「TS百合作品」であるとして、主人公とその妹のシチュエーションが「百合」かどうかは肯定派でもかわるかもしれない。
妹は、兄として優秀でなければならないことになやむ……男らしさにとらわれている兄を解放するために性転換薬をつくった。そして兄が妹の妹になったとしても、ときおりみせる兄らしさ(男らしさ)にときめいてしまう。
これは兄が男性として提示されている、提示されていた過去がなければ立脚しえないシチュエーションであり、兄妹愛の話であって、「百合」ではないかもしれない。
「百合」を感じうるシチュエーションかどうかというミクロの視点も織りこんだうえで、第四の分水嶺は存在する。

最後に、それぞれの分水嶺にマイナス因子をもうける人間もいる。
たとえば、男性が……そのひとが判断するところの「男性」が混じっていれば即「百合作品」ではなくなったりする。よく聞く話だ。


レベル1:「女性」は提示か特徴か。
レベル2:ジャンル「百合」の「女性」はどこまでをさすか。
レベル3:ジャンル「百合」の定義・条件はなにか。
レベル4:「百合作品」たりうる尺度はどれほどか。

ここまで整理することで、わたしたちはそれぞれの考えをしめし、「TS百合」を肯定するか否定するかを論理的に表明できる。

たとえば作者によって男性と提示されているキャラは、どれほど女性的身体特徴/内面特徴をそなえているからといって「女性」にはならない。なので「TS百合」を否定する、という意見。
あくまでジャンル「百合」の「女性」がさししめすのは女性と提示され女性的身体特徴/内面特徴をもつキャラクターにかぎるので、「TS百合」を否定する、という意見(しかしこれはボーイッシュ/ブッチキャラクターすら弾きだしてしまう可能性を留意したい)。
レベル1、レベル2についてくわしく考えたことはないが、レベル3・ジャンル「百合」の条件として、今風の絵柄の美少女キャラクターかつ性的マイノリティであることを設定しているため「TS百合」を肯定できる、という意見。
レベル3の条件に「片方が片方のことを”女性”とみて好きになっていること」を設定しているので『あやかしトライアングル』〈矢吹健太朗〉のことを「百合」だとはおもっていなかったが、最近の展開ではヒロインが主人公のことを女性のすがたのまま愛そうしているので、レベル4の視座で直近にかぎっては「TS百合」としてみることができる、という意見。

わたしたちが直接的に「◯◯は”百合”ではない」と否定してしまうのではなく、「わたしが◯◯を”百合”ではないとおもう理由」をのべることで、おたがいにわかりあえる機会がふえるかもしれない。
これによって醜いあらそいがなくなる……とはかぎらない。

(ちなみにこの理論は「女装百合」にも適用できる。というかわたしはもっぱらこっちのほうを意識して組みたてている。まあ「TS」と「女装」のちがいも突きつめると不明瞭なため……。なんなら「TS」から侵略行為的な「憑依」「乗っとり」とそれ以外をわける動きもあったりする)




『are you listening? アー・ユー・リスニング』
『衒学始終相談』
(『魔女』『逃亡派』)


本記事は2023年上半期にリリースされた百合作品を紹介する記事だ。
しかし本項表題の二作品はややうがった作品なので、解題するにあたって過去の作品を参考する必要があった。
というわけ過去作のほうが文量がおおい。よしなに。



「雰囲気がいい」。
「面白くはないが……」という枕詞が暗にふくまれている(ことがおおい)言葉だ。
見てくれは整っているものの、物語の本筋が明瞭でなかった。
あるいはその作品を理解するための言葉がなかった。
いずれにしても世界観の煮こごりが介在し、独特の受容体験をかもしだしている。
世の中にはこのような感覚を好ましくおもう鑑賞者・制作者もいる。

本項のねらいは個々の作品を批評することではない。
百合、シスターフッド、女性同士の連帯を描くにあたってもちいられる「地図」と「魔女」の表象、それらが奇妙な類似を見せながら独特の雰囲気をかもしだしていくそのさまを博覧するこころみだ。
(ここでいう「地図」は幾何学・連続性・人生などの意味をふくむ。それについても追々)

のべ四作品となるが、2023年に刊行されたのは『are you listening? アー・ユー・リスニング』『衒学始終相談』のみである。
また、これらは確固として百合と呼べる作品でもない。

『魔女』は男子禁制の密教、魔女の神秘性の話だ。
『逃亡派』は掌編集であり、女性同士の話はひとつふたつしかないが、表題作はかなり奇妙な関係を描いている。表題作にかぎれば、わたしは百合だとおもう。
『are you listening? アー・ユー・リスニング』はレズビアンふたりではあるが恋人ではなく、おなじつらさを理解しあう仲といっていい。

最後に『衒学始終相談』。
四作品のなかで比較的百合らしいこのマンガが、なぜ一話で魔女の話をもちだしたのか? それを解説するために本項があるといってもよい。
「地図」と「魔女」の表象、それらを渉猟することで『衒学始終相談』を理解していこう。

「衒学始終相談 第1話 魔女の話」/『衒学始終相談 1 (楽園コミックス)』
〈三島芳治〉
(白泉社)



「魔女」。
きらびやかな魔法をふりまく「魔法使い」とはことなり、「魔女」にはいささかマイナスなひびきがある。
おおくの現代人が知るように、魔法の存在しないこの世界で「魔女」とよばれる人間たちが実在した。
非キリスト教信者・民間療法師・身よりのない貧困女性・同性愛者。
迫害をおこなうにあたって都合のよいラベリングとして弄ばれてきた「魔女」に、マジョリティとマイノリティの対立構造をみいだすこともやぶさかではない。が、それはほかにゆずるとして。
(直近では『キャリバンと魔女』がホットな書籍だろう。いろんな意味で)

迫害を正当化するためにでっちあげられたイメージは肥大化していき、超自然の存在として「魔女」は奉られていく。
科学が発達する以前、まやかしとしてくくられていたにすぎない魔法・呪術がまるで実在するかのように。

『魔女』〈五十嵐大介〉はまさしく「魔女」の神秘性を描くことに成功したマンガといえる。
本項でかかげる四作品のうち、もっとも「雰囲気がいい」といえる、言うしかない作品だろう。
魔術・神託、世界の秘密。先進国に簒奪された異信仰、搾取される原住民族たち、それが秘める超常的なチカラ。
意味ありげなワードがなにひとつ解説されることのないまま、読者は精緻な画面に翻弄されていく。
作品内で「本当に理解できないものは理解できぬまま」と言及されるように、この作品の「雰囲気がいい」部分は「理解できないもの」を理解できないものとして描ききる姿勢、ある種のわりきりによってもたらされている。

「第Ⅰ抄 SPINDLE ‐前篇‐」/『魔女 (IKKI COMIX)』
〈五十嵐大介〉
(小学館)

『魔女』で一貫される女性像は、いわば旧世代の女性論で称揚されるような感覚的・情緒的な生物としての女性であり、野生に根源をもつものとして自然に迎合することで世界そのものたりうるというエキゾチズムだ。
男たちの構築した言語中心の法社会(「男根ロゴス中心主義」とはなつかしい呼び名だ)からつまはじかれた、言語では理解できない諸感覚にねざす存在として「魔女」がかたちづくられていく。

男女平等に舵をとった現代ではそしりをまぬがれないが、一昔前には「男性脳・女性脳」というワードが流行した。いわく、女性は器質的に感性と協調性に利があるなどの考えかただ。
科学的根拠が精査されるうちに否定されていったジェンダーバイアスだが、ことファンタジー色のつよいフィクション(特にSF)において……社会に仇なす・革新させる女性集団の象徴として、非言語的/霊的な能力、クローズド(閉鎖/近接)なつながりは魅力的でありつづける。

かくして『魔女』は本項の「魔女」概念を代表するが、同時に「地図」の部分も垣間みられる。

ひとつは「魔女」たちの異教徒的側面から抽出された幾何学模様。
じつのところ歴史的文献のすくなさからアラベスクとイスラム宗教観の関連性に確固としたものはないらしい。が、偶像崇拝の禁止から抽象画で神にせまったとする説がささやかれる。
古来より女性のものとされてきた(これも諸説あるが)針仕事によってあまれゆく幾何学のテキスタイルは、「魔女」のみがほどきうる世界の解剖図として昇華される。

もうひとつは人間を自然的なもの、地球表面上の連続した生命として位置づける自然神秘主義だ。

「第4抄 うたぬすびと」/『魔女(2) (IKKI COMIX)』
〈五十嵐大介〉
(小学館)

高度に発達した人間社会からとりこぼされたマイノリティらはしばしば一方的に、野性・生命そのものとしての側面を仮託される。
経血・出産、生命のシンボルに身をやつす女性はそのもっともたる例だ。
地表上をおおう点のひとつに回帰することで世界の神秘を理解できるだろう。そうした自然への望郷が「地図」と「魔女」を融和させる。

わたしたちが「地図」というとき、境界線によって複数色にぬりつぶされた領域の集合、あるいは線と点でデフォルメされた道すじの見とり図をさすことがおおい。
しかし実際に地球表面上をとりまくのは植生・生息域、動植物らの循環であり、その地盤、星そのものすらも回転・移動しつづけている。
これら脈動の軌跡こそが世界の本質である、という考えは突飛だろうか?



『逃亡派 (EXLIBRIS)』
〈著者:オルガ・トカルチュク / 翻訳:小椋彩〉
(白水社)

『逃亡派』〈著者:オルガ・トカルチュク / 翻訳:小椋彩〉は「移動」をテーマとする116の短編小説集だ。

地図、旅そのもの、列車・空港などの公共交通からはじまり、会話、旅行者の心理を研究する旅行心理学、歴史のながれ、血管リンパ管あらたかな解剖標本、古今東西の事物があつめられた展覧会、世界の知恵が結集されたウィキペディア、世界を線と点におとしめたガイドブックへの怒り、朽ちないからだで移動しつづけるレジ袋という新規生物……。

さながら移動しなければ死んでいるとでも言わんばかりに、「移動」に世界の本質をみさだめた奇々怪々が渉猟されていく。
そこには人間を固定しようとする社会への反抗心もみてとれよう。

 やつらの望みは、動かぬ秩序をつくること、時の流れを、あたかも動いているように見せかけながら、止めること。どの一日もくりかえしにすぎず、なんらあたらしくはないこと。
(中略)
 動け、進め。行くものに、祝福あれ。

「逃亡派の女はなにを言っていたか」/『逃亡派 (EXLIBRIS)』
〈著者:オルガ・トカルチュク / 翻訳:小椋彩〉
(白水社)

作品内で直接名ざしされるように、思弁的/幻想的な短編をかさねていく手法はかの幻想短編小説の大家ボルヘスを彷彿とさせる。
読者は散逸された思弁たちから共通点をつないでいき、著者のマインドマップをゆずりうけるようなかたちで「移動」の哲学を継承する。
そうした知識のつながりすらも「地図」すなわち「移動」の軌跡として著者の哲学にふくまれる。

冒頭におさめられた私小説のような作品たちは、著者の興味がなにからはじまってなにに向いているかを知るにちょうどいい。

実験で理論からはずれた行動をするクマネズミ、教科書にない反応をする解剖されたカエルの筋肉。生理学や神学の秩序とはほど遠い心理学のあいまいさ。奇形・怪奇標本があつめられた「驚異の部屋」。
キャンピングカーもちの家庭にうまれた「わたし」は大学の理念、理路整然とした法則によって世界を解明する姿勢から逃れるように興味をつのらせていく。
自分自身が周囲の人間とはちがう、定住することのできない遺伝子欠陥をはじめとしたつまはじきものであるとの考えとともに。
解剖学への関心は、血管/リンパ管/神経を生命にはりめぐらされた地図と解釈することで地球全体を「移動」の集合とみる思想へと昇華されるとともに、「わたし」がなにものであるかという自己探求にも回収されていく。

表題作の「逃亡派」は本項にふさわしい短編だ。
モスクワ在住で障害児の息子をもつアンヌシュカは週に一度、こどもの世話を免除される。二年の空白期間(従軍?)をへてすっかり別人になってしまった夫、その母親がくるからだ。
習慣づいた外出に自由はない。家事の延長線上の用事をすませ、教会でうちひしがれる時間があるだけで。
ある日、道端でみかけた奇妙な出でたちの女がどうしようもなく気になってしまう。足ぶみをくりかえしながらなにかを呪いつづける彼女が。
誰もが鼻じらむ彼女とみつめあうかたちでアンヌシュカは立ちふさがる。

訳者によれば「逃亡派」とはロシア正教の実在する分派らしい。
宗教改革の17世紀、ビョートル大帝によって迫害された旧教派の一部は「政治権力に対する徹底的な不服従」「私有財産と不平等の完全な否定」をうちたて社会と決別する。
放浪を唯一とするうちに移動そのものが信条となり、現代では「移動しながら休息するため」に地下鉄をのりつづける信徒をみることができる……だそうだ。

「家に帰れないの」アンヌシュカはいきなりそう言うと、足元を見た。そんなふうに言ったこと自体、自分でもすこし驚いていた。そしてようやくことばの意味を、ぞっとしながら考えはじめた。
(中略)
「家、どこにあるか覚えてる?」
「覚えてるわ」アンヌシュカは言った。「クズネツカヤ通り四十六番地、七十八号室」
「それ、忘れなよ」

「逃亡派」/『逃亡派 (EXLIBRIS)』
〈著者:オルガ・トカルチュク / 翻訳:小椋彩〉
(白水社)

いささか滑稽な追いかけっこ(知らない人間にみつめられれば誰でもそうなる)のあとで、意気投合のような得も言われぬ関係になったアンヌシュカと女(ガリーナ)。
自身でも予想だにしないことばが口をついたアンヌシュカは結局、週に一度だけゆるされた外出から帰ることはなく、宿なしで夜をあかす。
それは一夜にかぎらなかった。
浮浪者とともに雑魚寝し、意味もなく地下鉄にゆらされつづけるなかで、自らとおなじように移動することだけを目的としているものたちに気づく。

ガリーナと身のうちを語らうこともなく、行動だけを共にするうちに、自身の息子とおなじ歳のこどもたちが目にうつる。
馬にまたがるしあわせそうな若者たち。移動すらゆるされないほど身体に障害を負った息子。
交わしたことばがあるわけでもなく、アンヌシュカの衝動にガリーナも参戦する。

「逃亡派」の特異な点は、表題作ながらに作品全体の神秘性とはかけはなれた肌感覚を感じさせるところだ。
家庭に我関せずな夫と障害をもってうまれてきてしまった息子に閉じこめられる専業主婦。
それはわたしたちか、あるいは隣人が今まさに直面しているであろう現実的な苦悩だ。
たとえ家庭から逃げだしたとしても、大それた逃亡計画などをくわだてる気力もなく、ただ地下鉄にのって移動する、動物としての原始的欲求をみたすことしかできない。
日ごろの鬱屈が彼女の思考力をうばったのか、あるいは彼女の息子への贖罪心が遠くはなれることをゆるさなかったのか。

作品内で直接「逃亡派」を名ざしされる女ガリーナは、書籍全体をつらぬく「移動」というテーマを具現化した存在だ。
ことばを必要としないままアンヌシュカと行動をともにし、その怒りに共鳴にする彼女は、非言語的な女性たちのつながりを暗示するようでもあり、それらを教導する思念のようでもある。
ガリーナを媒介にして全体からゆるやかに接続される自然神秘主義への憧憬、世界の本質は、異教徒・シスターフッド・フェミニズムといった要素とともに「魔女」の概念を現代社会に還元する。

『逃亡派』には表題作以外にも「魔女」性が垣間みえる短編がいくつかある。
「クニツキ」は書籍の序盤終盤にへだてた三つの連作であり、「逃亡派」を夫側からみたような内容になっている。
旅行先の小島で妻と息子をみうしなった男。「大きな島じゃない」「行方不明なんてありえない」と現地人間総出で捜索するもみつかることはない。
幻想短編小説の御業にかかり、おおきくページをまたいだ巻末の三作品目では帰宅後、妻子とともに生活するシーンからはじめられる。
どのような経緯でみつかったのか、妻子は失踪中の三日間なにをしていたのか。本人たちの説明が要領をえないまま、まるで魔術にはめられたかのように男と読者は猜疑心にさいなまれていく。

わたしが『魔女』で「地図」性を解説するさいに引用した一ページは、彼氏と旅行にでた女学生が、ゆきずりの女性におしえられた小島と同化しわすれさられていく話だ(「うたぬすびと」)。
この類似を奇妙におもう必要はない。
『逃亡派』もまた、「地図」と「魔女」をめぐるフィクションのひとつとしてここにある。



こうして過去の名作から「地図」と「魔女」の骨子をあきらかにすることで、ようやく2023年の作品を紹介する下地がととのった。
そう、これは2023年上半期の百合作品を紹介する記事だったのだ。
(しかしそのひとつは翻訳作品であり、原著は2023年のものではない。そんなことがゆるされるのか?)



 ガイドブックは欺瞞に満ち、海は心の財産である。すべての地図は創作であり、すべての旅人はそれぞれのフロンティアへむかう。

――アドリエンヌ・リッチ
  「旅程」

『are you listening? アー・ユー・リスニング』
〈著者:ティリー・ウォルデン / 翻訳:三辺律子〉
(トゥーヴァージンズ)


『are you listening? アー・ユー・リスニング』〈著者:ティリー・ウォルデン / 翻訳:三辺律子〉は2020年にアイズナー賞を受賞したグラフィック・ノベルだ。
原著『Are You Listening?』は2019年に出版されたものだが、2023年になって出版社トゥーヴァージンズより邦訳されたものが刊行された。

家出した18歳のビアトリス、遠方の伯母をたずねるついでに家出娘をひろった27歳のルー。
おたがいに行先をはぐらかしながら、どこかへ向かうというよりもなにかに追いたてられるような逃避行へ駆る。
近所の知りあいていどの関係から、自動車の操作方法、過去のにがい経験、共通したレズビアンというセクシュアリティをうちあけあい、ドライブは蛇行しながらもひとつの終着点をみつけだす。

ティリー・ウォルデンの著作の特徴は、自身の人生経験にもとづく現実的なテーマを取りあつかいつつも、実験的な視覚表現あるいは魔術的な展開(マジック・リアリズム)によって修飾されていることだろう。

道すがらにひろった迷い猫の首輪には住所がしるされている……が、地図にない、聞いたことがない街だ。
ふたりを追跡する道路調査局の男たちは影にしずむような禍々しさで描かれ、とても人間にはみえない。

その作家性がふるわれるのは終盤だ。
道路調査局の男たちが追いかけていたのは迷い猫だった。
追跡されるふたりは文字どおり天地がさける道をゆき、別々の異空間へとなげだされる。

『are you listening? アー・ユー・リスニング』(原題『Are You Listening?』)
〈著者:ティリー・ウォルデン / 翻訳:三辺律子〉
(トゥーヴァージンズ)

ロードムービーから飛躍した展開におおくの読者は面くらうだろう。
しかし、まえもって「魔女」と「地図」をめぐるフィクションを予習したわたしたちが煙にまかれることはない。

数あるの類似作とおなじように道とは人生の比喩であり、少数派の立場にうまれた彼女たちのあてもなく蛇行する開墾の道である。
猫にみちびかれた地図にない街で伝授される世界の本質は、まさしく本項の思い描くそれらであり、「道路も 雲も 木々も… 彼らは知っているの あなたの秘密のすべてを」と語られるように自然神秘主義までをもみとめることができる。
道路をつくるチカラ。誰しもがもっているとは言われているものの、それは道路管理局の男たちにとって追いもとめられ、支配下に置かれようとするものであり、一部の人間だけが発現できるような描きかたがなされている。

ビアトリスが世界の本質をさとされるうらで、ルーは母との記憶をおもいだす。幼少期、炎天下のなかで母親とともに歩かされていた記憶だ。
『逃亡派』で描かれていた哲学が『are you listening? アー・ユー・リスニング』でも確認できる。

「わたしたちは毎日 歩かないと」
「どんなに 歩きたくなくても」

『are you listening? アー・ユー・リスニング』(原題『Are You Listening?』)
〈著者:ティリー・ウォルデン / 翻訳:三辺律子〉
(トゥーヴァージンズ)



「魔女」と「地図」のつながりをたどることで、ようやく『衒学始終相談』を理解することができる。
もういちど冒頭の1ページを確認しよう。もはや説明することもないだろう。

「衒学始終相談 第1話 魔女の話」/『衒学始終相談 1 (楽園コミックス)』
〈三島芳治〉
(白泉社)


『衒学始終相談』〈三島芳治(著)〉は奇妙な百合マンガだ。
なんの研究をしているのかわからない教授のもとに、なまぐさな考えをもつ学生がやってくる。
色恋に花を咲かせるのでもなく、「人類の心の復興」などという名目のもと、旧インターネット・冷戦時代の盗聴器・デカいウニなどおおよそ人生に必要のない謎思索が展開されていく。
そうして本筋とまったく関係のない話をつづけていくうちに、教授と学生のむすびつきが形成されていき、百合なんだかよくわからない関係になっていく。

第1話で開陳されるのは「魔女」の渉猟だ。

「魔女というのは反合理の記号
 隠された世界像の目印なんだ」

「よく見たまえ この雲の中にも
 聖堂のモザイク模様にも 海岸の地形にも
 広告の中にも 魔女の意匠が隠されている
 分かるだろう?」

「衒学始終相談 第1話 魔女の話」/『衒学始終相談 1 (楽園コミックス)』
〈三島芳治〉
(白泉社)


三島芳治は過去作『児玉まりあ文学集成』(連載中)で似たようなマンガを描いている。
それは文学というよりも言語学の哲学的探求であり、言葉の本質をたどることでいつのまにか主人公の男とヒロインの児玉まりあとの絆がうまれていく。
「児玉まりあ」の名は彼女の聖母のイメージと「言霊」からきているようにおもわれるが、じつのところ実在(した。2023年3月に亡くなられた)人物の名前だ。
マリア・コダマ。『逃亡派』で関連性を指摘したボルヘスの妻の名。
『児玉まりあ文学集成』も『衒学始終相談』もボルヘスの影響を感じとることができるだろう。

男女の恋愛を描いた『児玉まりあ文学集成』が「言葉」をめぐる話であり、それの対比として女性同士の話『衒学始終相談』が「魔女」の「記号」からはじまるのは意図的だ。
それはまさしく本項でしるした「言語」と「非言語」の対立であり、こうして長々とのべた「魔女」と「地図」の列挙が、言語中心の世界を置きかえていく。
すなわち、『衒学始終相談』はなによりも衒学的に百合らしくあるために、「魔女」の「記号」からはじめられなければならなかったのだ。



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