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アガペー | INFJによる『怪物』考察

昨日に引き続き、『怪物』(映画)について書いてみる。
よろしければ、感想文も読んでくださると嬉しいです。

あくまで僕目線のひとつの考察というか、ほぼ妄想なのでそういう風に感じた人も居るんだと思って流し読みしていただければ幸いです。




「火」と「水」の対比

劇中の中では頻繁に「火」と「水」という相反するモチーフが登場する。

序盤に登場するガールズバーの火災といつもと変わらない川沿いの風景。湊と依里が秘密の共有として燃やす死んだ猫とそれを掻き消す水筒の水。物憂げに吹かす煙草とびしょ濡れになりながら湊と依里を探す校長。

抽象的なモチーフを相関関係とする作品はストーリーを理解するヒントとして、どんな作品でも用いられがちだ。しかし、『怪物』の中では「相反」というより単なる「対比」としての扱いであり、真逆なものが実は「一対で成立している」というメタファーな気がした。


『銀河鉄道の夜』

是沢監督がこの映画を作り上げる上でイメージした作品に宮沢賢治による『銀河鉄道の夜』が挙げられていた。

『銀河鉄道の夜』に登場するジョバンニとカムパネルラの関係性は友人や親友という関係性よりも、性別を超えた恋愛に近しい関係性に感じる。

『怪物』の中での湊と依里の関係性もどちらかというとジョバンニとカムパネルラの関係性に近しい。だからといって安直な恋愛感情だとも感じない不思議な関係性に感じられた。

僕自身の恋愛経験もどちらかというと、そういう不思議な関係性の上に成り立っている恋愛が多く、単なる男女という枠に囚われずに深い親密さの上に成り立っていることが多く、非常に共感できた。(デミロマンティック?)

『銀河鉄道の夜』だけではなく、宮沢賢治は生涯で法華経の精神に深く感銘を受けており、作品の中にもその精神性が色濃く反映されているように思う。

「自分だけでは幸せになることが出来ず、世の人々全てが救済されなければ幸せにはなれない」みたいなことを聞いたことがある気がする。僕自身も日々考えていることで、首がもげる程に同意した記憶がある。


『創世記』

旧約聖書の第一章『創世記』に「ノアの方舟」の物語がある。

かなり飛躍した考えだとは思うのだが、湊と依里をふたりを乗せた廃列車は嵐の日(劇中では「ビッグクランチ」とふたりは呼んでいた)に発車する。

本来、種の保存には全く適応していないふたりを乗せた廃列車はふたりだけの新しい世界を作り上げるという意味合いで、よくある物語をいい意味でモチーフとしつつも、確実に別の世界への生まれ変わりを感じさせる描写だった。


自己犠牲

劇中の登場人物は皆それぞれに大切なものを自己犠牲の元に守っている。一見では悪役に見える校長も自分の夫に罪を被せることで、現在の小学校に通う子どもたちを必死に守っている。

人それぞれに守るべきものは違っていて当たり前。そして、その守り方は良いとか悪いとかの概念を超えたその人なりの方法や手段がある。全てのことは一筋縄ではいかずに自己犠牲の元に成り立っていて、そしてそれは他人には全く理解不能なものなのかもしれない。


雛形としての「愛」

キリスト教でいう「アガペー」や、仏教での「慈悲」、儒教での「仁」など、恋愛を超えた深い愛を表す言葉は世界中にたくさん存在している。それぞれに違いはありつつも、「自分本位ではなく他者を思い遣る心」としての大枠での概念としては通じるところがある。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でもそういう類の「愛」は表現されていて、それはきっとこの世界のどこにでも恋愛や性愛以上の愛の存在を感じさせるものは存在するという証明に感じた。




読書感想文でも書いてるのかという勢いで書き上げているので各所にツッコミどころ満載かと思われますが、INFJもとい僕の脳内はいつもこういう妄想や空想でいっぱいになっています…。周囲の大切な人の為にも、自分自身をもっともっと大切に生きていきたいです(切実に)。

ひさしぶりに宮沢賢治作品の朗読をたくさん聴きながら眠れない夜を過ごしたいです(自分を大切に!!!!!!)。

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