「常識」の使い分け|HSPグレーゾーン混合

高機能グレーゾーンと話すのは楽しい一方、倫理的道徳的なところで噛み合わないと、それはそれはたくみに主張の正当性を述べてくる。最後は自分の良心が痛むか痛まないか、そこが最終ジャッジになった時、高機能グレーゾーンはその共感に一ミリも寄れないことが発覚した本日朝8時。

最近ASDの感覚も少しずつ理解してきたら、私の混乱は激しい。

「好き嫌い」ではなく「できない」ということ。

ASDを持つお母さんの言葉

例えば食べものなら、大人になって多少食べれるようになったとその後続くと、おいおい、それはみんな一緒だろと思ってしまう。

結局、普通の人よりも順応がすごくマイペース(遅い)というのが説明として近そうだ。

そうするとASDも説明を重ねると理解の幅が広がり、逆に周りを見てなんとなく理解しろ先方だとある意味一生理解できない、大人になるとなお乖離が激しいし、教えてくれないという悪循環がある。

「教える」って本当に難しい。状況をただただ「説明する」が近そうだ。
・自分のした行動を客観的に説明する
・その行動の結果起きたことを「感情」を除いて説明する
・一度でなく、なんどか機械的に伝え続ける
悲しいでよ?楽しいでしょ?そん方がいいでしょ?とか装飾すると自分軸の押し付けになる。根本の道徳感がずれている部分を持ちやすいASDには。。。

なにがどうなっているんだ!わけわからん!

「常識でしょ!」と叫びたくなる瞬間私は、カサンドラのどんよりした黒い影を感じはじめる。

このふたつの間の「常識」ってなんだろう。

私たちHSP型は、感情的に相手に不快にならない道を指していると思う。
彼らASD傾向は、状況からだったり、自分の嗜好に偏りやすいと思う。

そのように言えば、ASD傾向が共感に沿って意見を言うのが難しいのはよくわかってくる気がしてくる。だけど、状況判断とかめっちゃ大事だし、自分の嗜好をまず言うのはこれも大事だけど、この件の後は「すり合わせ」交渉が必要な時に確かに頑な「僕はこうゆう人間なんであなたが合わせてください」とシェアハウスで言われた時の衝撃は一生ものだろう(これはASDというよりHSP混合人だったのでなお嫌い)。

私は日本人一般をほぼHSP傾向だとカテゴライズしている。そんな流れの中で、結構多い日本人の傾向は、、、
「人に1割増し親切活動」だと思っている。
要は「文句を言われないようにちょっと増し増しに接しているのに、不愉快にさせるとは何事か」
そういった際に「常識」がないとなる気がする。

感情を伴う不愉快に対して私たち日本人は敏感なのだ。

また、起源は全く違うが「怒られたくなくて」不快を回避する技は人間としてASDも多いに持っているというか、行動原理の中に日常生活入っていると思う。

この主体性ではなく、自主性からの防御は「いい人」を演じやすいけど(ACの時に痛いほど経験済み)、人間主体的に人生を生きないと自分の人生って感じにくいんだよね。その「主体的行動」は「自主的行動」とある意味真逆で、これはHSP、ASDともにはじめての「主体的行動」で挫折感を味合うことが多いんだろうと最近思えてきた。

これもASDの育児記事をみて、ハッとした。自主的じゃなくて主体的に動ける子供に育てたいんです。その時よくわからなかったけど、発達障害の視点からの子育ての視点はすごく鋭いところがあって、親御さん前向きな人は本当によく考えているなと思う。

私の成功体験から話すとほんとACだったのを、自分の養育費奪還に14年かけて海外留学に行ったことが「主体的行動」につながった。全部自己責任、誰かの真似じゃない自分の行動。

そうゆう行動はすべて自分の「常識」とはいい意味でずれていた。また、他人を巻き込む最小限(だったろうか?)で外国の人と自己主張を交渉し合う(はずが「常識でしょ!」と押しつけていたきもするが最終的にはその「あり方」を理解できたような気がする)。いい経験だった。
留学しても一歩も部屋の外に出ない子もいたのだから、すごい「主体」ジャンプと言えそう。

挑戦にはズレも必要なんだよね。
でも、保守的コミュニティーには同調の方が優先される。

おっとここまで書いたら、HSPとグレーゾーン両方の条件に行けるようになってきたんじゃないか?

HSPの記事にいいねいただけたら、ますますHSP研究したいと思います。まだ新しい分野なので。正直生きるのに本業で精一杯なので、みなさまのサポートがあれば追求大いにがんばります。