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変態と変体-ビルの顔と私 ep

よくあること、とよくいる変態

 昼間に書くことはなんだか変態チック。変態とは元の姿から変わった形態。転じて異常な状態。形体を変えること、らしい。

 中学の理科の授業で用語として登場した「変態」、なんだっけなあ、昆虫が成長する段階においてその形体を変化させることを指していたはずだった。けれど、あの時教室はざわめいて青青しい好奇心やらなんやらが湧いていた。あの日はちょうど、曇り空の5時限目で放課後に控えている委員会を口実に部活を休んでしまいたいと思っていた。

 吹奏楽の音を聴きながら再度理科室を訪れ黒板に私は「代表委員会」と書いた気がする。所謂クラス委員のようなもので、たいそうなことに当時の私は正義感満載の優等生で生徒会役員までこなしていたから月に一度のこの委員会に何かと忙しくさせられていた。部活が始まった。吹奏楽のロングトーンが聞こえてくる。基礎練習の一種で単調に全員が同じ音階を一音ずつ出していくようなものだ。クラリネットの真っ直ぐな音色が一層夕刻迫る薄暗い理科室にストーンっと響き渡る。人数も大方集まってきてざわざわと騒がしくなってきた。開始5分前になり担当教員が入室するや否やなんとなく静けさを取り戻したタイミングで、委員会の開始の挨拶をするのであった。

 回想があまりにも長引いてしまったが、あの頃の私には極めて変態性がなかったように思う。性的趣向において「変態」と呼称される実態はエロス、もしくはエロティックと言われるような日本語の領域内で理解されるものにカテゴライズ済みである。常識ともいうかもしれない。だが、今話したいのはそっちではない。こっちの「変態」だ。私の友人に一人称が「こっち」という女の子がいる。ある時、別の友人とあの子に子供ができたら果たして一人称は「あっち・こっち・そっち・どっち」どれになるのだろうか。それとも「私・僕」などと面白くない答えが返ってくるのか、賭けをしている最中である。

 今日は無駄話が多い。このこっちの「変態」とは、「偏愛」にも結びつけられるイメージである。マニアックな趣味も癖もそれらを自身で愛することができればそれはユニークな性質。従って「変態」になれると考えている。

 だからさっき話した中学時代の私に変態性がなかったという話は、そういった自身の「特異」な部分を受け入れられなかった精神性にあるということであった。融通の効かない真面目な私は、ルールに従えない自分も、従わない人間も大嫌いであった。何かの基準に満たない自分が恐ろしく恥ずかしく、またその事実が自分の存在を脅かすようで常に緊張を強いられていた。だから定期テストでは上位に入らなくてはいけないし、先生の言ったことは絶対に守るべきだと固執していた。自分の好きなペースや感性を誰かに認めてもらうことは、いけないことだと思っていた。


 すごく窮屈だった。


 決まった時間に起きること、決まった授業を受けること。決まった答えを求めること。全てが正義で全てが敵だった。変態の棘をざらざらしたヤスリでじりじりとギシギシ、ゴシゴシと全部削られてまんまるツルツルになった「普通の子」で居ることはあまりに自然で余りに残酷だ。

 当然、決まった時間に起きて登校することも、ルールを遵守することは正義だ。だけど、心の中までは許して欲しい。好きに生きて好きに理解して、好きに飲み込む。心の自由を守れる変態でいた方がきっと人生は色の多いものになるんじゃないかって今は思う。

 だから私は変態が好きだ。自分の好きなものをニヤニヤしながら語る友人が大好きだし、当たり前の日常を面白くしてくれる自分の自由な心も好きだ。

やっぱり夜中にハッピーパラダイスお祭りトゥナイト

 別に適当に思いついた言葉を並べてみたけど、やっぱり夜中はより一層自由になってしまうし、意味がわからない。そりゃ変態時間だもの。仕方がないよなあ。悩み相談に乗るのが決まって夜中であるのはこの効果もあるかなあなんて思ったりする。だって、同じ内容を午前9時に相談すればきっと、夜中に3時間話した内容も30分で済んでしまうだろう。挙げ句の果てには、そんなことよりさあ、と話が切り替わるに違いない。夜中パワー強えええ。である。

 夜中が好きな人たちはいっぱいいる。私も夜中が大好きだ。夜中に現れる面倒な感情もそこそこに愛しい。本当に辛い時は誰かの声を聞いて、真っ暗な天井に向かって、この世界にも私以外に病んでる人間もいるし、なんといってもこんなに優しい友人を持っているじゃないか。この仕合わせ者め、ヒューヒューくらいには盛り上がる。幸せ者より仕合わせ者の方が渋くて好きだって話はまた今度。こんな領域ははるかに突破して、「この病んでる時間も好きなんだよなあ」なんてヘラヘラ笑い合ってしまった同志もいる。おかしいよなあ。

 日曜日の夜中なんてその最たるものだと思う。明日は早く起きなきゃいけないから一刻も早く寝るべきなのに、まだ心は休日に沼っている。もう少しだけ自由にいさせてくれよって、心の中の小さな自由人が囁いてる。

 なんで夜中の電話ってあんなにウキウキするんだろうね。眠いねとか寝なきゃとか言う割に全然切れないもんなあ。たまに私はなんだか電話を切るのが寂しくって寝たふりをすることがある。そうすると向こうが勝手に切ってくれる。バイバイを言わなくていいので少し寂しくないかと思いきや、取り残された気がしてどっちにしろ寂しいのでおすすめできない。


ビルの顔と私

 片道一時間のバス通学には発見がとても多い。最近、何かの才能が開花したのかそれが喜ばしいことなのかはわからないが、「ビルの顔が見える」のだ。

 とても早い時間のバスだから席は選び放題で、私は決まって後ろから4列目の左側の、あのタイヤの上の高くなっている席に腰を下ろす。さあ、今日も冒険の始まりだ。しばらくは、自分が正しいバスに乗っているか不安だからバスのアナウンスを聞きながら停留所の名前をチェックする。なにせ不安症なもので。5つほど過ぎると「このバスは○○行き◎◎バスです。」このアナウンスで安心する。ちょっとだけ。ここからやっと私はゆったりした気持ちで残り50分ほどのバスの旅路を楽しむのである。

 いよいよ、右手に見えますのは白地にまんまるお窓が特徴的なあの子。といった感じでビルの「顔」が見えてくる。そこからなぜか、こんな人かなあみたいな人間が自然と目の前に浮かんできて、こんなお化粧したら素敵やろなあみたいな気持ちに止めどなくなっていく。最近いつも目に止まっているのは法務局の建物。なんかみちゃう。どんな形かは教えない。というか毎日見てるのに、心に残っているのに、なんだか覚えていない。笑える。どうしてだろう。今度教えます。詳しく。

 次々と向かっては去っていく建物たちとイメージの移り変わりは時速50キロ。そんな止めどない流れがしんどくて、ふっと橋をみたりするけどそれも、こんなアイラインがあったらいいなあとか思ってしまう。そうして、残り25分ごろになって読書を始める。爽やかなのかわからないがそんな朝である。

 この前の火曜日は、真新しいランドセルを背負った少年と相席した。その子も窓の外をそっと見ながらどこで降りるかソワソワしていた。わかるよ。少年。そうだよね。まだ新学期始まって1ヶ月とちょっと。不安だよなああ。そんな心境で、どこで降りるの?と聞くと、バス停の名前を教えてくれた。偶然にも同じ停車駅というけど、その制服ならそうか。とこれから会うことも増えるねなんて話していた。少し心の距離が近づいた後半戦、ビルの顔の話を打ち明けると少年は目を少しピカピカさせた。それから信号は青になってまたいろいろなビルたちと対面する。少年がビルを指さして、あれは宇宙人みたいだねとか、次はハリネズミ、あれはかっこいい。なんてビルを眺めては教えてくれてなんだか嬉しかった。

 あの日の朝は、格別に楽しくて、最後の横断歩道で少年と手を振り別れた。

 彼にも立派な変態になってほしいなあ。

 

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