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恩師山川利夫画伯に捧ぐ/届かぬ想い

  「僕の昭和スケッチ」43枚目

40山川先生
<「山川利夫画伯の思い出」画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5>


今日はちょっと私の恩師の話しをさせて頂きます。
これは、私の中学時代の美術教師「山川利夫」先生の似顔絵です。色々調べては見たのですが、写真も何もなく、私の脳裏にあるだけの姿ですから実際の先生と似ているかどうかは正直申し上げてよく判りません。なにしろ、もう半世紀も前の事です。

山川利夫先生は、第一回日展で入選し、第八回で日展特撰、示現会委員もお務めになり、終世を岐阜でお過ごしになった著名な油彩画家です。
ですが、そういった事は随分後になって知った事で、当時の私には知る由もありませんでした。

私は岐阜の本荘中学という所に通っていたのですが、そこで私は美術の教師としての山川先生に出会いました。先生は丁度日展で特撰を取られた頃だったようです。先にも申し上げた通りその時の私にはそんな事を知る由もなく、先生は私にとって美術の一教師以外の何者でもありませんでした。

私はこういう仕事に就いているのですから、子供の頃から絵を描くのは得意な方だったかと思います。けれど、学校では私などより余程絵の上手な子もおり、特に街の絵画教室などに通い、絵の具の扱いなども手慣れて見るからに綺麗に絵の具を水で滲ませた水彩画を描いている子もいたものです。彼らの絵に比べると、私の絵はどう見てもドロドロと絵の具を塗りたくった酷いものでした。しかし、何故か先生はそう言った街の絵画教室に通うクラスメイトたちの絵を「こんな風に描いてはいけない、これは絵ではない」と退け、私の拙い絵を気にいって下さいました。そうして、私の描いた絵を何枚も岐阜の美術展に出品して下さいました。「今度は良かったぞ、良い絵だ」とか「今度は平入選だ…駄目だったな…」とか…私を職員室に呼んで親しく話して下さいました。
絵とはどんなものか、どんなふうに描くべきか、色とはどんな風に扱うべきか…そんなことを熱くお話し下さり、それは今もまさに私の絵の中心に生きています。美大に行かなかった私にとってそれは唯一のしかも生きた授業となりました。

先生はおっしゃいました。
「ものを見なさい、ただ真っすぐにものを見なさい。」と

私は一介のイラストレータにすぎませんが、それでも幸いにして三十年近く絵を描いて暮らす事ができたのは、先生のご指導の賜物です。それが、年を経るとともにはっきりと判るようになりました。

先生がご逝去された事を知ったのは、お亡くなりになってから十年も過ぎてからでした。先生がお亡くなりになった当時、とうに三十も過ぎたというのに私は東京の片隅でただ日々の暮らしに追われているばかりでした。そして、その後ようやくイラストレーションの仕事がうまくいき始め、心に少しばかり余裕ができた頃に先生が既にお亡くなりになっている事を風の便りに知ったのでした。同時に先生が郷土で生涯を終えた素晴しい油彩画家であったことも遅ればせながら知りました。やっと絵で飯が喰えるようになったというのに何のお礼も申し上げる事が出来ませんでした。私は自分が絵で飯が食える様になったら一度先生のところへお礼に行こう、それまでは恥ずかしくて先生の前に出られようか、、、そんな風に思っていたのでした、、、、

苦い後悔だけが胸に残りました。

先日、インターネットで「近代日本美術と岐阜の画家たち」という本を見つけ、これを購入した所、先生の油彩が掲載されていました。「赤いリボン」というその作品を拝見し、胸が詰りました。

<「赤いリボン」油彩画©︎山川利夫/ご親族に許可を頂き掲載しています>

先生、本当に有り難うございました。
道半ばではありますが、私も六十を過ぎ、ようやくいくらか絵らしいものが描ける様になりました。今の私の絵を先生がご覧になったら何と声を掛けて下さるのか…

あの日の様に良い絵だ、これが絵だと褒めて頂ければ良いのですが…

                          -もりおゆう-


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