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“生きねば”

視界がただただ黒い。この場所自体が酷く暗いのか、瞳そのものをベンタブラック色に塗り潰されているのか、その判別すら出来ぬ程に黒しか見えない。
感覚的に水中に浮いている事はわかる。体に水がぶつかりチャプチャプと音がする。波風が立つ音、水滴が落ちる音などはない。あとは襟足まで濡れた感覚がある。肩ほどまでは体が浸かっているが、足は地に着いていない。浸かっている水はドロドロとしている。真水のようなサラサラとした心地良い肌触りではなく、硬水より少しハッキリとした重みを感じる。足で水を蹴ると、固まり切っていないゼリーの様な粒が肌の上を転がっていく感触がある。
手足で漕いでみると、水自体に重みがあるせいか、しっかりとした手応えがある。如何せん、視界がただの黒であるため、目標物とできる物が一切無く、進んでいるのか、ただただその点を右往左往しているだけなのかもわからなかった。
ふと「何故、浮き続けていられるのだろうか。」と疑問が頭を過ぎった。それまで気に留めていなかったが、肌から伝わる感覚的におそらく着衣をしている。一枚のシャツとボクサーパンツのみだが、たっぷりと水を吸って体に纏わりついている。浮力に意識を向けてから、襟足まで濡らしていた水が、少しずつ口元にかかる様になる。おそらく少しずつ沈みかけている。手足でもがけばもがく程に、水が口元にかかる頻度が上がり、少しずつ呼吸するが難しくなっていく。私は水に溺れた事がないが、これがおそらく溺れるという事なのだろうと思った。
体力が消耗されていき、自分の体に動きを強いる事ができなくなり、外から襲い掛かる力に全てを委ねるしかなくなる。口の中が水で満たされ、空気が気管を通り抜ける心地を全て失った。脳の中まで浸水し水や気泡が満たされたかの様なイメージが脳に浮かぶ。すると、ブラックアウトしていた視界に横一閃の光が射し、その光が上下に広がり今度は真っ白になった。

天井のシーリングライトが目に映り、無造作に置かれたデジタル時計に目をやる。朝の十時半を少しまわっている。私を挟み反対側にある窓に目をやると、数日続いた雨が止んでいるようだ。窓に顔を近づけると熱気を感じた。外では雲に邪魔されしばらく顔を出せなかった日差しが、数日分の仕事を取り戻そうとするかの様に世界に初夏の熱気を浴びせているのだろう。先ほどの黒い世界が夢であったと認識した。

昨夜は死を願って眠りについた。これから先の人生に希望を見出すのに疲れてしまった。成したい事が特になかった。誰か新しく関係を築き、また仲違いするのが怖くなった。その内容のない愚痴を聞いてもらいたい友がもういなかった。そんな考えが脳内を満たし、そのまま私は夢に溺れたらしかった。寝汗でシャツとシーツが酷く濡れている。上半身だけ身を起こし、シャツを脱ぎ捨てるが、新しいものを取りに立ち上がる気力がなく、湿り気で冷えてしまったシーツの上にまた背中を預ける。ベッタリとした感触が心地悪い。

腹が減った。少しばかりの尿意がある。血なのか腸液なのか、下腹部から何かが流れる音がぎゅるると鳴った。体はまだ生きたいと言ってる様に思えた。小便を済ませたら顔を濯ぎ洗いたてのシャツを着て、一先ず飯の支度をしよう。

生きねばと思った。

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