見出し画像

ショートストーリー | さまざまな境目、僕たちのブルーム

きっと、僕はやさしくない。
そして、いじわるでもない。

「褒められるといつも、悲しそうな顔するね」
「そんな顔してた?」
してたしてたと笑う彼女は、小さなホールケーキをナイフで切っている。

真っ赤なイチゴ、真っ白なクリーム。
真ん中に置かれた「5th Anniversary」と書かれた茶色いチョコプレートは、僕たちが出会ってから過ごしたすべての時間を、小さく祝福していた。

「本当は、嬉しいことじゃない?」
「そうなんだろうね」
「なんだか自分が、素晴らしい人間になった気がするでしょう」
「褒められる前と後、自分の中身は一緒なんだけどな」


誰かが僕のなかに見るやさしさは、たぶん蜃気楼のようなものだ。

あるように見えて、本当は幻。
誰かの好意は、誰かの期待。

僕が僕である前に、「やさしい僕」でいる必要が、どうしてもあるような気がしてしまう。
その期待を裏切らないように、僕は僕を、たまに裏切ったーー


「いつも、ありがとうね」
半分に切り分けられたケーキが、目の前に置かれた。白くて厚い断面に、イチゴが規則正しく浮かんでいる。

「こちらこそ、ありがとう」
「私こんなに続いたの、マモが初めてだよ」
「そうなの?」
「恋人と1年も続いたことがなくて」
「なにか、理由があるの?」
視線を落として、彼女は思案した。

見慣れた木のローテーブル。
毛の潰れた、ベージュのカーペット。
この空間を作り上げるそれらは、すべて二人で過ごすのに、ちょうどいい。
その意味は、ふとした時に胸をくすぐる。

「マモはさ、平均台って歩いたことある?」
「確か小学生のとき、体育でやったかなあ」
「楽しかった?」
「僕は、ああいうの好きだったけど」
「そっか」

彼女は上に乗ったイチゴをひとくちで頬張ると、おいし、と呟いた。
「ねえマモ。ここのケーキってこんなに美味しかったっけ」
「さっきの話、言いにくいなら」
「……もーらった!」
「あっ、勝手にイチゴ取るなよ」
切り取って形にすると変わってしまうものが多分、世の中にはたくさんある。




風呂から上がって寝室に行くと、彼女はすでに眠っていた。僕はダブルベットの端に腰掛けて、ジャスミンティーを啜る。
すうっと花の香りが広がって、温かさが体の真ん中を通った。
喉、胸、腹。
その一つひとつを、じんわりと感じる。

「こら、何やってんだ」
驚いて振り返ると、彼女の瞼は変わらず、気持ちよさそうに閉じられていた。
たまに言う、大きい寝言だ。

僕は、その無防備な寝顔を見つめる。
おやすみ。また明日。
彼女のやわらかい無垢な頬に、キスをした。

「な……に」
「ごめん、起こした?」
「いま……何時」
「12時半」

てっぺんの星をまたぎ、日付が変わる。
けれど僕らの「明日」は次の朝、目を覚ましたベッドの中から始まる。
もう明日だけど、いまはまだ明日じゃない。
案外曖昧な、世界の境目。


彼女がうーんと唸りながら、上体を起こした。
「それなに」
「ジャスミンティー」
「飲む。ひとくち」

彼女はカップに口をつけてズズと啜ると、ゆっくり「はぁ」と息を吐いた。
それから、ねえマモ。

「私の、どんなところが好き?」
こんな日じゃないと、訊けないからさ。

「好きなところ……」
こういう時、在り来りでも短くても、とにかくたくさん伝えて、ありあまる愛を表現するのが、恋人同士のセオリーなんだろう。

素直なところ、笑顔が可愛いところ、料理上手なところ。
それはその通りで、まったく間違っていない。

けれどその答え方では、僕の気持ちと多少のズレがある気がした。
切り取って形にすると変わってしまうものが、世の中にはある。
だから、適当だと思われてもいいから、僕は正直な気持ちを伝えてみることにした。

「どんなところも、かな」
「全部好き?」
「うん」

柔らかい瞳が、僕の心に触れた。
彼女は何度か瞬きをすると、
「ほんとうに?」
僕がもう一度頷くと、唇にキスをした。
柔らかい境目はその瞬間、僕のものであり彼女のものだった。



二人で毛布を被りながら、彼女が小声で言う。
「ねえ。私が今まで恋人と続かなかった理由、発表してもいい?」
「どうぞ」
「うん。あのね、ずっと不安だったの」

『君のそういうところ"が"好きだ』
って言われるたびに。

やさしい私。魅力的な私。
「彼の好きな私」っていう平均台に乗って、足を踏み外さないように、慎重に歩いた。

最初はそのヒリヒリがドキドキに変わって、楽しいと思えても、ずっとは続かない。
終わりの見えないアンバランスさは不安になって、いつしか不自由になった。

本当はいつだって、
「君のそういうところ"も"好きだ」
って言われたかった。
そこがいい、じゃなくて、それもいい、って。

「でもマモといるとね、平均台の上を大股で歩いても、スキップしても、全然平気だと思えるの」

そもそも、本当は最初から、そんなものなかったんじゃないかって、思える。
いつだって自由で、私でいられるの……


「ねえ、どう思った?」
「ん?」
「正直、こんなめんどくさい奴と付き合わなきゃよかったって、思った?」
「うん」
「ハハッ。やっぱり」
「冗談だよ。でも、そういうところも」

好き。私も、マモの全部が。



彼女の声を聞きながら、僕はゆっくり目を閉じた。その瞬間、瞼で視界が遮られる。

毛布と接触している体。
彼女と繋いだ手。
そのどこまでが僕なんだろう。
どこまでが、僕じゃないんだろう。

でもそれもいいし、それでいい。


曖昧な境目は、いつしか曖昧な僕たちのすべてを、鮮やかに映し出していた。



この記事が参加している募集

#最近の学び

181,435件

#眠れない夜に

69,218件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?