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プロセスが楽しいから楽器を演奏する

楽器の習得というのは地味で地道なもので、ものの弾みで出来るようになるとか、ある日突然マスター出来るとかいうものではない。それなりの腕前になるには、日々の鍛錬が欠かせないし、さぼっていると、一度出来るようになったことも、たちまち衰えてしまう。

あれだけ練習してマスターした曲が、しばらく離れていたら、演奏出来なくなってしまった、というのはよく聞く話で、これはプロ・アマチュア問わず、頻繁に起こる現象だ。だからレパートリーにしておくべき楽曲は、練習を欠かせない。ステージ上で軽々と演奏しているように見えるソリストも、その陰では常に自己鍛錬しているのだ。

楽器の演奏とは、なんと報われないものか、と思われるかもしれない。懸命な練習をして完成させても保存は不可能、気を抜けばたちまち衰え、再現不可能となる。録音は出来るが、それはあくまでも音の保存であって、楽器演奏能力の保存ではない。これを職業や生涯の趣味にすると、日々練習の繰り返しで、そこに終わりも完成もない。

では、その練習のプロセスはきつくてうんざりするのかというと、むしろそのプロセスこそが、音楽を演奏する醍醐味のように思う。または、その果てしない練習と分析と試行錯誤を楽しめる人が、楽器演奏にハマるのではないかと思う。人間はそこまで苦痛に耐えられる生き物ではないから、楽器演奏を愛好する人々は皆、その習得のプロセス、より音楽を魅力的に聴かせるための実験の積み重ねが、概ね面白いと思っているはずだ。

確かに、非常にタイトなスケジュールで、朝から晩まで譜読みに追われると結構疲れるし、消耗する。でも、最初に楽譜を読み込み、演奏の土台を作り上げている感覚は、やはり音楽の楽しみだ。これをすっ飛ばして、いきなり流暢に演奏出来たとしたら、労力は大幅に節約出来るが、果たしてそれが同様に楽しいと感じるかどうかは疑問だ。ああでもない、こうでもないと試行錯誤した結果のテンポ、運指、強弱の加減、アーティキュレーションの細部に至るまで、こだわりがあるのだ。時間を注ぎ込んで実験、熟考したからこそ、この演奏でいきます、と自信を持って言えるのだ。

おそらく、プロセスが楽しいというのは、その行為が何かの誤魔化しではなく、心底好きだという証拠だ。釣り人はその待ち時間も楽しむのだろうし、料理人は仕入れも仕込みも含めて楽しいのだろうし、ゲーマーは攻略法を練る時間が楽しいのだろうし、旅好きは目的地云々より移動そのものを楽しむのだと思う。読書好きは、長時間紙を繰る時間をすっ飛ばして、要約だけ読んでもちっとも楽しくないし、書くのが好きな人は、AIにそんな楽しみを任せてしまうなんて勿体ないと考えるだろう。

音楽を演奏する場合も同様で、それに惹かれる人はその果てしないプロセスこそが好きなのであって、注目を浴びて拍手が欲しい訳ではない。これがクラシック音楽の場合、かなりの練習量が求められるので、プロセスに苦痛を感じると、そもそも早々に嫌気がさしてしまう気がする。

そのプロセスは地味だが、とうの昔にこの世を去った人が残した音楽を、未だに楽譜を頼りに再現出来るというのは浪漫を感じるし、時間を超え生き延びてきたものを、自分の手で蘇らせるという悦びがある。古典文学を読むように、もう接点のない時代を体験出来る。

何でも手軽に素早く出来ることに価値が置かれる時代となったが、時間をかけてゆっくり完成させていくというのもいいものだ。チーズだってワインだって、時間を経たものは、若い味には真似出来ない深みがあるのだ。時間が凝縮された芸術は、それを味わう人々に、インスタントでは決して得られない、静かな人生の悦びを与えてくれる。




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