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そのときだけのもの

いつも明るく笑う女性に、太陽みたいな匂いがするから好き、と言われた。私からみたら彼女こそ太陽のようだった。

それでしばらく付き合い、深く傷つけて別れた。

そして数年後に再会した。

私は気後れして、ちゃんと目をみて話せなかった。

彼女を傷つけた記憶が海中の牡蠣のように脳裏の岩肌にこびりついていた。

しばらく無言でうつむいたまま、沈黙で延びきった時間に放置されていたが、彼女から口を開いた。

まだあなたは太陽の匂いがするのか知りたいと。


ミルクが肌に染み込んだような、肌がミルクに染まったような淡いまろやかな匂いが赤ちゃんの体からする。

それはずいぶん短い期間で終わる。

あぁあれは幸せの香りだったんだなと、あとから思い返す。

どこかで生まれた誰かの赤ちゃんのことを考える。

ぜひ匂いだけでもかがせてほしい。

想像しただけで穏やかな気持ちになれる。

乳歯が生える前、うちの娘はよく私の指を噛もうとした。

実際に噛まれてみると、他の何にも例えようがない歯茎の弱々しい固さを感じた。赤ちゃんの歯茎を指でなぞってみるのも悪くないです。

自分の歯が抜け落ちて歯茎をなぞっているのを思うとぞっとしますが。

同じ歯茎なのにこちらは凍り付くほど気持ちが悪いですね。

いつか失われるものについて考えてみる。

その現実がこちらに着実に近づいてきている。

普段は実感できない。

いい年して虫歯がみつかったのに危機感を持てないでいるのと同じだ。

彼女は私の匂いを嗅いでどんな気持ちになっただろう。

記憶の果実にさらなる幻滅を塗りたくってなければいいのだけど。

私はきっと太陽みたいな匂いを失っていると思います。

でもせめて自分の歯を失わないために今日もきちんと歯を磨いて眠ります。

皆さんもお気をつけて。

おやすみなさい🦷

サポートしていただいたお金で、書斎を手に入れます。それからネコを飼って、コタツを用意するつもりです。蜜柑も食べます。