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第11話 ゴールドラッシュ


2015年8月21日

目覚めるとiPhone 6を真っ先に手に取り、Gmailのアプリを開く。予約の受注メールが画面を埋め尽くしており、タップしてスクロールしてもそれが途切れることはない。2~3回のスクロールでやっと別のメールが出てきた。ECも同じだが、実店舗型の着物レンタルの予約が入るピークタイムは22時~深夜2時のため、このようなことになる。

昨日も何のイベントも無い平日であったが、100人近い来店があり、遅番勤務での片付けが長引いて帰宅は24時近くであった。34歳にもなると無理が出来ない身体になってきており、疲れは残っているが、それ以上に高揚感に包まれた日々を私は送っていた。

そもそもの始まりは再生支援協議会の案件に入ってしまったため(第13話 事業売却参照)、数か月後には間違いなくリストラをしなければならないのが決定的となったことだった。数ヶ月の時間的猶予は与えられたが、新規で投資出来る資金は殆ど無い。制約条件だらけの中で、短期間で何がしかの事業を立ち上げて売上を作らなければならない。当時ブレイク真っ最中の宅配着物レンタル事業の中心メンバーたちに集まってもらい、新事業の案出し会議をすることにした。6月10日のキックオフミーティングで私が設定したのは

・ゴール:最速で収益(利益ではない)の最大化が見込める事業創造(おっさんを食べさせる)
・スケジュール:7/1 サービススタート

というものであった。制約条件としては

・新規の資金投入は最大100万円まで。
・在庫など、新規にキャッシュアウトしないリソースはどれだけ使ってもOK
・人も余っているのでいくらでも使ってOK。むしろ雇用の創出が最大の目的。

とし、そこから何回かミーティングを重ね、最終的には宅配着物レンタル事業のブランド名を流用し、京都市内中心部で浴衣のレンタルを行なうことにした。

最初に行ったのはスプレッドシートの横軸に競合他店の名前、縦軸にサービス内容をそれぞれ記述し、各店のサービス内容がどのようになっているのかを可視化することだった。その上で、絶対に行った方が良いサービスは何なのか、また、それはいくらで提供するべきなのか。反対にどこもやっていないサービスは何なのかということを検討し、サービスラインナップや価格、オプション内容を確定させていった。立ち上げ時のKSF(Key Success Factor)となったのは、当時はどこの店も19時閉店となっていて、それでは夕食後に返却が出来ないのではと、22時閉店にしたことであろう。最終的には他店にキャッチアップされたが、人が余っているが故に出来た施策でもあった。

次に場所探しだが、長期の賃貸借契約を結ぶわけにはいかないため、期間限定で借りれるのがベストだが、そんな場所は早々無い。探し回ってもなかなかこれという物件は出て来なかったが、現社屋移転前に借りていた場所がまだ空いており、オーナーとも話が出来る関係性であったため、7月1日~9月30日までの期間限定で借りられないかというオファーを行なって了承を得られた。移転後の現社屋からも徒歩で5分程度のため、スタッフの移動にも無理が無く、地下鉄の烏丸御池駅・四条駅のどちらからも徒歩5~7分程度の場所であるが、祇園祭の山鉾が立ち並ぶエリアからは少し離れていたため、お客様にとっても利便性が高い場所であった。

場所が確保出来たことで新規の資金投入は予算の範囲内に収めることが出来た。浴衣の在庫は通販サイト用に確保していた在庫を投入、人員は社員を年齢が若い順に現場から引っこ抜き、男子は受付スタッフ兼洗濯係、女子は着付けをマスターさせて着付係に。ヘアセットも全く出来ないというわけにはいかないだろうと、美容師さんの派遣も依頼した。そうして迎えた開店初日の7月1日から数日間は、毎日数人から多くても十数名の来店で、若いスタッフたちはみな不安そうな顔。私はと言えば、祇園祭の宵々々山から山鉾巡行を控えていたので、もっと予約は入ってくると確信していたのが半分、もう半分は本当に上手く行くのだろうかという不安な気持ちであったのが本当の所であった。

サイト自体も突貫工事で立ち上げたので、SEOで上位に上がってくるまではリスティング広告で集客する必要があった。宅配着物レンタル事業ですでに自分たちの得意技と言っても良いレベルにまで技術を高めつつあったが、出稿キーワードや扱うジャンルが若干異なってくるため、同じ成功を100%再現出来るという確証は無い。事実、7月1日の開店数日前から広告はスタートしていたが、想定より反応は鈍い状況が続いていた。

データを眺める中ではたと気が付く。メインで狙うキーワードは「京都 浴衣 レンタル」という、「(私は)京都で浴衣をレンタルしたい」というニーズをお客様がGoogleの検索窓に入力する時のパターンから導き出したものであったが、検索ボリューム、つまりは検索されている回数が想定より多くない。もしやと思い、出稿キーワードの中に「京都 着物 レンタル」というキーワードを入れてみたところ、これが大当たり。ここからしばらく冒頭のシーンのような、Gmailの受信トレイが予約の受注メールで埋まる日々が続いた。

所謂業界の人間からすると「着物」と「浴衣」は似て非なるものだし、それらを同一視することはありえない。しかし、お客様、それも今時の若い女性たちにはそんなことは全く関係が無い。素材がどうとか何枚重ねて着るとかではなく、形が「着物」だから7月でも「着物」と検索するのだ。これに気付けたことで、後々WEBマーケティングを仕掛ける際には、あくまでもお客様の行動から逆算することをベースに考えられるようになった。

開店から1週間が経つ頃には宵々々山から山鉾巡行日にかけての予約がドンドン入ってくるようになり、何のイベントも無い日においても予約数・来店数は着々と増えて行った。そして迎えた宵々山で来店数は遂に100名を超えた。嬉しい誤算はその後、花火大会やイベントがある日以外の来店数も堅調な数字を維持したことである。結果論ではあるが、私がこの事業を始めた2015年から2017年にかけて、あらゆる国籍の若い女性たちが春・夏・秋それぞれの季節で着物や浴衣をレンタルし、インスタ映えする観光地に出掛けるのが一大ブームとなり、その波に上手く乗ることが出来たのだ。

3ヶ月間で1,000万程度の売上を何がしかの事業で作ることが出来れば、リストラ回避の芽も出てくると思っていたが、終わってみたら1,500万弱の売上を計上することが出来た。投入した浴衣などを原価として計上しても、営業利益率20%程度を叩き出すことも分かり、迷うまでも無く、新規で場所を借りて事業を継続することを決めた。もちろん、物件の保証金などは3ヶ月間の売上で賄うことが出来る。

お盆が過ぎた頃から物件探しを始め、四条河原町から徒歩5分以内のビル空中階に理想的な物件を見つけた。何せこの商売はあまり仰々しい内装が必要無いので、改装費用が少額で済む。この時点での平均来店者数が一日80名前後であったため、工事はお手洗いの数を増やし、大型の洗濯機も置けるようにしたぐらいだ。後はパーテーションやタイルカーペットを通販で購入して、自分たちで施工するという、良く言えばD.I.Y.を徹底。空き時間に店内に掲示するサービス案内のPOPや観光案内も自分たちで作成してラミネートするという具合であった。

何名かの社員は本社に戻すことになり、また美容師も一定人数を確保することがマストであることも分かったため、雇用の維持という本来の目的からは逸れ始めていたが、アルバイトスタッフを新規採用するなどして、事業自体を本格的に伸ばしていくフェーズに移っていった。

3ヶ月間の期間限定で借りたサテライトショップは9月末でクローズし、10月1日に新店舗で「着物&浴衣レンタル One」と称して、グランドオープン。ここから更なる快進撃が始まった。

11月の紅葉シーズンでは着付待ちの長蛇の列が出来てしまい、大変お待たせしてしまうなどの不手際もあったがが、毎朝出勤してWEB上の予約表を確認すると夕方まで予約がパンパンに詰まっている。開店準備を終えるころには電話が鳴りだして、WEB上では予約が一杯だけど、何とか今日レンタル出来ないですかという電話に頭を下げる日々。

これは、私が人生で初めて体験したゴールドラッシュ、そのものであった。

夕方、着付けの最終受付時間を過ぎてお会計も終わられると、店はお戻りになられるお客様を待つ体制にチェンジして、私はそのタイミングでレジ締めを行なう。3,000円のレンタルに1,000円のヘアセットを付けた4,000円が平均客単価で、多い日は100人を超える来店がある。カード比率はそれほど高くないため、現金で毎日30万円~40万円の売上があり、当日の現金売上は毎日近くの銀行ATMに入金しに行くことにしていた。ユニフォームである紺のポロシャツ姿のまま河原町通りに飛び出すと、当時は視界の中に必ず2~3組は着物を着た人たちが目に入った。あの方々はうちの店、あのカップルさんは違うな、と観察しながらATMで売上を入金して店に戻って行くこの時間が、私にとっては最高に幸せであった。

年が明けて2016年になり、再生支援協議会に提出する再生計画策定もいよいよ大詰めを迎えていた。経営者がこの調子なので、この間も祖業の製造卸業は売上を落とし、採算性も更に悪化したのは当然であろう。

2月18日、私は着物レンタル、並びに小売事業などに全リソースを集中させ、製造卸業から期限を決めて撤退することを決断した。

社員にとっては今まで慣れ親しんできた仕事で定年を迎えられるのが最も幸せなことだろうと思う。当時の社員たちにとっては特にそうだろう。私はそれを実現することが出来なかった。この決断によって、多くの社員が辞めることになるかもしれないし、やったことが無い仕事を強制することになる。私は、雇用を確保するという名目で事業を捨てて、法人を残すことを選んだ。それは、社員のために働くというスタンスを、自分自身が幸せに生きていくために働くというスタンスに大きく転換したことも意味しており、その日の夜は大きな無力感を抱いて落ち込んだことを、今でもよく覚えている。

3月には春の繁忙期に備え、本社屋のレイアウトを変更して2号店を開店させた。京都の正絹着物の世界で一時はトップシェアを誇っていた会社が、社屋の道路沿いに着物レンタルをやっていますというのぼりの旗を出し、老若男女、あらゆる国籍のお客様が洋服姿で来店され、着物姿でお出かけされていく姿は、業界に衝撃を与えたようだ。当の本人は全くその業界を見なくなっていたので、何処吹く風であったが、現場の人間たちは製造卸もやりながら、着物レンタルの店番や着付けもさせられるという、新手の退職勧奨が始まったと揶揄されたりもしていた。

雇用の確保を目的にスタートしたこの事業であったが、皮肉なことに、でも想定通り、ここから退職者が相次いでいった。

変われ、変化しろ、このままでは駄目だといくら喚いても何も変わらなかった人たちが、1つの明確な方針を遂行し始めた途端、蜘蛛の子を散らすように会社を去って行った。北風と太陽という話は、こういうことであったのだろう。

この事業は2016年にかけて売上をドンドン伸ばし、初年度はグロスで1億円を超える売上に対して営業利益2,000万円という数字を出した。勢いにのって東京の浅草に進出、他社との合弁で新宿の一流百貨店に出店するところまで行ったが、浅草は進出段階ですでにレッドオーシャン化しており、百貨店も黒字化には至らなかった。

晩期は上手く行っていたことが逆回転し始める(第14話参照)。結果的には最初に出店した河原町の店舗を1フロアだけ手堅く運営していれば良かったのだろうが、借入金を返済するためとは言え、やっと掴んだゴールドラッシュに固執しすぎたのが仇となった。

最後は、河原町店を閉めて本社の店舗に集約。宅配着物レンタル事業の売却と会社の特別清算に伴い、スタッフには同業他社で雇用を引き受けてくれるところに移籍を促すも、京都エリアでは誰一人として移籍することは無かった。浅草は物件の賃貸借契約も含めてその会社に譲り、一定数のスタッフは移籍した。百貨店は他社に運営主体を移し、事業全体としての失血という意味では軽傷で済んだが、あれだけ盛り上がった事業が最後はスクラップに近い形で終わって行った。

インサイドストーリー「リーンスタートアップ的なやり方」

22時閉店
単純な話だが、着付けの最終受付を17時~18時頃に設定している店が多いため、その後片付けをして店を閉めるという供給者側の論理で閉店時間が決められている。お客様のニーズとしては、昼過ぎ~夕方にかけて着付けて出掛けて行った場合、夕食は食べて戻って来たいだろうという仮説を立てていた。実際には22時の閉店間際に駆け足でお戻りになるお客様は多く、仮説が合っていることを証明することに。

20億の市場
ざっくり概算だが、当時はコンサバに見積もって京都だけで一日1,500人はレンタルサービスを利用していたと仮定して、平均客単価4,000円×1,500人×365日=2,190百万円、実に20億円を超える市場がいきなり誕生したのだ。その結果、ピーク時には200店舗以上のレンタル店が乱立し、お決まりの価格競争に陥っていく。とりあえず物件を借り、問屋から着物一式を買ってきて、着付け師と美容師(兼務出来るなら尚良い)を雇って店を出したら利益が出るという嘘みたいな状況が一時は本当にあったのだ。

アウトサイダー
所属する業界から飛び出していくことについてはあらかたやり尽くしたので断言できる。業界からはみ出すことを気にする人は多いが、それ自体には一円の価値も無く、飛び出したところでメリットがあれば今まで通りの売り買いは発生するし、メリットが無ければ取引が無くなるだけのことだ。ただ、業界の中で群れていると思考が後ろ向きになったり停止したりするので、デメリットの方が多い。

とりあえずやってみる
この事業を拡大させている際によく和装産業の方々からよく言われた言葉が
「いやー、室木さんところは気張ってやったはるみたいやね。うちは絶対やらへんけど。」
いや、やらへんのではなく、出来ひんのやろ?と心の中で思いながら聞き流していたが、指を咥えて難癖をつけているぐらいなら、渦中に飛び込んで当事者になった方がビジネスは楽しい。逆に、超優良財務体質の会社のオーナーに限って、私がやっている事業に興味津々で色々と聞いてきていた。

その後
譲渡した浅草の店は一度移転した後、コロナ禍もあって閉店したようだ。また、この事業をドライバーにして上場した会社は、コロナを経てこの事業を売却した。2023年現在ではインバウンドが再び盛り上がっているが、以前のようにとりあえず観光地で着物レンタルという以前のような盛り上がりは無い。

焼きたてメロンパン、タピオカドリンク、フルーツ大福
構造的にはこれらのものと同じ種類のものであったということだろう。つまり良い意味でも悪い意味でも「ファッション」だったのだ。だからこそ、爆発力は凄かったが、消えていくスピードもとんでもなかったというオチ。



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