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過保護、過干渉の果てのアイデンティティの喪失と無気力

(キモいnoteを全文保管したまま下書きにできなくなってしまったので消せない)

中学受験うまくいったとか
ぜんぶ親の頭の良さ故なのか
って思った時からやる気出てないのかも
何頑張っても親のおかげ言われるだけやもん

これは私のツイートの引用であるが、
これが私にとってのアイデンティティの喪失の瞬間の話である

ある時気づいたのだ、自分が成し遂げてきたと思っていたことはほぼ全て親によってなされていたに過ぎないということに。中学受験は親が9割と言われることも多いのでそうなる傾向が高いというのもあるかもしれない。親が優秀だとそう考える傾向になりやすいのではないかとも類推する。私の親が悪気なく過干渉、過保護だったのも原因の一つだと思う。とにかく、今まで「私は勉強だけはできる」と思っていたが、それが全て水泡に帰してしまったような感覚に陥ったことをよく覚えている。忘れ物やなくしものが多く、人とコミュニケーションを取る事にも常に不安を覚えていた不安定な自分の生活を唯一支えてきた心の柱がある日急に失われるのは簡単に受け止めきれることではない。最近ジョン・ナッシュの伝記映画「ビューティフル・マインド」を見たが、(ここからはネタバレ)統合失調症の人に置き換えてみると今まで自分が真実だと思ってきたものが全部自分の妄想に過ぎなかったのだと知って足元の床が抜け落ち、血の気が引いていくような感覚と遜色ないのではないかと思う。あれを見た時、自分の喪失の感覚とリンクしたのを覚えている。これが第一のアイデンティティ喪失である。これによって何をやっても全てが親の能力の高さを証明しているようにしか思えなくなり、当時親に対して良い感情を持てていなかったこともあって次第に努力することに対して興味を失って行った。私は努力して結果を出してもそれが自分の努力のおかげだと思えなかったから努力ができなくなっていった。とても悲しかったし辛かった。

しかし、勉強というアイデンティティを喪失した代わりに得たものがあった。人の痛みが理解できるようになったのだ。これが新たなアイデンティティの獲得である。私は賢くはなれなかったけど、一定の集団における弱者の気持ちを深く理解、共感できるようになったと自負するようになった。また、弱者なりの図太い生き方、生き残る方法を編み出した。これ以降はそれらが私の背骨となり、生きる軸となった。

さて、次は第2のアイデンティティの喪失の話である。大学にしぶしぶ入学し、ぼんやりとだが1年生にして就活に恐怖を覚えた私は就活垢を大量にフォローし始める。そこで文系就活に求められているのは主に快活さと勤勉さであり、それを備わない人間はほぼ無意味に値することを知る。何度スクロールしても定期的に出てくる快活さと勤勉さを重要視しろという文面……そのどちらも備えない私は自分の人生に絶望し、半ば自分の人生を否定されたような気持ちになった。もちろん就職面接における価値観は人間の価値の全ては規定しない。だが、働かないと食べていけない世の中で働くことができない可能性が大いにあるというのは重大な生命の危機でありそれは私のメンタルにそこそこ甚大な影響を与え、私は一時期自分を何も価値のない人間だと自虐し乾いた笑いしか漏らさなくなっていた。今は就活に関する情報をミュートし、距離を置いている。

と、ここまで書いておいて話を戻すのは申し訳ないが、先ほど私が書いた「私は努力して結果を出してもそれが自分の努力のおかげだと思えなかったから努力ができなくなっていった。とても悲しかったし辛かった。」という記述に対して少し訂正を施したい。私はこの時が初めてそう認識した時であるかのような書き方をしているがこの時だけではなく、これ以前にもある成果が自分の努力ではなく他人の努力によって成されたことだと認識したことがある。小学生のとき家族で協力して描いた絵が受賞した時のエピソードだが、正式な賞状の受賞者名が書かれたところに私は名前ペンでみんなの賞状と付け足したのである。母親は大変慌てていたのでふつうではない行動だとあとで理解したのだがあの時の私は自分の成果が他人の行動によるものと知りながら悲しむことも無くただおだやかな悦びを享受するのみだった。それと今の違いは何か。恐らくそれは当時は親に褒められたくて努力し、他人に頼ろうがなんだろうが褒められて嬉しかったのだが、現在は関係性の悪化した親が喜ぶこと(努力する)をしたくないという違いだと思われる。私は他人や親との境界が曖昧だった幼少期は親や他人からの評価を原動力に活動できたが、他者との境界の分別がつくようになると他者からの評価に依存しまいと本能的に自立しようとし、歯を食いしばった。しかし実際には他者からの評価のみで満たされていた活力がすべて抜けきり、あとには空っぽの器しか残らなくなったのである。過保護というのは根深く、自立しようとある日突然思ったところで未だかつて一度も成し遂げたことのない1人での達成は簡単には成されないということのいい例である。一度過保護を始めてしまったら死ぬまで過保護し通す覚悟と金銭が必要だ。それを具現化してしまったのが90歳の老人が50歳で無職ニートの子供を世話していたエピソードなのだろう

私にはやりたいことが幼少期から今までほとんどないに等しかったのも過保護の影響があると思う。他人に評価されるためのやりたいことは、他人が介在しない一人の時は成立しない。だから「''あなたのやりたいことは?''」と言われると戸惑ってしまうのだ。''私''は存在しないからだ。

他人といると安心し、周りに人がいないと不安になる傾向も過保護に原因があるような気がする。自分という軸がなく、他人がいないと軸が決まらないから不安になるのだ。周りに人がいないとどんな自分を演ればいいのか、どう過ごせばいいのか分からなくなる。一方、他人といる時はどんな自分ですごせばいいのかがはっきりと分かる。他人に評価されるためだけに今まで生きてきたお陰で手に取るように相手の暗黙の要望が分かるようになり、聞き分けのいい子供や部下、生徒を演じるのは得意だからだ。

また話しが逸れるが先ほど述べた境界について。境界の不安定性が導く不安による境界性人格障害、不安を肯定するための過剰な自己愛による自己愛性人格障害は併発しやすいのではないかという仮説を私は持っている。全く根拠を持たないので、福祉学部に受かった暁には研究してみたい。

この文章では全体的に過保護、過干渉をかなり批判的に扱ったように受け取られるかもしれないが、私は母親に対する恨みは既に彼女の努力もあって昇華できており、また今まで私に費やしてくれた労力、時間、感情を考えるととても簡単に否定できたものではないので、母親に対する恨みのために書いた訳ではないことだけをここに念のため記しておきたい。ただ、単に事実として親の育て方が精神疾患に与える影響を、精神疾患に関するさまざな書籍を読み漁った結果、認めざるを得なかっただけである。

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