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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2021年6月の記事一覧

疑念

疑念

 男の心の片隅には疑念が根付いていた。それは見るからに儚げな疑念で、その上心の中でもかなり日当たりの悪い部分に位置していて、すくすく育つとは言い難いものの、しかし、確実に存在し、また枯れる様子もなかった。
「実際どうなのかしら?」男の妻は男に尋ねた。
「まあ、仕方ないんじゃないかな」男は答える。疑念はあるものの、こう答えるのが穏当だと考えたからだ。
「そうよね」妻はうなずいた。
 実のとこ

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最終兵器

最終兵器

 心優しかった彼の志したのは兵器開発だった。幼時から体を動かすのは苦手だったが、数学の成績だけはずば抜けていた。彼はいわゆる天才だった。トップクラスの工学の学校に進み、優秀な成績でそこを卒業した。そして進んだのが兵器開発の道だった。
 時代が時代だったのだ。軍部の強行したその戦争は、泥沼化していた。日毎に多くの若者の命が失われていっていた。彼にとっても、それは他人事ではない。彼の幼なじみも戦線に送

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夢見たことが

夢見たことが

 人々の夢が実現した。人々のお願いが、神様に届いたのだ。ただし、その願いが神様に届くまでに多少の時間を要した。もしくは、永遠の存在である神様にとっては、それはほんの一瞬であったのかもしれないが、有限の時間を生きる人にとってはいささか長い時間であった。その時間、およそ三十年。そして、そのかなった夢とは、小さな、年若い少年少女たちが、夜空を見上げながら祈ったお願いだ。
「神様、お願い」
 少年少女たち

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鶏

 あるところにとても美しい声で鳴く鶏がいた。その村の人々はその美声で朝を知るのだった。それは幸福な目覚めである。清々しく晴れ渡った日はもちろんのこと、どんより曇った日も、さめざめと雨の降る日も。鶏は、朝を幸福なものにした。人々はその鶏を愛した。
 ところが、その鶏はある男の所有物であった。男は吝嗇であった。鶏を飼うのはひとえにその卵を取るためであった。美声の鶏は雄鶏であったので、男は卵を産まないそ

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牛のような男

牛のような男

 その男は牛のようであった。遠目に見ればその巨躯と動作が牛のようなのだが、その目である。牛の目である。愚鈍で、濁った目。男を見た者の印象はその目に集約される。
「ああ、あの目の男ね」と人は言うだろう。
 男は寒村の出であった。猫の額ほどの土地を持った自作農の倅である。両親が歳をとってから授かったたった一人の息子であった。土地は全て男のものになるはずであったのだが、政変があり、政府が変わって土地は取

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石女

石女

 夫と離縁させられましたのは、わたくしが石女であったからでございました。
 わたくしどもの夫婦仲自体はとてもよく、仲睦まじいという言葉がふさわしい、自分で言うのもなんですが、理想の夫婦であったと、わたくしは思っております。夫はわたくしのことを慈しんでくれましたし、わたくしも夫のことを深く愛し、尽くさせていただきました。それは実に幸福な日々でございました。必要とされ、また頼るもののあること以上の幸せ

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これはゲームではない

これはゲームではない

 戦況は泥沼といってよかった。敵のゲリラ的急襲はいつどこから現れるのかわからず、そんなプレッシャーに心を病むようなものもあらわれていた。
 そんな折り、ジャングルを行軍していると銃撃に遭った。完全に待ち伏せをされていたらしい。オレともう一人を残して、あっと言う間に殲滅された。かなりの手練だ。敵は撃つとすぐに移動しているのでいったいどこにいるのか、どこから撃たれるのか皆目見当もつかない。音も無く移動

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彼が彼であることを殺したもの

彼が彼であることを殺したもの

 叔父は人を殺した人だった。もちろん、人を殺すその時までは、叔父は人を殺したことの無い人であり、それどころか虫さえ殺せないような優しい人だった。ぼくはそんな叔父が好きだった。叔父はぼくとよく遊んでくれた。虫の捕り方を教えてくれたのも、ザリガニの釣り上げ方を教えてくれたのも叔父だ。カードゲームのいかさまのやり方や、胸踊る冒険物語の本を貸してくれたりもした。その頃のぼくは同年代の子供たちと遊ぶよりも、

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ボート

ボート

 ある夏休みのことである。友人たちと三人で海に出かけることになった。
「叔父が別荘を持っているんだ」と、友人の一人。一週間そこを使わせてくれるという。男三人で海とは、なんとも冴えないが、もしかしたらそこで甘い出会いがあるかもしれない。季節は夏である。そして、海、砂浜、水着。期待しないようなふりを装いながら、なんだかんだと言いながら、我々はわくわくしながらそこへおもむいた。
 ところが、期待は完全に

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内気な男

内気な男

 彼はとても内気な男だった。それはまだ子どもの頃から変わらない彼の性向だ。幼いころからひとり遊びを好み、同年代の子供たちの輪に加わろうとしない。ひとりで積み木を重ねていて、他の子がそれに加わろうとするとそそくさとそこを後にした。公園の遊具では絶対に遊ばない。滑り台も、ブランコも、彼は一度もやったことがなかった。
 学校の授業中に教師に指名されても、何も答えられない。算数でも、国語でも、理科でも社会

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ぼくの胸に空いた穴の話

ぼくの胸に空いた穴の話

 最愛の妻が死んだ。アクセルとブレーキを踏み間違えた車にはねられたのだ。運転手はブレーキの不具合だと主張し、長々と法廷で争われることになるのだが、ひとつだけ変わらないことがある。
 妻は死んだ。そう、妻は死んだのだ。
 裁判もそうだが、葬儀やその他の手続きもろもろが嵐のようにやって来た。さながらその強い風にもてあそばれる小舟のように、ぼくはどうにかこうにか日々を過ごした。その中で下した判断に、間違

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君でなくなってもらう、ということ

君でなくなってもらう、ということ

「君は優秀な男だ」と、彼らがエージェントと呼ぶ男は語りはじめた。黒い背広に、無表情。髪はぴっちり横わけにされている。
 とはいえ、「彼ら」とは誰か?彼は自分の他にも自分と同じような仕事をしているものを知らなかった。「彼ら」、あるいは、彼の仲間のようなものたち。
 しかしながら、彼は自分と同じような仕事をしているものがいるはずだ、と考えていた。エージェントは彼の行動をその隅々まで把握していた。日常の

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食糧難の時代

食糧難の時代

 ついに人類が築き上げてきた文明が行き詰まりを迎えたのだった。産めよ増やせよの精神で増殖してきた人類にとって、実はもっとも重要な技術革新は食糧の生産力の飛躍的な進歩に他ならなかった。品種改良に遺伝子操作、新しい農薬の発明、大規模農業を可能にする大型機械、腹が減っては戦はできぬ。人類を支えてきたのは食に他ならず、それが足りなくなれば全ては破綻をきたしてしまうのだ。
 そして、ついに食糧難の時代が訪れ

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潮の香り、排気と油の臭い、カモメの鳴き声

潮の香り、排気と油の臭い、カモメの鳴き声

 誘拐されたことがある。まだわたしが学生だった頃のことだ。
 その記憶は、潮の香りと、フェリーの吐き出す排気と油の臭いと結びついている。
 そいつはフェリー乗り場で捕まり、わたしはそこで解放されたからだ。そいつがどこに行こうとしていたのかは知らない。
 カモメが鳴いていた。
 いきなり車に押し込められ、後ろ手に縛られた。悲鳴を上げるとか、徹底的に暴れてやるとか、そんなイメージトレーニングみたいなこ

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