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ボート

 ある夏休みのことである。友人たちと三人で海に出かけることになった。
「叔父が別荘を持っているんだ」と、友人の一人。一週間そこを使わせてくれるという。男三人で海とは、なんとも冴えないが、もしかしたらそこで甘い出会いがあるかもしれない。季節は夏である。そして、海、砂浜、水着。期待しないようなふりを装いながら、なんだかんだと言いながら、我々はわくわくしながらそこへおもむいた。
 ところが、期待は完全に裏切られた。それは予想を遥かに越えた別荘であったのだ。
 電車を乗り継ぎ、半日かけてたどり着いた無人駅から一時間に一本のバスに乗る。その別荘はまるで地の果てにでもあるかのようだった。
「叔父は車で行っちゃうからね」と、友人。「高級車」
 もちろん、我々の誰ひとりとして高級車はおろか、車も、ラジコンカーすら持っていない。冴えない貧乏学生が我々である。
 そうして、やっとのことでたどり着いたの海に臨むその別荘は、豪邸と形容する以外ないような豪奢なものだった。いくつも部屋があり、その中で迷子にでもなりそうだった。そしてなんと、プライベートビーチを持っているのだ。そのビーチはその別荘を訪れた人間だけが使えるようになっていて、外部の人間は立ち入ることができないようになっていた。もちろん、水着姿でビーチバレーに興じる女の子たちの姿があるはずもない。
「女の子を誘ってくるべきだったな」
「そんな甲斐性のあるやつがこの三人の中にいる?」
 しかたなく、我々は海に浮かんだり、バルコニーで夕日を眺めたりしながら日がな一日過ごすのだった。それはそれでいい休暇ではある。冷蔵庫には普段なら手の出せない高級なビールが収められていて、最初は少し遠慮したが、一本だけと開けたら止まらなくなった。結局、一本残らずに飲んでしまった。まあ、悪くない休暇のようにも思える。しかし、若さとはそれで満足するものではないから厄介だ。
 それはその叔父の所有するボートである。内装まで凝っていて、かなり高価そうな代物だ。おそらく、海釣りでもするときに使うのだろう。
「これで海に出てみない?」と、それの所有者の甥は言った。
「操縦ができるの?」
「いや」と首を振る。「しかし、操縦するのをみたことがある。なんてことはない。簡単なものさ」
「門前の小僧が信頼できるかな?」
「まあ、任せてみなよ」
 不安は的中し、我々は漂流することになった。エンジンが故障し、舵も動かない。無線もどう使ったらいいのかわからず、助けを呼ぶこともできない。自力で走ってきたのは、まだ陸地が見えるところまでしか出てはいなかったが、潮に流され、見渡す限りの大海原である。
「困ったね」
「困った困った」
 と、最初は呑気なものであった。夏休み明けにクラスメイトに話すネタが出来たくらいに考えていた。それに、気のおけない仲間たちと一緒なのだ。多少の苦難ならば、共に乗り越えられるだろう。
 すぐにその考えの浅はかさが露呈した。まず訪れたのは飢えである。それはまだいい。恐ろしいのは渇きだ。辺り一面水の中、我々は激しい渇きに襲われた。渇きは人を変える。苛々とし、ちょっとしたことで掴み合いになる。船内を隈無く探し、どうにか飲めそうな水が僅かに見付かった。食料品はなさそうだ。そしてまた同時に、見つかったのだ。何が?拳銃である。
それはぬらりと黒光りしていた。実に気味が悪い。しかもさらに悪いことは、それが自分の手になかったことだ。それを見つけた人間は、それを持たないふたりにそれを突き付けた。
「この水は俺のものだ」
 反論などあるだろうか。ない。我々、銃を持たないふたりは言いなりになる以外ない。こうして船上に力関係が出来上がった。持つものと、持たざるもの。絶対的な力関係である。
 そいつは水を飲んだ。喉から手が出るという形容がふさわしい。本当に喉から手が出て、その水をひったくりそうだった。しかし、そんなことをすれば撃たれるかもしれない。口を開けば悪罵する言葉が飛び出すだろう。ただ黙って座っていた。
 結局、通りかかった漁船に助けられることになるのだけれど、陸に上がってから、我々は一言も口をきかなかった。


No.575


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