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疑念

 男の心の片隅には疑念が根付いていた。それは見るからに儚げな疑念で、その上心の中でもかなり日当たりの悪い部分に位置していて、すくすく育つとは言い難いものの、しかし、確実に存在し、また枯れる様子もなかった。
「実際どうなのかしら?」男の妻は男に尋ねた。
「まあ、仕方ないんじゃないかな」男は答える。疑念はあるものの、こう答えるのが穏当だと考えたからだ。
「そうよね」妻はうなずいた。
 実のところ、男の妻の心の片隅にも、男と同じように疑念が巣食っていた。それはしつこい黴のように、強く擦っても消えてくれなかった。だから、彼女は夫に尋ねたのだ。夫が疑念を否定してくれれば、疑念は消えるかもしれない。疑念を肯定されたなら、疑念を抱き、それを育ててればいい。
 かたや、答えた男は男で、自分の回答に後押しされ、自分自身に説得されつつあった。
 それでも根強く疑念は心に留まったので、男は職場の同僚に尋ねた。
「なあ、どう思う?」
「まあ、仕方ないんじゃないかな」同僚はそう答えた。
「やっぱりそうだよな」男はうなずいた。
 そう答えたものの、男の同僚は男の同僚で、自分の心の片隅に疑念が潜んでいるのを知っていた。それは鋭い捕食者の眼をしてこちらを睨んでいる。見て見ぬフリをしてやりすごすのが彼の性分、だから、疑念の存在を知りつつも、男に尋ねられた時、男の同僚はそう答えた。これが一番当たり障りのない答えさ、と自分に言い聞かせて。
 男の同僚は、家に帰り妻に尋ね、また他の同僚に尋ね、その輪は波紋のように拡がり、その都度、「まあ、仕方ないんじゃないかな」という答えを産み出させた。実のところ、誰もが疑念に心の一部分を与えながら生きていたにもかかわらず。
「疑念を差し挟む余地はありません!」と高らかに議会で演説をした政治家の心の中にも疑念はあったし、賛成票を投じた議員たちの心にももちろんそれはいた。ただし、それは実に見つけにくいところに潜んでいたのだが。
 こうして、決定が下された。仕方ない、と誰もが思った。決定は垂直に、まるで万有引力の法則に従うかのように落下し、最終局面へと。それは、そのボタンを押すということ。
 ボタンを押す係りの男は思った。「誰がこんな決定をしたのだろう?」安全装置が外され、ボタンが露になる。「決定は決定だ」係りの男の心の中にも疑念は存在した。「これは本当に正しいのか?」しかし、すぐに気を取り直す。「これは決定されたことだ。仕方ない」そして、ボタンは押される。
 決定が行動に移され、結果が姿を現した。翌日の新聞はそのことで一色だった。
 男はその新聞を読みながら、その決定されたことと、それが導いた結果に鳥肌を立て、その決定を下した人間に憤りを覚えた。


No.583


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