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ぼくの胸に空いた穴の話

 最愛の妻が死んだ。アクセルとブレーキを踏み間違えた車にはねられたのだ。運転手はブレーキの不具合だと主張し、長々と法廷で争われることになるのだが、ひとつだけ変わらないことがある。
 妻は死んだ。そう、妻は死んだのだ。
 裁判もそうだが、葬儀やその他の手続きもろもろが嵐のようにやって来た。さながらその強い風にもてあそばれる小舟のように、ぼくはどうにかこうにか日々を過ごした。その中で下した判断に、間違ったものが無かったかと問われれば答えはノーだ。あとあと後悔することもあった。しかしながら、あの嵐の中での判断なのだとしたら、それも致し方ないと妻も慰めてくれることだろう。もし彼女が生きていれば。
 そうして、やっとひと息つくことができた。日常への帰還である。仕事に復帰したのだ。妻を亡くした直後に体調を崩し、短くない休暇をもらっていたのだけれど、いつまでもそう休んではいられないし、ぼくとしても日常に帰りたい気持ちがあった。仕事に復帰するのは、日常に帰るのと同義のようにぼくには思えたのだ。とはいえ、それは妻抜きの日常だ。それを日常と呼べるのかどうかには異論を差し挟む余地があるだろう。
 なんだかとても空虚だった。なぜそうやって生活し、生き続けなければいけないのかがわからなかった。それは自転車を漕ぎ続けるのに少し似ていた。漕ぎ続けなければ、失速して倒れてしまう。仕事をし、生活費を稼ぐというのもそうだけれど、空腹を満たすために食事をし、疲労を癒やすために休息を取るということを繰り返すことに意味を見出だせなかった。
 ある休日、玄関のチャイムに起こされた。ぼくはヨロヨロと寝床から這い出し、ドアを開けた。そこには見知らぬ女が立っていた。
「あなたの胸に空いた穴を」と、女は身分証を提示しながら言った。役所から来た人間のようだ。「ふさぐために来ました」
「穴?」と、ぼくは首をかしげた。「胸?」
 ぼくは自分の胸を見た。事故以来、ひどく痩せて薄くなった胸板には、ポッカリ穴が空いていた。
「ああ」と、ぼくは声を漏らした。「穴だ」
「それを埋めに来ました」と、役所から来た女は言った。
「埋める?」ぼくはため息をついた。「どうやって?」
「その穴は」と、女は言った。ここまでずっと無表情だ。「あなたが奥様を亡くされたために空きました。奥様の代わりにわたしがなることで、その穴を埋めるのです」
 もしもぼくの胸に穴が空いていなければ、ぼくは激怒してその女を追い返していたことだろう。ある日見知らぬ女がやって来て、最愛の妻の代わりをすると言い出したのだ。それは妻とぼくの関係性に対する冒涜以外のなにものでもない。しかし、怒るのにもかなりのエネルギーを使うのだ。ぼくは自分の中が空っぽになったような状態だったのだ。押し返そうとしたが、女は譲らない。
「国の制度で決まったことですから」の一点張り。
「制度?」
「心に痛手を負い、胸に穴の空いた人を救済する制度です」
 そんな制度は聞いたこともなかったし、それを使って救済されたいとも思っていなかったのだけれど、女を押し返すだけの馬力の出なかったぼくは、彼女を家に上げたのだった。最愛の妻との日常があった家。そこで始まる赤の他人との生活は、とても日常と呼べるものではなかった。代わりといったところで、ぼくと妻との積み重ねてきたものがすぐに再現できるわけもなく、日々は試行錯誤であり、とてもではないがそれは日常などではなかった。非日常の連続。連続。連続。互いの癖や、嗜好、違いが次第に馴染んできて、言うまでもないことが増えていく。無表情だった彼女の表情が豊かになり、冗談を言い合って笑い合えるまでになった。
 それと比例するように、ぼくの胸に空いた穴はその大きさを狭めていっていた。確実に、埋められようとしていた。それはぼくの中から、妻が消えていっているのと同じようにぼくには思われた。しかしながら、それは不可逆的に進行していた。どうあがいても、ぼくは妻を忘れようとしていた。ぼくの胸の穴は、もう完全にふさがる寸前だった。
 ある晩、ぼくは彼女に言った。「妻のことを、思い出さなくなってきているんだ」
「そう」と、彼女は言った。特に感情の交えられていない声だった。
「君のおかげだよ」
「時間のおかげ。全部、時間のおかげ、わたしじゃないよ」
 ぼくは黙り込んだ。彼女にも、その沈黙の意味がわかったに違いない。なにも言わないでも、言いたいことが伝わるくらいに、ぼくらの関係は深まっていたからだ。
「忘れたくないんだね」
「うん」
「いいの」と、彼女は言った。
「ごめん」
「大丈夫」
「ありがとう」
「ううん」
「たぶん、ぼくらは」と、ぼくは言った。「きっと、死ぬその瞬間にも、どうして自分が生きているのかわからないまま、そのまま死ぬんだろうね」
 彼女はなにも言わなかった。気づくと、寝息を立てていた。
 翌朝になると、彼女の姿は無くなっていた。ぼくの胸には相変わらず穴が空いていた。それでいいと、思った。


No.573


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