兼藤伊太郎

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なにかを信じるということ

 ナンパかと思ったら宗教の勧誘だった。気付いたのは一緒に映画を観て、食事をして、公園を散歩している時だ。そこまで気付かなかった。彼はそんな素振りを見せもしなかった。映画の感想を話し合って、お互いのことを話しただけだ。そこの中に、信仰の話はなかった。
 街を歩いていたら、声を掛けられた。取り立ててカッコいいとかではなかったけれど、感じの良い、優しそうな人だと思った。少し言葉を交わすと、ユーモアのある

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堕ちた天使とわたし

 天使が落ちていた。おそらく、堕ちた天使だろう。道のど真ん中に倒れ込んで、うっかりすると車に轢かれかねない。幸いなことに、これまでここを通ったドライバーたちはみな堕ちた天使に気づき、そろそろとスピードを落として、倒れた天使をよけて通っていた。それなりに道行く人はいるけれど、堕ちた天使なんかと関わり合いになりたくないのだろう。横目でチラリと見るだけで、遠巻きにして避けて通っている。
 わたしは少し悩

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燃え尽きる世界

 朝のニュースでまたひとつ街が燃え尽きたとキャスターが言った。テレビはつけてあるが、夫は新聞を読んでいる。どちらかにしてほしいものだと毎朝思うのだけれど、それは言わない。
「また街が燃え尽きたって」と、わたしはコーヒーを出しながら夫に言う。
「うん」と、夫は新聞から目を離さずに言う。「聞いてたよ」
「どんどん燃え尽きていってる」
「そうだね」
「この世界は、どうなっちゃうんだろう?」
 どこからそ

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ぼくはあなたみたいになんてなりたくない

 人間は理解可能なものしか認識できない。その出来事は少年の理解を遥かに越えていたため、その事について彼にあれこれ何か尋ねても要領を得ない返答しか期待できないかもしれない。
 少年の眼前に、銀色に輝く物体が忽然と現れたのだ。それは立方体で、一辺が少年の背丈の倍はあろうか。なんだ、これは?少年が愕然としていると、立方体にみるみるうちに穴が開き、そこから男が出てきた。男が出て来ると、その穴はまた閉じた。

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釘が打てるもの

 会議室に呼ばれたのは、わたしが提出した案に結論が出たからだろう。わたしが購入を主張している機械に関しての結論だ。
 それを導入することで、効率は飛躍的に向上する。論理的に考えて、これを導入しないという結論はあり得ない。そもそも議論の余地すらないのではないかとすら思えるが、組織というものは議論が好きだし、厳かに結論を下すのが好きなものだ。ある意味では儀式にすぎないかもしれないが、まあそれに付き合

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ご臨終です

 祖父は厳めしい顔付きをしていたものだし、いつも眉間にしわを寄せ、口をへの字にしていたのもあって、厳格で頑固一徹だなんて思われていたけれど、ぼくのイタズラのレパートリーはほとんど祖父から教えてもらったものであるほど、本当はとてもひょうきんでふざけた人間だった。もしかしたら、長年連れ添った祖母ですら、その本性に気付いていなかったかもしれない。少なくとも、父や母がそれに気付いた様子は最後までなかった。

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別料金

 男がドアを開き、レストランに入って来た。夜もかなり更けたころのことである。出迎えるウェイターはいない。もしかして、もう閉店してしまっているのだろうかと男は一瞬不安に駆られるが、それであればシャッターを閉めるなり、鍵を閉めるなりしているだろう。時刻が時刻だからか、店内にひとりも客はいない。男はひとつ息をつき、適当なテーブルを選び、勝手に椅子に腰掛けた。
 テーブルの上に置かれた、だいぶくたびれたメ

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いしつぶて

 人垣が刑場へと続く道沿いにできている。それは果てが見えないほど長い。刑場まではまだ遠い。頭上では灼熱の太陽が燃え、大地を焦がしている。人垣の中にいた彼は、その人の壁の作る道の先、刑場のあるであろう方を見やった。丘の上の刑場は、彼のいる場所からは見ることができない。遠くの人々は陽炎で揺れている。
 人垣には、若者もいれば、年寄りもいる。女もいれば、男もいる。子どもさえいる。あるいは野良犬さえそれを

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ある夏の朝

 夏休みのある朝のこと。
 冷蔵庫を開けると、牛乳が切れていたので仕方なく買いに出ることにした。
 サンダルをつっかけ、外に出る。朝から日差しは強いが、風は爽やかだった。夏の朝らしい夏の朝。風の心地よさに誘われて、少し遠回りして行くことにした。あくびしながら犬の散歩をする人がいた。ネクタイをしめて出勤しようという人がいた。ジョギングをする人がいて、ウォーキングをする夫婦らしき人たちがいた。朝の景色

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空っぽのぼく

 街を歩いていると、人にぶつかられた。不注意でというわけではなく、明らかに故意だった。相手の故意だ。こちらはよけようとしたのだ。それが、その動きを追うようにしてぶつかられた。
 相手は小柄だったが、なかなかの衝撃だった。ぶつかる瞬間に力を込めたようだった。ぼくは一歩後ずさりし、相手を見た。
 ぶつかってきたその相手は女だった。若い女だ。小柄で、華奢で、その手にはなにか光るものが握られている。包丁だ

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