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明治人に見るリーダーシップ論 Vol.3 (2/3)~凡人が見せた非凡な能力、アジリティについて

1.伊藤博文と大隈重信の対立状況下における課題設定と課題の推進

馬関戦争ののち、明治維新が起こり、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の維新三傑が亡き後にあっては、伊藤は、大久保の後任として内務卿となります。そして大隈重信、井上馨などと共に明治政府を主導します。ここから万国対峙できる近代国家に向けた準備が着々と行われていくのですが、この過程で起こった象徴的な事件の一つに明治14年の政変があります。これは伊藤と大隈の対立し、その結果、大隈が政府から追放されてしまった事件です。

まず、この事件における伊藤の課題設定と課題推進に着目してみたいと思いますが、その前に、そもそも近代国家とは何であって、また、どうして近代国家を早急に作らねばならなかったのかについておおまかに述べたいと思います。

そもそも近代国家とは、出自により殿様、農民などの身分が決まり、さらに一部の特権階級だけが意思決定を行うような封建時代の組織体とは異なり、国民の主権を基にした法による秩序の下で、代表者が国家の政治的な意思決定をしていく組織体を指します。

つまり、まず、国の主権は国民が保有します(主権在民)。この権利をもつ国民が、議員という代表者を選出し、代表者は、同じく選ばれたすべての代表者が集まる議会(国民議会)において陳述します。ここで述べられた意思は、議会の多数による承認をもって、法律案や予算案として決議されます。こうした意思決定を行う機関が、立法府です。

続いて、この議会に予算案や検討法令の上申、あるいは議会での決議事項を執行するのが、政府(内閣)で、これを行政府と言い、さらに国内の法令の逸脱を監視し、是正するための機関が司法府です。ちなみにこれは、一般的な株式会社の機関と類似しています。つまり、意思決定機関としての株主総会(立法府)と、業務執行機関としての取締役会(行政府)があり、さらには監査機関としての監査役等が規則の監視を行います(司法府)。

最後に、こうした国民の主権や、議会、行政、司法の独立性(三権分立)、及び人民の自由に関する権利など、国の意思決定に関する決め方のルールがあります。これを定めるのが憲法です。もちろん、この明治憲法の下では主権は国民(臣民)ではなく、天皇にありましたし(君主制)、選挙権は、一部の裕福な人にしか認められていません。その意味で現在の憲法とは異なりますが、近代においてこうした主権や国の意思決定の決め方などを構えた政治的な組織体のことを、近代国家と言います。

では、そもそもなぜ明治政府は、こうした近代国家の設立を急いだのかというと、これは明治日本が幕末に諸外国と締結した不平等条約を改正したかったためです。すなわち、治外法権(悪いことをした外国人を日本の法律で裁けない)および、関税自主権(海外の輸入品の税率を自国で決めることができない)です。これらの問題を撤廃するにあたり、憲法がなく、政治の主体もない、野蛮な国だと思われている限りにおいては、平等条約は認められません。そのため欧米の憲法や、それに基づく政治体制をつくって、万国と平等に対峙できる国家づくりが必要だったのです。

では、この伊藤博文と大隈重信の対立が何かというと、これは憲法の在り方をめぐる戦いです。この事件は、明治14年(1881年)の政変と言います。なぜこの事件が起こったのかというと、この時期は、憲法制定の必要性は理解しつつも、しかしながら、どういう性質の憲法にすべきであるかは、この時期はまだ議論がなされていません。そのため、参議である伊藤博文、井上馨、そして大隈重信が、天皇に対して提出する憲法や、国会開設に関する意見書をもって決めていこうとしています。

当時彼らが傾倒しつつあったのは、プロイセン国(現在のドイツ)によるプロイセン憲法です。というのも、この当時のプロイセン国というのは、産業革命からまだ日が浅く、欧州の中でも田舎国で、しかもバラバラの複数の国をプロイセンの君主が取りまとめることによって成立しています。このプロイセン国家成立の経緯は、200を超える藩で構成されていた日本の状況と、とてもよく似ています。さらに、プロイセンは主権を君主(国王)としており、天皇を主権とした中央集権的な国家形成を目指していた日本からしても、これらの状況はとても好都合だったのです。これを推していたのは、伊藤博文と井上馨です。一方で、当時、首席参議であった大隈重信は、これとは異なり、政党により成り立つ議員内閣制だったイギリス式の憲法を支持します。

ですが、この一件は、見解の相違による問題というより、大隈が仕掛けた裏工作が問題だったようです。というのも、大隈の提出方法は公式な方法ではなく、非公式に太政大臣の一角である左大臣の有栖川宮熾仁親王に提出しています。しかも、この提出内容について、大隈は、伊藤や井上には内密にして欲しいという口添えをしました。ところが、熾仁親王は、これを太政官である三条実美と、右大臣の岩倉具視に見せ、伊藤や井上にも見せた方が良いであろう、という見解の下で伊藤や井上にも内容を明らかにしてしまいます。これを知って激高したのが、伊藤博文でした。伊藤は、大隈が議院内閣制を支持していること以上に、熱海の旅館で日本の新しい立憲体制について大隈や井上と語り合った間柄であったにもかかわらず、当事者への事前伝達をしなかった、この大隈の振舞いを暴挙と見ていた節があります。

結局、この憲法をめぐる議論の対立が深まった中で発生した北海道開拓官有物払い下げ事件などが決断材料となり、大隈重信は辞職に追い込まれます。大隈重信の罷免に向けた活動において伊藤は、事前に、参議をはじめ太政官への根回しを行っています。結果的に太政官、参議の伊藤博文や、井上をはじめとした政府関係者の協議の下、大隈重信の罷免が可決され、明治14年(1881年)10月12日、大隈重信は参議を辞任します。さらに大隈派と称される人々も次々と罷免されます。前島密(後の北越鉄道会社社長)、小野梓(後に大隈と東京専門学校を開設)、犬養毅(後の内閣総理大臣)、尾崎行雄(後の法務大臣であり憲政の神様)、矢野文雄(福沢諭吉の門下生で秀才として知られる)など、錚々(そうそう)たる人物が政府を離れることになります。これらの一連の騒動が明治14年の政変です。

しかし、ここでの特筆すべき点はこの政変そのものではありません。この件で、伊藤と大隈は決定的に決別したように見えますし、事実、大隈は政府から離れ、立憲改進党という政党を立ち上げて、徹底的に政府批判を繰り返します。しかしながらこの後、大隈は再び政界へと返り咲きます。そのお膳立てをしたのは、当の本人である伊藤博文と言われています。

大隈の罷免の後、政府では、やはり条約改正問題が暗礁に乗り上げます。伊藤は、大隈以外にこの局面を脱することはできないと判断し、かつての政敵である大隈重信と何度も交渉を行います。その結果、伊藤は、条約改正の実現に向けた外務大臣として、大隈をアサインすることに成功しています。つまり、伊藤は大隈に政府で活動をさせるという課題設定を行い、またそのための働きかけを大隈に対して行ったのです(しかし結果的には、条約改正は失敗し、その結果、大隈はテロリストから爆弾攻撃を受け、右足を失うことになります)。

ここで見られる伊藤博文の引きずらない変り身の早さと言うか、敏捷性の高さと言うか、伊藤博文の立ち回りの早さに驚かされます。しかし他方で、明治天皇は、伊藤のことについて「時々変節があり、いつまでも仕通すことが出来ず」と、一貫性のなさについて批判的な指摘をしていたようです。それに対して、司馬遼太郎氏は、伊藤には「天成の聡明さ」のようなものがあったとしていますが、もしかしたら、天成の才というのは、こうした一貫性のなさ、という伊藤自身の欠点を補っていたのかもしれません。

さて、以上のように近代国家成立の過程で発生した事件を見てきました。ここで伊藤は特殊な能力を発揮していました。ここからは、近代国家の根幹ともなる憲法制定の過程と伊藤の課題設定を見ていきます。けれども法制定に関わる話は、いささか地味な話のように見えます。(私自身は特に)。しかしながら、これがそのように見えてしまうのは、法による秩序が当たり前として、我々の日常生活に浸透しているからかもしれません。

というのも、現在は法による秩序に支えられているからこそ、日常生活における必要な取引を行うことができています。例えば、民法にみられる私的自治の原則とは、社会の利益に基づけば、いつでも、誰でも、どんなものでも、自由に取引をする権利を認めているものです。ですから、自由取引や、あるいは職業選択など、現代の当たり前の権利すらも与えられていなかった時代の人からすれば、憲法制定は偉大で大きな出来事であり、だからこそ憲法制定の事実が日本の歴史の1ページにしっかりと刻み込まれているのだと思います。その意味で、このような憲法制定の歴史を見ることは、当たり前に気づくためにも意味がある、と言えるのかもしれません。が、これは、また別の機会にて。

引用、参考文献:
司馬 遼太郎 『飛ぶが如く』 文春文庫 1980
司馬 遼太郎 『「明治」という国家』 (上・下) NHKブックス 1994
瀧井 一博 『伊藤博文』 中公新書 2010

2.執筆者プロフィール

システムエンジニアリング学修士
MSCにて営業部門に所属、主に企画業務に従事
鳩居庵
【ライフワーク】
西洋のアプローチを用いて東洋の歴史や考え方を考察するための方法論について研究中

【最近の関心事】
・世阿弥の『風姿花伝』にみる競争戦略について
・『日本永代蔵』にでてくる三井高利の戦略人事について
・偶然性と創発性について

【日々研鑽】
・木を見て、森も見る
・多様性、集合知、創発性
・まことに日々に新たに、日々日々に新たにして、また日々に新たなり

会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円 (令和 2年12月31日)
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント

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