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「不安を感じやすい人」「自分に自信がない人」は、自分のことばかり考えているという事実。 HSPという言葉が嫌いな私と、不安のメカニズムを知るということ。

突然なのだが、私はなんとなくHSPという言葉が好きではない。
正直 なんとなく、不快感を感じる。
HSPを自称している人のことも、なんだか苦手で、モヤモヤしてしまう。

HSPという言葉の、痛い感じと、
商品化されてビジネスにいいように利用されているところも
なんだか苦手だ。

この、利用されている感じが、哀愁があるような切なさというか、辛い。

HSPのように、流行語のような雰囲気をまとって世に出回る言葉。それを使ってデコレーションを始める人たち。

HSPは、いわばわかりやすく表面に出ている不安や過敏の症状に着目して、それを自己チェックすることによって、自分の過敏さを把握したうえで、無理をしないとか、人とのかかわり方を工夫するための物であったはずだ。

その自己チェックの結果を振りかざして他人に配慮を求めるとか、
アピールする類のものではないと思っている。

悲しいけれど、自分で思っているほど、他人は人のことにそれほど興味が無い。

何故こんなことが起きるのだろうか。

HSPの自己診断で書かれていることは、発達障害で生じてくる感覚過敏とも重なることがある。自己診断の結果で、HSPを自称するのは個人の自由だと思うのだが、困り感が強くて周囲の人間関係でも何らかの困難感やストレスが強い場合、根底にはASDやADHDなどの神経発達症が隠れている人も一定数いるのでは、と思う。

今回は、そういった診断や分類は抜きにして、
「不安」という感情について焦点を当てたい。


「社会不安障害」から考える、不安と前頭葉の結びつき

心が追い詰められると、不安が不安を呼び、
人目が怖くなるという現象が起きる。

パニック障害や、社会不安症を発症する人は、対人に対しての責任感が強かったり、実は完璧主義であったりする傾向が認められている。

社会不安症は、以前は対人恐怖症とも呼ばれていた。

人前に出ると赤面してしまうのが怖い(赤面恐怖)、人前で話すのが怖い(スピーチ恐怖)、視線が怖い(視線恐怖)などもここに含まれるが、
社会不安症は、これらの症状が起こること、起こる可能性のある場面に強い不安や恐怖を感じる。
そしてその可能性のある場面や場所を避けるようになるわけだが、
ひどくなると、恐怖や不安のあまり家から出られないとか、
対人恐怖が強くて仕事に行けないなどの支障を来すことになる。

実はこの社会不安症にも、脳の働きは強くかかわっていて、
社会不安障害の人は、脳の扁桃体というところが不安や恐怖を感じやすく、かつ不安が生じたときにそれを抑える前頭葉の働きが弱いと言われている。

前頭葉というと、ADHDの人の前頭葉の血流量が平均よりも少ないという研究結果がある。

ADHDの人が不安を感じやすかったりするのは、経験的に色々と不安感を持ちやすい状況になった経験、対人関係での失敗や苦労を繰り返して自信がなくなるとかの状況もあると思うが、実は根底にはもともとの創りとして不安を感じやすい脳みそをもっているのかも、という仮説を立てて考えてしまう。

前頭葉の働きが悪いという事は、湧き上がる不安を押さえる力が弱いという何とも切ない事実なわけだが、これを知っているだけでも、不安の軽減につながる可能性がある。

自分の状態を知ることで、不安が生じたとしても、対応していく手だての一つを考えることはできる。

不安や人が怖いという人は、自分のことばかりを考えているという事実。

残念ながら、不安を感じやすい人は、もともと生まれ持った脳のつくりとして、前頭葉の働きが弱いかも、というのがあるということはわかった。

しかし、実はその事実を念頭に置いておくこと、
知識として知っていることがひとつの助けになる可能性がある。

不安が生じることは止められない。
むしろ勝手に湧き上がってくるのが不安をはじめとする感情というものだ。

大事なのは、ここから。

まず、対人不安を感じる人、緊張しやすい人、人の評価や人の視線を気にする人というのは、相手や周囲の人についてをいつも思考しているととらえがちだが、
「実は自分のことばかり考える状態」に陥っている。

人のことばかりを意識している状態というのは、裏を返すと、
「人から自分がどう見えているのか」をひたすらに意識している状態だともいえる。

自分は、暗い人間と思われていないだろうか?
今の言い方は、ネガティブに捉えられていないかな。
自分の顔、太っていると思われているんだろうな。
今日の服装、ダサいと思われているかもしれない。
足が短いって思われているんだろうな。
友達いなそうって思われているかもしれない。

人は自分に対してネガティブな評価をして、
他人の目を意識する。
そして他人から拒否されることを恐れる。

文字を打っていても切なくなるのだけれど、
人間は悲しいほどに他人を意識するストレスにさらされる生き物だと思う。

他の動物、虫などの生き物は、生死がかかるような場面で他者を意識するが、人間の場合は生死がかかっていなくとも周囲を意識し、劣等感や不安など、複雑な感情を抱える。

さて、少し話がそれてしまったが、
不安や対人恐怖が襲ってきたときに、
その感情をどうにかしたいと思った場合の対処法は2つある。

1つは、不安の正体は前頭葉のはたらきの弱さに由来しているという事を思い出すこと。
実際に自分が感じっている不安は、実感・体感としてとてつもなく大きいものかもしれない。

しかし、それは自分自身の脳の機能の問題なのかもしれないのだ。

本来「50」で済むはずだった不安を、自らの脳が「100」と感じるように処理してしまっているのかも。

そのことを知っているだけでも、自分が自らの手で不安を増大させていることを客観的に、俯瞰的に考える視点を持つことができる。

不安というのは、正体がわからないことで増大する枠も形も質量もないものだ。

大きくもなれば、小さくもなり、

それは捉え方の癖にもよる。

実は、感情が沸き上がるという1段階目に対し、2段階目でその大きさをコントロールできる可能性を持っている感情なのだ。

2つ目は、人が案外他人のことをどうでもいいと思っているという事を思い出すこと。

よく思い出してみてほしい。
今日話した相手の服装について、いったい何人思い出せるだろうか。
洋服の色を覚えているだけでも凄い。
いつも同じ色の洋服を着ている人と頻繁に会っているというのでない限り、
たとえば私服について、洋服の色やデザインまでを記憶している人は実は少ない。

対して、自分のことは、すごく意識をすると思う。
「前回会ったときに、同じトップスを着ていた。また同じ服着てるって思われてしまうんじゃないかな。」と、
気にしたことがある人は多いはずだ。

しかし実際は、相手は全く洋服の詳細なんぞ覚えていない。
なぜなら、相手の服装というものは、
スーパーで会う人の情報と同様、重要度の低いものなので、
人間の脳はそれを記憶しようとしない。

対・人

ここで緊張や不安を感じる人は、
相手は自分が意識しているほど自分のことを考えていないという事実を思い出そう。

自分が自分の不安に目を向けているように、
相手も自分のことばかり考えているはずだ。


と、ここまで好き勝手に持論を述べてきた。
HSPについても少し批判をしてしまった。
不快に思われた方がいたら申し訳ない。

ちなみに、HSPを自称するとすれば、私も自称することはできるだけの症状は色々と持っているとは思う。
しかし私は、HSP特性は自分用に使う言葉だと思うので、
他者に向けて自称することはしないつもりだ。

HSPは、よく書籍などを読んで、関心が高い人間の間では、
性格の特性として「怒りっぽい」とか「神経質」とかと同様
「繊細」ということで自称してもいいかもしれない。

しかし、まだまだ誤解を与えそうな段階で、
知っている人、知らない人が別れる性格分類だと思う。

このように言葉の意味が浸透していない時に
一部の人が主張の材料として語を使うと、
中途半端な知識や、誤解されたイメージなどで
好意的ではない余計な批判をされてしまうことが起こりがちだ。

相手に自分を理解してほしいときに使ってしまうと、
かえってネガティブに解釈されてしまうリスクが高い言葉だと思う。

発達障害も、似たようなもので、
まだまだ、言葉やイメージだけが先走って、
他者に理解を求めるような場面で診断名をシェアしたところでうまくいかないことが殆どなのでは、と感じている。

マイノリティというのは生きづらくて大変だ。

せめて、「不安」という一つの感情を和らげて、
穏やかに暮らせるようにしていきたいものだ。







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