愛のかたち
今年のクリスマスは沖縄で過ごすことにした。
政府が新型コロナウィルスの影響による経済の低迷を打開するべく、打った対策の一つが「GoToキャンペーン」である。
そのキャンペーンの一つである「GoToイート」は、オンライン予約サイトで予約して来店すると一回の食事につき最大1,000ポイント付与され、それが次回の食事代として使えるということで、僕も利用させていただき、先日そのポイントで食事したばかりだが、これは国の予算の上限に達したということでもう終了した。
もう一つの「GoToトラベル」は、旅行代金の最大35%を国が負担してくれ、更に旅行代金の最大15%分の地域共通クーポンが貰え、尚且つ旅行代金の実質最大50%の割引を受けられるというもので、大分前に予約させていただいたが、これも新規での予約に関してはとっくに対象外になった。
しかし、実は、現時点で足元の感染者が日本全国で急増している最中であるため、今後、この「GoToトラベル」の都内からの出発が中止される可能性もある。
今年、全然思い出づくりのできなかった僕としては是非行きたい。
沖縄にしたのは色々な理由があるが、まだ行ったことがないということの他に、できれば東京とは全然風景の違う場所に行きたいという思いがあったからである。
人間は都会に住んでいると緑や海などの自然が恋しくなるもので、自然豊かな田舎に住んでいると都会に憧れるものである。
アフリカの発展途上国から東京へ初めて旅行に来た人の手記を読んだことがあるが、普段、東京に住んでいる人間には気づかない視点があって興味深く読んだ。
その人の感想では東京の電車やビル、あるいは、雑踏の一人一人の人間までがまるでこの世のものとは思えない非現実的な事物に見えたという。
東京に住んでいる人間は、毎日のように目にする都会の悪い面に時にはうんざりするほどの不快感を覚える。
息苦しい満員電車、悪臭を放つ繁華街のゴミ、それらを漁るネズミやカラスなど。
しかし、殆ど大自然しかないアフリカの荒野に住んでいる人々にとっては何もかもが新鮮に映る。
それはアフリカの見渡す限り自然しかないような環境に住んでいる人々にとってはそれが日常であるのに対して、東京という都会は全くの非日常的な風景であることに他ならない。
しかし、日本に住んでいる我々も時として日常と非日常を行ったり来たりする。
若い人にとって恋愛は非日常という側面がある。
普段、仕事をしていれば毎日のように同じ職場で同じような人と顔を合わせ、働かざるを得ない。
「もうこういう生活はうんざり」と思ったとしても、生活のためには投げ出す訳にいかない。
そういう日常を否応なしに経験させられている人にとって、好意を抱いている相手と週に一度でも会って、お洒落なレストランで食事したり、バーで飲んだり、ホテルで過ごしたりするのは楽しい時間でない筈はない。
普段の日常をひと時でも忘れられるのであれば楽しい時間でなくてはならない。
僕自身、若い頃モテなくて真剣に悩んだ時期もあったが、多少はそういう恋愛も経験したことがあるのでわかる。
若い頃は彼女のいない時、街で幸せそうなカップルとすれ違うと羨ましくて振り返って見たりもした。
しかし、今は幸せそうで浮かれたカップルを見ると、幸せそうに見えれば見えるほど二人の恋の儚さを想像せざるを得ない。
どんな恋でも夢のような楽しい時間なんて長く続く筈はないからである。
しかし、そういう甘い恋愛というのは儚いからこそお互いにとって大切な時間であるのかもしれない。
いつかこの関係も終わってしまうのではないかという不安が心の何処かにあるからこそ、離れたくないという想いも強まるのではないか。
日曜日の夜、駅で改札を通る前に別れ惜しそうなカップルを見る度そう思う。
誰もが理想とする結婚とは恋愛の延長としての関係ではないだろうか。
恋愛している時のようにお互い新鮮で楽しい時間が結婚してからも続いてほしいと願う。
勿論、そう上手くはいかないと心の何処かで思っていたとしても、理想としては誰もがそうあってほしいと思う筈である。
しかし、結婚して短い期間で離婚してしまう夫婦も多い背景には、恋愛している時には気づかなかった相手の嫌な面に気づかされたという理由も少なくないように思う。
これは前述したような普段の日常とは全く異なる風景の場所へ旅行へ行った時に例えられるのではないかと思った。
そして、結婚というのはその場所にずっと住み続けることに似ているのではないか。
外国へ長期滞在、あるいは、永住目的で渡った人の中にはそのまま居続ける人と帰ってきてしまう人がいる。
日本とは環境も歴史も文化も違う国に行けば最初のうちは何もかも新鮮に見えるに違いないが、やがてその国の悪い面も段々気づいてくる。
その悪い面を受け入れられない人はその国を去っていき、受け入れられる人はそのまま居続ける。
愛とはこういうことだと思う。
相手の悪い面も含めて愛せるかどうか。
しかし、愛と一言で言っても、この世には様々なかたちの愛がある。
僕はこのエッセイに「愛のかたち」というタイトルを付けたが、愛には形というものはない。
しかし、人間は同じ人間に対しても、また、物事に対しても色々な愛を持っているということを表現したくて、敢えて「愛のかたち」と付けた。
マザー・テレサは生涯を貧しい人々のために尽くした。
彼女の人々に対する愛は、人間の人間に対する愛であった訳だが、それは別の言い方をすれば、神の人間に対する愛でもあった訳である。
そういう愛もある反面、現実の世界には様々な愛のかたちがある。
「彼女のルックスが好きなんだ」
「彼氏のファッションセンスが好きなの」
相手の良い面によって自分の自尊心を満足させることができるのであれば、それ自体、相手の自尊心も満足させることができる筈だから、それは一つの愛のかたちだと思う。
付き合う相手はどういうかたちであれ、自分の自尊心を満足させてくれ、また、相手の自尊心も満足させられる相手でなくてはならないというのは僕の経験上持つに至った持論である。
「妻は家事を怠らずにしっかりやる」
「夫は仕事には人一倍真面目なの」
結婚相手に誠実さを第一に求める人が多いのは自然なことだと思うが、結婚は生活だと割り切った関係であっても、それも一つの愛のかたちである。
僕は結婚というものをそんなに難しく考える必要はないと思っている。
結婚というのは男女が一緒に生活して人生を歩んでいくということである。
人生をともに生きていく伴侶なら嫌いな人より好きな人のほうが良いに決まっている。
だから、愛は大切である。
男性より結婚によって人生が左右されかねない女性にとって、結婚は「人生のゴール」のように考えてしまう傾向があるのはよく言われることである。
だから、慎重になり過ぎたり、考え過ぎてしまいがちである。
僕自身のことを言えば、妻とはある日突然出会ったにも関わらず、妻が「ずっと前から知っているような気がした」と言い、僕も同じように感じていた。
何かそこには理屈では割り切れない運命の巡り合わせのようなものを感じた。
運命というのは理屈では割り切れない、人間の力ではどうすることもできないものだからこそ運命というのだと思う。
人生の流れに身を委ねるという大らかな姿勢も大切だと思う。
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