優しいは難しい~Caritasからの脱却~

こんにちは。特別支援学級教員13年目のMr.チキンです。新学期が始まり、怒涛の一週間でした。今学期は”楽しいイベントを一月に一つ以上!”をモットーに担任で力を合わせて学級運営しています。このことについてはいずれ別の記事で。
さて、今日は”優しいは難しい”ということについてお話しさせてください。

特別支援学級の教員は優しいのだろうか?

特別支援教育教員は優しい?

学生時代から「特別支援教育に携わっている」と言うと、

すごい!優しい方なんですね。

と、妙な人格のハードルの上げられ方をしてしまいます。
特別支援学級教員は優しいのでしょうか?優しい人はいるかもしれませんが、特別優しいという訳では無くても、優秀な教員はたくさんいます。
おそらくそれは、世間一般と同じくらいの比率なのだと思います。
それでは、なぜ、特別支援学級教員=優しいというイメージがあるのでしょうか?

特別支援教育と”Caritas”

大学院で社会福祉論を学んでいると、

それは古来《Caritas》として、或は少なくとも之れに類似の精神を持つものとして、多くの宗教団体の活動によって担当されてきたものである。

大河内一男「我国に於ける社会事業の現在および将来ー社会事業と社会政策の関係を中心としてー」

という文章に出会いました。大河内一男という経済学者の論文です。我が国の社会福祉学はここから始まったと言われています。
社会事業や福祉的なものは《Caritas》=”愛,神愛,愛徳”で行われてきました。でも、愛というのは人や時代によって基準が変わります。また、愛は突然無くなることもあります。とても不安定なものでした。
社会福祉や特別支援教育の歴史は、科学性・客観性を基準にして、Caritasのもつ不安定さから脱却する挑戦だったといっても過言ではありません。

優しい教員であるための”脱Caritas”

ただ、”特別支援教育=優しさ”という構図が未だに残る背景には、きっと、まだこの名残があるのかもしれません。
もちろんこれらの話は大きな枠組みの話であるので、私個人としては優しい教員でありたいとは思いますが、30代になり、改めて”教員として優しくある”ということの難しさを感じる日々です。優しくあるためには科学性・客観性が必要なのだと考えるからです。たとえCaritasが始まりだとしても・・・です。

優しいは難しいものだ

優しさは気付きから

”優しい”という言葉を辞書で引くと

他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。

goo辞書より

という意味があります。”優しい”をするには相手を思いやらなくてはいけないのです。それが特別支援教育の場合は難しいのです。

  • 見た目には変わりのないように見えるが、実は困難を抱えている。

  • 他の人が困らないようなことで、実は困難を抱えている。

  • 本人も困りに気付いていないけれど、実は困難を抱えている。

このように困難が見えやすいとは限らないのです。相手の心や考えがブラックボックスだとすると、我々はそれを覗くために心理学や社会学を学ぶ必要があります。

優しいを押し付けない

さらに

  • 困難を抱えているのに気付いておらず、教えてほしい

  • 困難を抱えているのに気付いていないが、放っておいてほしい

  • 困難に気付いていて、助けてほしい

  • 困難に気付いているが、自分で乗り越えたいと思っている。

というように、困難に対する支援のニーズも様々です。
ニーズを汲み取る力が無くては、独善的な実践にすぎない状態になるでしょう。特別支援学級教員にカウンセリングマインドの習得が必要なのはそのためです。

実際の場面で考えよう

上記の記事を考えてみましょう。

不安や恐怖を感じないで済むようにして、安心して話せるための対応をしていくことが大切です。園や学校の先生はもちろん、自治体の保健師や心理師など専門家の力も借りてください。

ただし、話せるようになることだけがゴールではありません。不安や恐怖を感じずに、その子らしさを十分発揮できるようになることこそが本当のゴールです。どういう配慮がいいのか、してほしくないのかも人それぞれ違うので、まずはその子の話をちゃんと聴いて、その子に合わせた対応をすることが大切です

上記の例で言うと、”話すことが難しい”という状況の”場面緘黙症”のある児童がいたとします。
場面緘黙症の知識が無いと、”話すことができないのならば、話せるようにしてあげなくてはいけない!”と思ってしまいます。それを優しさだと思ってしまう危険性があるのです。
さらに、ニーズを汲み取る力が無いと、”場面緘黙症の子はこうだから”と、本で得た知識に当てはめて支援を組み立ててしまいます。
文字で書くと容易に聞こえますが、実際に本人を目の前にした時に、どこにニーズがあるのかということはとても難しい問題です。昨日のニーズが今日のニーズとは限らないという流動性もあります。
優しい”というものは、このように難しいものなのです。

組織が優しくならないと、個人は優しくできない

専門職としての葛藤

組織の中で、”優しくする”というのは難しいこともあります。
特に、教育というものは”厳しくしつける”ことを善とする伝統的な考え方があります。
国語には”話すこと”という身に着けさせるべき資質・能力があります。その側に立った時に、先の”場面緘黙症”の例に対して、果たしてどこまで

話させることを目標としない。安心できる環境を整えることを重視する。

をやり遂げることができるでしょう。具体的には評価の場面で出てきます。

”話すこと”をしっかりやっている子と、そうではない子、同じ基準で評価すべきではないか?前者は”5”で、後者は”1”だ。

という考え方と対立するということになるのです。
学ばせるべきことを学ばせるべきだという全体的な善と、安全基地を作ることを優先すべきだという個人的な善は、時に対立します。専門職として葛藤するのです。特別支援学級教員としては、できる限り個人的な善を優先したいと私個人としては考えています。

組織を動かすための”言語化”

教員として”優しい”を実行するためには、教員個人だけでは難しいということがお分かりいただけたと思います。組織が優しくならないと、個人は優しくできないのです。
学校全体のカリキュラムや、学校全体のルールを一時的に、もしくは部分的に変えなくてはいけないということ。そのためには個人のCaritasでは難しいのです。言葉にして、相手を説得していかなくてはいけない
組織を動かすための言語化ができるかどうか。特別支援学級教員の専門性は、実はそこにあるのかもしれません。
では、またね~!

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