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死にたいとそれ以外の狭間で生きている


私は、もしかしたら、死にたいと思った回数は人よりも少しだけ多いのかもしれない。


でも、まだなんとか生きているので、毎回、死ぬこと以外の選択肢を取っているということになる。


でも、それは自分だけではないのだろうと思う。

皆、死にたい、辞めたい、休憩したい、と思うその瞬間、でも、違う選択肢をって、なんとかやってきたのだろう。


だから、私達は生きている。


今も、こうやって生きているのは、死ぬことを選ばなかったからだ。


生きたい人だって世の中にはいる、なんて綺麗ごとに親身に向き合える程、余裕はない。生きたい人が生きることができず、死にたい人が簡単に死ねない世界という不公平さもまた、自分の死にたいという想いを加速させる。


一度、乗り越えたから大丈夫なんてことはなく、いつだって私は、死にたいとそれ以外の選択肢の狭間で生きている。


少し、外にでて春の風を感じれば、「何故生きいるのだろうか」という思いが内側から沸々と湧き上がってくる。

桜の木を見て、「綺麗」だと思ったことなんてなく、散った花びらを見下ろし、短い命に憧れを抱く。


そういえば、8日目の蝉に例えて死ぬまで音楽していたいって歌ってる曲があった。自分は、7日間で死ぬ命だとしても、「生きたい」と思うことはないのだろうか。それとも、生まれた瞬間に、死ぬ時が決まっているほうが生き甲斐を見つけてしまうのだろうか。


あゝ理不尽だ。


このちっぽけな世界は不公平や理不尽なことで埋め尽くされている。


願うだけじゃ叶わない。


夢も、

希望も、

死にたいという欲求ですら、


報われない。




いっそのこと「君は世界一不幸だ」と認定された方が楽だったのだろう。そうすれば、仕方ないと、笑える理由ができる。

いちいち、「どうして自分だけ」と問わずに済むのだ。


世界一不幸な美少女をテレビの前で笑っていた自分は、きっと将来、死ぬか生きるかで悩む時がくるなんて知り得ない。

だんだんと、自分と周囲のズレに気づいてきた時にはもう、自分自身が下す不幸ランキングでは下位に位置づけられているに違いないのだ。



そして、なんとか、生きている自分を保持しようと、仮想の自分より不幸な人達について考える。そして、また「神様は乗り越えられる者にしか試練を与えない」なんていう綺麗ごとに身を寄せる。


そうしないと、自分の存在価値とやらが分からなくなってしまうからだ。


誰かの為に生きることより、

何かをやり遂げる為に生きることより、


自分はまだ一番不幸ではないと妄想することでしか、


生きることを続けられない自分は、醜い。


しかし、いつだってそんな風に生きてきたのだ。


ママ友同士の喧嘩が発端で、「あの子は悪い子だ」と理不尽に仲間外れにされた時も、

クラスの人気者と同じ筆箱を持っていただけで悪口を言われた時も、

「仲良くしたくなくなった」って、高校にあがった途端無視された時も、

変質者に遭遇し泣きながら家に帰っても、真っ暗で誰も居なかった時も、



私は、いつだって、誰かが背負いきれない不幸を、

自分が少し手伝って"あげて"いるのだと、信じ、生きてきた。


そうだ。自分は他人よりも強いから、他人よりも不幸が多いのだと都合よく変換し生きてきた。

自分の弱さと向き合う前に、虚像の強さを作ることを覚えてしまった。



人間は、

儚く、

脆い。



耐えきれないこの、辛さを与えられる人間は選別なんかされていない。

そう考えた途端、崩れてしまいそうになる。


この、不公平に目を向ければ、いよいよ、どうやって生きていけば良いのか分からなくなるのだ。


こんな時だってそうだ、運よく感染して、それなりに、感染経緯をツイートし皆の役に立ち、綺麗に命を終えることができたならと、頭のどこかで考えている自分がいる。


自分が不幸であることに耐え切れないにも関わらず、「死」という最大の不幸は望んでしまう。


「生」にもこんな風に強欲になりたい。






何度も、「もう少しだけ」と、

違う選択肢に手を伸ばしてきた自分達は偉い。



「死ぬ」を選びそうになった時、

この文字を見返して、

「こいつよりましかもしれない」と

利用してくれ。




何度も、

何度でも、

何度死ぬことを考えたって、

実は、それが一番人間らしいのかもしれない。






p.s


ちなみに、おんぷちゃんが一番好きでした。

文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.